第54話 未熟者

「ご迷惑おかけしました」


 和也は助役室で事務作業をする島田に向かって頭を下げた。怒られることも想定していたが、島田は相変わらずの朗らかな笑顔で対応してくれた。


「大丈夫だよ。誰でも一度は通る道だからね」


 その言葉によって、心に深く根を下ろしていた後悔や申し訳なさといった感情が薄れていく。消えはしないものの、心の負担は随分と軽くなった。


「最初に駆け付けたのは神田さんだけれど、ホーム助役の朝は忙しいから交代したんだよ」


 島田が話す内容は尤もだ。素早く着替えホーム監視の責任者として現場へ向かわねばならないのに、負傷者を結界内へと運んでいる時間などない。しかも今日は週明けの月曜日だ。殺人的混雑を捌くためには体力を残しておかなければならない。


「まあでも、大急ぎで駆けつけてくれていたからね。神田さんにもお礼を言っておくといいよ」


「はい、これからホームに向かうのでその際に。では失礼します」


 和也は再度頭を下げてから助役室を後にした。現在時刻は六時で、退勤まで三時間程しか残されていない。昨日の失態分を取り返すには些か時間が足りないが、次の勤務に回すしかないだろう。

 和也の今日の担当は環状線二番ホーム。現在、先輩職員が臨時で担当してくれているらしい。


 エレベーターで二階へと降り駅務室に入る。当然ながら駅務室に在室している職員のほぼ全てが和也へと顔を向けてきた。

 次々とかけられる「大丈夫?」の声に、和也はひたすら「大丈夫です」や「ご心配おかけしました」と返しながら歩いた。これだけの人数が自身を気にかけてくれている事実に感謝の念が溢れる一方で、薄れていた申し訳なさがじわりと濃さを取り戻す。


 駅務室を出ると、ホームへ向かうために社員証を翳して改札を抜けた。その際に三条から軽蔑するような視線を向けられたが、軽く会釈をするに留めた。立ち話をして良い場所ではないというのが主な理由ではあるが、三条から飛んでくる言葉が怖かったのも大きい。

 叱責から逃げているだけの弱腰な自分に対する腹立たしさを仕事優先という言葉で塗り潰し、和也はエスカレーターへと足を進めた。


 朝の駅は少し肌寒く、ホームは風が抜けるせいか更にひんやりとしている。

 ここ数日で朝晩の気温が一気に低下した。列車を待つ乗客達にも長袖の割合が増え、スプリングコートを羽織っている人も見受けられる。

 今年もまた秋と冬がやってくるのだと思うと、一年の速さを感じざるを得ない。

 地元の篠山はまた大雪になるのだろうか? と昨年の積雪量を思い返しながら歩いていると、ホームに列車が到着した。


 よくもこれだけの人数が入っていたなと驚く程に大量の乗客が、十両編成の列車から雪崩のように降りて来る。列に並んでいる乗客と混じり合い、ホーム上は地獄の様相だ。

 彼ら彼女らの内に秘められていたストレスが結界に踏み入れたことで排出される。粘性の強い疵泥が点字ブロックやタイルに落ちると、それを食すために芋虫型の蠢穢が何処からか群がり始めた。

 釣り餌として使用するミールワームに良く似た外見で、全身をくねらせながら美味しそうに喰らいつくその様は朝から刺激の強すぎる映像と言わざるを得ない。

 当然、乗客はそのような光景が繰り広げられているとは知る由もなく、蠢穢を踏みつけながら進んでいる。蠢穢は一般人に踏まれても被害を受けることはなく、踏んだ側も違和感を感じることはない。


 黙々とエスカレーターへ突き進む乗客に道を譲るため、和也はホームの壁際へ寄った。目の前を大勢の乗客が一斉に歩いて行く。腹に響く程の足音と共に、僅かな揺れを感じた。

 列車は無事に発車してホームの人波もそれなりにけたのだが、コンコースからは続々と乗客が流入して来ている。そして、あっという間に大混雑状態のホームが再度完成した。


 落ち着く暇などないこの状況で神田に声をかけるのは無理だと和也は判断した。感謝と謝罪は退勤時にすべきだろう。

 二番ホームへ到着した和也は先輩職員に謝罪をした上で交代し、普段通りの業務を再開した。流れ始めた接近アナウンスを聞きながら左右を確認する。点字ブロックの外をスマホ片手に歩く乗客を発見し、マイクを手に取った。


「危ないですから下がってください!」




***




 業務終了後、神田が呼んでいるとの連絡を受けて和也は指定された場所へ向かった。三階の、いつもの会議室。


「失礼致します」


 ドアをノックした直後に発した言葉は、少し上擦っていた。重く感じるドアを開けた先にあるのは見慣れた机。その椅子に神田が座っているのが見えた。既に腕を組んでいるその姿勢から、隠された心の内が透けて見える。

 そして、机の上には神使が伏せていた。感情の読めない鹿の顔が和也に向けられている。


「座れ」


 神田の発した鋭い声に全身から血の気が引く。恥ずかしくなる程に弱々しい声で返事を返し、和也は神田の正面に着席した。

 湧き上がる恐怖心を振り払い、しっかりと視線を合わせてから頭を下げる。


「昨夜は申し訳ありませんでした。自分が調子に乗ったばかりに」


 和也は自らの力を見誤ったことに関して謝罪した。普段通りならば「気にするな」と優しい言葉を返してくれる神田だが、今回ばかりは流石に叱責だった。


「自分の力を過信しても良いことなんて何もない」


「はい」


「どこまでの相手なら戦えるのか……それを見極めるのは戦闘の基本だ」


 反論の余地もない。そもそも反論する気などない和也にできるのは「はい」と返事をすることだけ。俯いていることで気分までが下を向いてしまい、思考がマイナス方向へと傾いていく。


「顔を上げろ」


 神使から飛んできた指示に従い、和也は顔を上げた。魂を吸い取られそうな漆黒の瞳が視界に入る。


「井上は、何故無謀な戦いを挑んだ?」


「駅を守りたかったからです。あのサイズで、しかも飛ぶ蠢穢となると被害が大きいだろうと思って……」


 和也の答えに、神使は無言で頷いた。その頷きにどのような意味が含まれているのか分からないまま、続きの言葉を待つ。


「お前が駅を守ろうとした気持ちは理解しよう。たが、その行動がかえって駅を危険に晒すとは想像できなかったのか? お前が倒れたら誰が空中の蠢穢を狩るのだ」


 神使の言う通りだ。例の蠢穢を発見した時、本来の標的はまだ二体残っていた。椿が不在だった昨日、取れる対応は二択。放置か他の蠢穢を後回しにしての討伐だ。だが、飛ぶ蠢穢の討伐には地上の蠢穢以上に時間が掛かる。狩りきれずに残る蠢穢も多くなるだろう。

 落ち着いて考えれば分かることだ。如何に自身が目の前の事象に囚われていたかを理解させられる。


「すみません……そこまでは考えが及ばす」


「……未熟者だな」


 神使のため息混じりにこぼした言葉が胸に突き刺さった。少しは成長できているのではないか? そう感じたことで芽生えていた自信が忽ち枯れていく。

 新米鉄道員という括りから抜けられていない以上、未熟者であることは当然なのだろうが、やはり現実を突き付けられることのダメージは大きい。


 自然と口が動き「すみません」という言葉が紡がれる。神使に代わり、神田が続きを話し始めた。


「危ないかもしれないと少しでも思わなかったか?」


「……思いました。でも、ほんの一瞬だけなら大丈夫だろうと」


 神田が息を吐く。その動作一つですら精神を蝕む毒のように思えた。


「安全綱領の最後の項目を言ってみろ」


「え! えっと……」


 安全綱領は鉄道員として覚えておかなければならない規範だ。日頃から目にできるよう、駅長室や駅務室の壁に張られている。

 しかし突然問われると中々出てこない。たが、ここで答えられないと更に印象が悪くなる。どうにか思い出さなければ。

 和也は焦りを覚えながら脳内の記憶領域を引っ掻き回す。何とかその項目を探し当てた時、背中には冷や汗が伝っていた。


「疑わしい時は手落ちなく考えて最も安全と認められるみちを採らなければならない。です」


 神田が頷きながら「そうだ」と返す。正解であったことに心底ホッとした。


「戦闘も鉄道輸送と同じだ。少しだけなら大丈夫、自分は失敗しない……そのような思い込みは大事故を引き起こす」


「はい。仰る通りです」


「二度と同じことがないよう精進しろ。以上だ」


 神田が椅子から立ち上がる。和也も合わせて立ち上がり、深く頭を下げた。

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