第56話 小脳に刻む

 何故しりとりなのか。その理由を尋ねる隙は与えられなかった。しりとりをするのは小学生の時以来のような気がするが、この状況では素直に懐かしさに浸ることなどできない。


「じゃあ俺からいくぞ。『てつどう』」


 鉄輪は鉄道員らしく鉄道から始めるらしい。鉄道の最後の音は『う』。


「じゃあ……『うさぎ』」


「『ぎゅうにゅう』」


「また? えっと『うなぎ』」


「『ぎんこう』」


 回ってきたのは、またしても『う』で終わる単語だった。嫌がらせのつもりなのか、将又はたまた本来の性格がそのような戦法を取らせているのか。


「もう! 連続させないでくださいよ!」


「ルール違反じゃないからな」


 ルール違反でなくともマナー違反ではないのか。そう言い返したい気持ちをグッと堪え、和也は『う』で始まる三つ目の単語を探し出すべく集中した。

 咄嗟に『うし』と返しかけたが、『しんきろう』と返される可能性がある。ここは別の回答にするべきだろう。再度考えに浸る和也の頭に、次に繋がる単語が唐突に浮かび上がった。同一文字の連続から抜け出したい一心でその単語を返す。


「『うずら』!」


「『らんおう』」


 最早怒ることすらできなかった。寧ろ、よくここまで最後の文字を同じにできるなと感心してしまう。

 『う』で始まる言葉はまだ残っていただろうか? と頭の中の単語帳を掻き回していると、全身を包んでいた浮遊感が突如として失われた。


 ――しまった!


 そう思った時には遅く、既に落下が始まっていた。体が回転するようにして頭が下を向き、コンクリート製の床へと一直線に落ちて行く。

 風を切る音が耳元で喧しく響き、どのようにして復帰すべきかという思考を妨害してくる。そのような状況の中、焦りながらも再飛行を試みたが手応えはまるでない。

 やはり武器が邪魔なのか? と両手に抱えたままのハルバードを投げ捨てようとした時、足首を強く掴まれた。全身が強い衝撃を伴って急停止し、手からハルバードが離れて落下した。脳が揺れたのか、目が回った時のような気持ち悪さを感じる。


「今のでよく分かった」


 上から声が降ってくる。逆さ吊り状態のため頭を下げて確認すると、自身の右足首を掴む鉄輪の姿が見えた。


「悪いが、夜までには戦えるようになってもらうぞ」


 鉄輪は少々無茶とも感じられる宣言をすると、念力で和也の左腕を引き寄せた。腕を掴むと同時に足を離し、和也の姿勢を元に戻す。そして、ゆっくりと高度を下げ始めた。やがて和也の両足が着地する。

 和也は僅かに残る浮遊感を足踏みをすることで追い出すと、床に落としてしまったフライ旗を拾い上げに向かった。付着した砂埃を払い落としてから、いつものようにスラックスとベルトの間に差し込む。

 鉄輪の正面へと足早に戻ると、鉄輪は待っていたように口を開いた。


「井上は、飛ぶことをずっと意識し続けているだろ?」


「いけませんか?」


「残念ながら、これからは逆だ」


 鉄輪の言葉に、和也は心の中で首を傾げた。つまり意識するなということだろうか? しかし、そうすると速攻で落下することは確実だ。実際、しりとりを繋げることに意識が向いた影響で落下しているのだから。

 和也の脳内に忽ち大量の疑問符が並ぶ。それを知ってか知らでか、鉄輪は訓練内容について簡潔に説明してくれた。


 曰く、飛ぶだけならそれ一つに意識を向ければ良いが、この先は蠢穢の動きを見ながら攻撃を仕掛けていく必要がある。飛行の維持、武器化の維持、維持しながらの攻撃、蠢穢の行動予測――これらを一度に考えると必ずどこかが抜け落ちてしまい落下事故に繋がる。

 そのため飛行と武器化の維持の二つは無意識下で行い、思考の負担を減らす必要があるのだと。しりとりを行ったのは、一つの要素に集中することで無意識を鍛えられるからという理由らしかった。

 

「今までの訓練で獲得したコツを脳味噌に刻み込んで、一段上を目指すんだ」


 鉄輪は右手で自身の頭を軽くつついた。そこに収まる脳には、一連のコツが完璧に刻み込まれているのだろう。以前の討伐で披露された高度な飛行テクニックは、その無意識を使いこなした結果のようだ。


「でも、無意識になんてどうやって……」


「例えばだが、井上は自転車を漕ぐ時にいちいち足の動きを意識しているのか? それと同じだよ」


 鉄輪からの返しに、和也は「なるほど」と納得した。

 確かに自転車を練習していた時は脇見をしたり考えごとをする余裕はなく、少しでも気が逸れるとすぐに転倒していた。バランスを崩さないように足元を見ながらペダルを漕いでいた記憶が朧げながら蘇る。

 そんな漕ぐという動作を意識しなくなったのはいつからだろうか? 乗れるようになった瞬間の記憶はなく、いつの間にか友人と談笑したり四季折々の景色を楽しみながらの移動が出来るようになっていた。


 しかし、飛行という動作は自転車を漕ぐのとはまるで違う。血の流れを意識するという独特な力の使い方を、果たして無意識下で行えるだろうか。


「会得できるでしょうか? 何だか難しそうに感じて……」


「だから根気強く繰り返すんだ。自転車の練習もそうだっただろ?」


 そう問われ、和也の脳裏に再び幼少期の記憶が顔を出した。紺色の自転車、周囲に点在する青々とした田んぼ、擦り剥いて血の滲む膝や肘。風呂で新しい傷口が染みる度、もうやめてしまおうかと思った。

 これから行うことも、きっとあの日のように乗り越えられる。そう思うと、不思議と力が湧いてきた。


「それに、井上は案外早く習得できるかもしれないぞ」


「え?」


 鉄輪の口から発せられた意外な言葉に、思わず呆けた声が漏れる。


「最初にしては、落ちるまでにそれなりの時間があったからな。ある程度無意識に力を使えている証拠だ」




***




 足首を掴まれることで落下を免れるのは、もうこれで三回目。だが、飛行の継続時間は着実に伸びていた。

 ハルバードの武器化が落下途中に解け、フライ旗の形態で床へ叩きつけられる。木製の持ち手が発する軽い音が、静かな訓練所に響いた。


「順調に進んでるな。これなら夜の討伐にも間に合いそうだ」


「ありがとうございます……」


 能力の伸びとは対象的に力のない和也の声を聞き、鉄輪は怪訝そうな表情を見せた。


「何だか浮かない顔だな。嬉しくないのか?」


 鉄輪が和也の体制を戻しながら尋ねる。順調であることは和也自身も自覚していたが、今はとにかく腹が減っていた。胃がしきりに訴える空腹感によって満ちていたやる気が軒並み流されてしまい、訓練の成果を喜ぶエネルギーを生み出せない状況。現在時刻は不明だが、この空腹感から察するに十三時を回っている予感がする。普段の昼食は十二時頃。一時間遅れは流石に堪える。

 消費した体力を補えるようなボリュームある昼食が摂りたい。そう考えた途端、本日何度目かわからない腹の音が鳴った。いつにも増して大きいその音は鉄輪の耳にも届いたらしかった。


「仕方ないな。飯にするか」


 それは和也にとって待ちに待った一言だった。少し呆れたような口調が気に入らないが、それに文句を付けられる程の元気など残ってはいない。

 高度が下がり、両足が着地する。纏わりつくように残る浮遊感を慣れた動作で消し去っていると、鉄輪から「何が食べたい?」と問われた。


「食べたいものですか?」


 まさかの質問に和也は思わず聞き返してしまった。前回のようにファーストフードを適当に買ってくると予想していたため、質問の答えを用意できていない。


「そう……ですね」


 考えを巡らせてみるが、そもそも和也は京都駅内の飲食店を知らない。肉や魚といった簡単な答えしかできないが、それでも良いのだろうか?

 

「じゃあ、お肉とお米が食べたいです」


「肉と米ね……。よし、任せろ」


 鉄輪はどこか自信ありげな返事をすると、「早速行くぞ」と訓練所の出入り口へと歩き始めた。




***




 鉄輪の案内で到着したのは、京都駅直結の百貨店だった。綺麗に磨かれたガラスドアの向こうに華やかな店内が見える。

 制服を着用したままの入店などしたことのない和也は狼狽うろたえて足を止めてしまったが、前を歩く鉄輪には一切の迷いが無いようだった。躊躇ためらいなくドアを開け入店して行く。

 和也はその後を追うために、自身の中に潜む羞恥心を払いのけてから入店した。


 入店すると同時に、強いフレグランスの香りが和也の鼻腔を貫いた。様々な化粧品の類が混ざり合うことで発生した独特の香りはただただ強烈であり、反射的にむせ返りそうになる。

 妙な視線を感じ取り顔を向けると、珍しいものを見るような視線を和也に向けている美容部員の女性と目が合った。制服姿の駅員が百貨店を歩く光景が大層奇妙なのだろう。その視線を受け続けていると、振り払った羞恥心が戻りそうになる。和也は逃げるように鉄輪を追い、下りエスカレーターに飛び乗った。


 一階、地下一階を素通りして最下層の地下二階で降りる。先程とは違いフロア全体に充満しているのは惣菜の香り。それを嗅いだことによって、和也の中の限界を知らせるアラートがけたたましく鳴り響いた。早く昼食にありつきたい! と頭が食事のことしか考えられなくなり始めた時、鉄輪が足を止めた。


「到着だ」


 鉄輪が言いながら指で示す先にあったのは、カウンター席のみの小さな店。店内を隠すように二枚並べて掛けられている白い暖簾には、『名古屋コーチン』『親子丼』の文字が躍っている。


「リクエスト通りの肉と米だ。食べようぜ」


 鉄輪が暖簾を潜って店内に入る。置かれている椅子は七つのみと少ないが、偶然にも隣り合った二席が空いていた。

 席に着いた和也は、正面に掲げられているメニュー表へ目を向けた。この店の名物は、暖簾にも書かれていた通り名古屋コーチンの親子丼らしい。メニュー表において最も多くのスペースが使用されている。値段は税込み一〇七八円。百貨店で食べる食事としては低価格なのだろうが、普段の昼食をコンビニ弁当で済ましている和也にとっては少々高く感じられた。

 名物メニューを食べたい気持ちはあれど、やはり財布へのダメージが気になってしまう。少しでも価格の安いメニューにするべきか迷っていると、鉄輪から声をかけられた。


「値段は気にするな。奢ってやる」


「でも、前回も奢ってもらいましたから――」


「いいから、気にするな」


 鉄輪が和也の言葉を遮るように言う。奢らればかりで申し訳ない気持ちになってしまうが、お互いが気持ちよく食事をするためには素直に甘えるのが一番だ。


「すみません……ご馳走になります」


 和也がそう言って頭を下げると、鉄輪は得意げに笑った。


「その代わり、この後の訓練も全力を出してもらうぞ」

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