第55話 会稽之恥

 京都駅で臨む二度目の訓練。気分を変えて前向きに挑みたい気持ちは十分にあるのだが、どうしても忌々しい記憶が脳裏に張り付いて剥がれない。地下通路の高い湿度が影響しているのか、家を出る時には高まっていたやる気が少しずつ削げていく。


 ――強くならなければいけないというのに。


 そんな焦りにも似た感情を覚えながら、和也は訓練所へ通じるドアを開けた。錆びついた蝶番の軋む音が薄暗い通路に響く。その音は例の蠢穢が立てた音に酷似しており、記憶を刺激されたことによる冷や汗が手のひらや背中から吹き出した。


 止まりそうになる足を気合いで動かして訓練所へ踏み入ると、既に到着していたらしい鉄輪の姿が目についた。入室して来た和也には目もくれず、懸命に腕立て伏せに興じている。

 上半身は制服の開襟シャツを脱いだ肌着姿で、下半身はスラックスのままという格好。鍛え上げられた肉体は、絶対に喧嘩を売ってはならないと本能が訴えかけてくる程に見事。


「何しているんですか?」


「見て分からないか? 筋トレだよ」


 鉄輪は「あと三回で百回なんだ」と答えると、再び黙り込んでしまった。和也はその様子を見つめながら、自分でも回数を数えてみる。


 ――九八、九九、百。


 そこで鉄輪は立ち上がった。宣言通りの百回目。


「待たせたな」


 鉄輪は額に浮かぶ汗を右手で雑に拭いながら、壁際に脱ぎ捨てられている開襟シャツを拾い上げた。ボタンを留めながら、チラリと和也へ視線を向ける。


「しけた顔してるな。何か失敗したのか?」


 心臓がドキリと跳ねた。自分の中では平静を装えていたはずなのにと和也は驚きながらも、その動揺が表情に現れないよう努める。


「そうですか?」


「そうだな。蠢穢に霊でもやられたか?」


 核心をつく言葉に一瞬息が止まった。すぐに呼吸を整えて焦りを消し去るが、鉄輪はその僅かな動揺すら見逃さず、「図星だろ?」と和也の顔を覗き込むように見つめてきた。その視線は強いプレッシャーを纏っており、認めざるを得ない気持ちにさせられる。

 たが、「そうです」と声に出す気にはなれず、和也は無言で頷いた。


「どうせ無茶な戦い方でもしたんだろ。飛べるようになったからって調子に乗ったか?」


 シャツの裾をスラックスの中に仕舞いながら話す鉄輪の指摘は的確で、その通りだと認めることしかできない。

 あの戦いの直前にまで時を戻し、馬鹿な自分を殴りつけたい! そんな後悔が大きく膨らみ心が押し潰されそうになる。同時に悪夢のような記憶が再び蘇り、全身に寒気が走った。落ち込む気分と同期するように視線が下がり、視界までが薄暗くなる。


「どんな奴にやられたんだ?」


「え?」


 突然の問いかけに顔を上げると、腰に両手を当てて得意げな表情で立つ鉄輪と目が合った。


「だから、どんな奴にどのようにしてやられたのか言ってみろ」


「自らの恥を晒せと言うことですか? そんなの嫌ですよ!」


 即座に否定の言葉を返した和也だったが、対する鉄輪は不思議そうに首を傾げ「勘違いしてないか?」と困惑したように言った。


「今は訓練中だ。敗北の詳細は指導者と共有して、共に原因を探るべきだろう。そうすることで円滑に訓練が進められるんだ」


「まあ……確かに一理ありますが」


 無理矢理納得させられたような気がするが、的を射ているのは事実だ。恥を晒すのは屈辱だが、これは勝利のために必要な犠牲だと割り切るしかないだろう。

 和也は重い口を動かし、あの日に大阪駅で何が起きたのかを語った。




***




 和也の身に降りかかった惨劇を耳にした鉄輪は最初こそ堪えていたものの、やがて声を上げて笑い出した。


 ――騙された。


 鉄輪の口車にまんまと乗せられ、敗北の詳細を語った自分が愚かだったと言うほかないだろう。

 鉄輪の人を舐め腐った態度に腑が煮え繰り返りそうになるが、余計なトラブルを避けるためにもここは耐えねばならない。和也は下ろした両手を強く握り、溢れ出る怒りを押し殺した。


「蠢穢の大顎に頭を潰されて一発……ね」


 鉄輪は笑いを抑えるためなのか俯いて大きく息を吐くと、腕を組みながら顔を上げた。


「痛かったか?」


 相手を莫迦にする意図が透けて見えるニヤけ顔で問われ、とうとう和也は怒りを抑え切れなくなった。揉め事を起こしてはならないという理性が働くよりも先に、自分でも驚くような大声が喉を飛び出す。


「当たり前じゃないですか!」


 訓練所全体に反響する程の声を間近で受けたにも関わらず、鉄輪に反省の色は見られない。ヘラヘラとした笑みを湛えるその整った顔面をひと睨みしてみるが、これも効き目は全くと言って良い程に無かった。


 ――もう一度、殿護さんにキツい一撃を入れてもらいたい。


 そんな物騒な考えが和也の脳裏にチラついた時、鉄輪が「だがな」という一言と共に湛えていた笑みを消し去った。


「その痛み、しっかり覚えておけ。でないと同じことをまたやらかすぞ」


 鉄輪の口から発せられたのは、そんな予想外の言葉。


「選択を迷って混乱した時は、記憶にある痛みが頭を冷静に戻してくれる。これは一度失敗した奴にしか出来ないことだ」


 まるで、自らも過去に霊を破壊された経験があるかのような言い方だ。珍しく真剣な表情を見せていることも相まって、そのような想像が頭を巡る。


「……鉄輪さんも、蠢穢にやられたことがあるんですか?」


 そう疑問を呈すと、鉄輪の口に緩みが戻った。そして、再び小さく鼻で笑う。


「教えねーよ」


「僕は話しましたけど」


 不公平だと口を尖らせてみるが、鉄輪は「関係ねーよ」と片手を振って雑にあしらった。


「それにしても、大阪駅にあいつが現れるようになったのか。段々との悪さが戻ってきてる。尚更、力の獲得を急がないとな」


 鉄輪はそう言いながら、準備運動をするように腰を左右に捻った。

 その口ぶりから察するに、恐らく鉄輪はあの蠢穢と一戦交えたことがあるのだろう。京都駅の状況だと複数体潜んでいても不思議ではなく、鉄輪が地獄に例えた発言が思い起こされる。

 そして、大阪駅も似た環境に陥る可能性が極めて高い。鉄輪の言う通り、力の獲得を急がなければ。


「じゃあ一先ず飛んでみろ。流石にそれは忘れてないだろ?」


「当然です」


 和也は少し強気な口調で答えると、助走をつけて空中へと繰り出した。高度を上げ、地上に立つ鉄輪を見下ろす。


「満点って訳ではないが……まあ、合格点だな」


 助走が必要なことに対してどこか不満そうな鉄輪の声を聞き流しながら、和也は天井付近へと視線を漂わせ、そっと目を閉じた。

 空中に浮かんでいる時間、和也の心は心地よい達成感で満たされる。自身の確かな成長を実感でき、ここまでの苦労を労えるからだ。しかし、あくまでもここは中間地点。現状で満足しているようでは、決して最終到達地点には辿り着けないだろう。


 和也は閉じていた目を開くと、肺の空気を吐き切ってから鉄輪の方へ再度視線を向けた。

 自身の名を呼ぶ鉄輪に対し、「はい!」と地上まで聞こえるように大きく返事をする。


「いつも通りに武器を持ってみろ。どこが悪いのか見定めてやる」


「分かりました」


 指示された通りにフライ旗を抜き、それを両手で握り込む。覚醒して以降、何度も繰り返してきた行為。全身に流れる血と呼吸を意識する。

 やがて、フライ旗はハルバードへと姿を変えた。美しい真っ赤な刀身が訓練所の照明を反射し、鈍い輝きを放つ。


「武器化は相変わらず遅いが問題ないかな」


 和也の未完成な能力に対してもやはり不満そうな鉄輪だが、次にその口から飛び出した言葉は和也の想像を遥かに超えていた。


「井上、今から俺としりとりするぞ」

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