第57話 落葉

 日々空気が冷たくなっていく。地面に落ちた枯葉が秋らしさを演出している駅までの道を、椿は乃々華と並んで歩いていた。少し大きめの枯葉を踏んだようで、カリカリと小気味良い音が鳴る。

 椿が乃々華と二人で外出する理由は、乃々華のプレゼント選びを手伝うためだ。父親の誕生日が来週に控えている状況にあるものの、何を贈るのが最適解なのか未だに答えが出ないらしい。考え抜いた結果、乃々華は男性の意見も取り入れながら選ぶという発想に行き着いたようだった。

 

「椿さんとお出かけなんて久しぶり! 何だかワクワクするわ!」


 乃々華の嬉しそうな声が耳に届き、椿は顔を向けた。その表情は幸せに満ち溢れており、見ている椿が照れ臭くなる程に眩しい。


「それは良かったです。が、目的を忘れないでくださいね」


「大丈夫よ!」


 乃々華は自信満々に答えると、右肩からずり落ちかけているベージュの合皮トートバッグを掛け直した。持ち手に付けられたピンク色の熊のキーホルダーが小さく跳ねる。

 地面に落ちている小さな枯葉が秋風に巻き上げられ、カラカラと音を立てながら転がり二人の間を通り抜けた。乃々華の着る秋らしい朱色のワンピースも、その風を受けてたなびく。


 福島駅のホームに到着したタイミングで、丁度外回り列車が入線して来た。車内の混雑具合は七割程で、日曜日という関係もあってか平日とは客層が違う。未就学児と思われる小さな子供や、綺麗に着飾った若い女性達、還暦を迎えているであろうお年寄りまで様々である。


 隣の大阪駅までは約二分。車内でトラブルが起きることなどなく、平和に乗車時間を終えた。降りた先に見える内回りホームは、UWJへ向かうらしいカップルや家族連れでかなりの混雑を呈していた。大きなキャリーケースを引いている旅行客と思しき者も多い。

 歩くのにも苦労しそうな光景を横目に見ながら進み、エスカレーターで三階コンコースへと上がる。連絡橋口改札を抜けた先で、後ろを歩く乃々華を振り返った。

 

「では、どのお店から参りましょうか?」




***




 乃々華が指定したのは駅直結の百貨店だった。メンズ店が多く入居する九階フロアへはエレベーターで向かうのが最も早い方法ではあるが、百貨店のエレベーターというものは毎度の如く混雑している。多少時間はかかるがエレベーターを待つよりは早いと判断し、地道にエスカレーターで移動する方法を選んだ。

 たわいもない話をしながら辿り着いた九階フロアには静かな時間が流れており、仄かに本革製品特有の香りが漂っている。


 そんなフロアの香りにつられてか、一店舗目に選んだのは革製品を扱う店だった。乃々華はバッグや財布を熱心に見て回っていたが、どうやら予算内に収まらなかったらしい。二店舗目はスーツ店。お洒落なネクタイを贈ろうかとも考えたようで生地や柄等をじっくり吟味していたが、父親の好みに自信がないとの理由で断念。

 

「乃々華さんから贈られたものなら何でも喜んでくださいますよ」


 深く悩んでいる乃々華に対して椿はそうアドバイスしたが、乃々華は強く首を振った。


「身近な人だからこそしっかりと選びたいの」


 その返答は実に乃々華らしいと椿は思った。身近な存在を当たり前と思わずに大切に接する心の暖かさが伝わってくる。恐らく、それには母親の死も影響しているのだろう。当たり前はいつまでも続かないと知っているからだ。

 

 その後も乃々華は様々な店を見て回っていたが、いずれも決定打に欠けるようで購入には至らなかった。

 そして、今は六店目に向かう途中である。しかし乃々華がお手洗いを要望したため、椿はそこへ向かう曲がり角の手前に立って戻るのを待っていた。

 フロア内の客は来店した時よりも増えているようで、人々のざわめきがいたるところから聞こえてくる。活気ある空気へとゆっくり変わっていくのを肌で感じながら、椿は天井を見上げてため息をついた。


 ――煙草が吸いたい。


 突如として高まった喫煙欲求に心が乱されてしまい、どうにも落ち着かなかった。煙草の味わい、幻臭……様々な要素が椿を喫煙所へと誘ってくる。

 幸いこのフロアには喫煙所が設置されているが、乃々華は椿の喫煙を良く思っていない。隠れて吸いに行っても、必ず臭いでバレてしまう。辛いが、ここは堪えるしかないだろう。


 一先ずチョコレートでも食べて気を紛らわせようと、椿はトレンチコートのポケットに手を入れた。そこには、小箱に入った個包装のチョコレートが入っている。息子がくれた物と全く同じ商品であり、椿にとって初めて口にしたチョコレートだ。

 それを取り出そうと掴んだ瞬間、突如激しい耳鳴りを感じた。


 ――何だ?


 ヒビの入ったガラスを潰すようなパキパキという甲高い音。鳴り続けるその音に呼応するように、突き刺すような頭痛までもが発生し始めた。

 全身を戸惑いと強い不安が襲う。そんな中、更に別の不快感に蝕まれた。ヌルヌルとした粘着質の塊が体の内部を掻き分けて落ちていくような気味の悪い感覚。その塊が移動する音なのか、湿り気のある音が耳鳴りに混じって聞こえ始めた。


 ――何なんだ、一体!


 チョコレートの小箱を掴んでいた手をポケットから抜き、側頭部を押さえるようにして触れる。すると、唐突にしてそれらは止んだ。遮断されていた人々の話し声や物音等、周囲の音が戻ってくる。

 何ら異常のないそれらの音に安堵してほっと息をついた時、「あの!」と不意に声をかけられた。


 椿は声の聞こえた方へと顔を向ける。二十代と思しき女性二人組が、椿にうっとりとした視線を送っていた。緊張しているのか恐る恐る距離を詰めてくる彼女達に、「どうされましたか?」と椿は優しく微笑みかける。すると、女性達の目はますますとろけた。


「いえ……その、凄く格好良いなと思って」


「何か、モデルとかされていますか?」


 甘ったるい猫撫で声でそう問いかけてきた女性達に対し、椿はやんわりと首を振る。

 

「いえ、何も」


 その返事が衝撃的だったのか、女性達は大きく目を見開き口元に両手を当てた。実にわざととらしい仕草だ。


「え! 勿体無い!」


「絶対売れるのに!」


 本心なのか、それとも男の気を引こうとしているだけなのか。相手の目的がいまいち掴めないが、とにかく厄介な人間だということは分かる。

 その予想通り、椿に関する様々な情報を聞き出そうとし始めた。年齢、仕事、恋人の有無……椿はそのいずれにも「ご想像にお任せします」と答え、はぐらかした。得体の知れない人間相手に話せる情報は、生憎持ち合わせていない。


 ――さて、どうしたものか。


 追い払いたいが、手荒な真似はしたくない。かと言ってこの場を離れると乃々華が戸惑ってしまう。はっきり迷惑であると伝えても、大人しく離れるようには思えなかった。女性達は未だに質問を投げかけてくる。諦めようとは思わないのだろうか。


「お待たせ、椿さん!」


 対応策が思い付かずに頭を抱えている椿の耳に知った声が届いた。救世主の帰還に、張り詰めていた緊張の糸が一気に緩むのを感じる。

 振り向くと、ハンカチで手を拭きながら向かって来る乃々華の姿が目に入った。乃々華さえいれば切り抜けられる。椿は乃々華を不思議そうに見つめる女性達に再び向き直ると、優しい口調で告げた。


「姪が戻って来ましたので、これで」




***




「どうして姪という設定にしたの? 娘でもいいのに」


 乃々華が、やや不満そうな口調でそう問いかけてきた。


「その方が、きっと相手も素直に諦めたわ」


 その意見には一理ある。乃々華を連れて歩き出したにも関わらず「もう少しお話ししましょう」という声が背後から飛んできた時は、呆れを通り越して寒気がした。恐らく、可能性が微塵でも残っている限り諦めきれない性格なのだろう。是非、その諦めの悪さを別方向に向けて欲しいものだ。


 しかし、そんなことを考えるのもここで終わりだ。これ以上考えて更に気分を害してしまえば、気持ち良く乃々華とプレゼントを選ぶことができない。

 気を取り直して、次の店舗で何を探す予定だったのかを思い出していると、「椿さん」と乃々華に名を呼ばれた。


「何でしょう?」


「姪だったら……手、繋いでもおかしくないでしょう?」


 どうやら姪という設定は乃々華の中でまだ生きているらしい。僅かに頬を染めて見上げてくるその顔を見ていると、駄目だと返すことはできなかった。


「お好きにどうぞ」


 判断を一任すると、乃々華は微笑みながら椿の手に指を絡ませてきた。手のひらを密着させるように力を入れる。その繋ぎ方に、椿は覚えがあった。


「乃々華さん……これは、恋人同士がする繋ぎ方では?」


「いいの!」


 聞く耳を持たない乃々華に、ついため息が漏れる。乃々華は頑固なところがあるため、言い聞かせても止めようとはしないだろう。機嫌を損ねないためにも放っておくのが一番だ。


 ――もし知り合いに遭遇でもしたら、何と言い訳するつもりなのだろう。


 そんな椿の心配も他所に、乃々華は家を出たときよりも嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

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