第53話 神の療治

 花の匂いがする。と和也は思った。甘く、どこかで嗅いだことのある安心感を覚える香り。

 顔面の激痛は持続的なものから波打つようなものに変化していた。未だ強い痛みではあるが最初よりもずっと軽い。目元には何者かの手が目隠しをするように乗せられており、じんわりとした温もりが全身に広がっていくのを感じる。


 背中に伝わる感触からどこかに寝かされているであろうことは間違いないのだが、その場所が分からなかった。目を開こうとしたものの上手く力が入らず、瞼が痙攣するように動くのみ。

 たが手足は動くようで、和也は試しに右手を持ち上げた。何か手掛かりがないか探るように動かしたその手に触れたのは、柔らかいシーツの感触。どうやらベッドに寝かされているらしい。

 他にはないだろうか? と捜索の範囲を広げようとした時、その手が押さえつけられた。


「動いてはいかん」


 男性の囁き声が耳に届く。周囲に充満する花の香りと同じく、心安らぐ声。


「心配せずともすぐに終わる」


 その言葉の後、両目の上に乗せられていた手がゆっくりと撫でるようにして離れ始めた。感じていた温もりも同時に薄れていく。

 手が完全に離れたその瞬間、強烈な痛みが襲ってきた。熱を持った鋭い痛みに、和也は反射的に歯を食い縛る。呻き声が漏れ全身が硬直した。シーツごと両手を強く握り込む。

 さいわい痛みはすぐに消滅したが、動悸と冷や汗が止まらない。

 荒い呼吸を繰り返しながら目を開くと、椅子に腰掛けている駅神と目が合った。


「……駅神様?」


 喉から出た声は、和也自身も驚く程に力がなかった。どんよりと全身が重く、思考もハッキリしない。駅神からの「大丈夫かな?」という問いかけに対し、一先ず頷きを返した。


「今、霊の修復を済ませたよ。もう大丈夫だ」


 その言葉を受け、和也は先程まで駅神の手が乗せられていた目元に触れた。だが、特に傷痕があるような感じはなく、ごく普段通りの皮膚の感触である。

 それを不思議がっていると、今は肉体の状態なのだと駅神から指摘された。どうやら酷く傷付いた霊は取り出すことが出来ないらしい。そのため肉体に格納したまま治癒をするのだと。


「聞いたよ。どうやら無茶をしたそうだね」

 

「無茶……!」


 平穏だった和也の脳裏に、自身へ降りかかった惨劇が一瞬にして蘇った。不快感の溢れる外見、異様な大顎、威圧的な羽音。大顎が開かれる際の音が幻聴として聞こえ、治ったはずの痛みがぶり返しそうになる。


「痛むのかね?」


 不快な記憶に顔を顰める和也の表情が駅神には痛みを堪えているように見えたのだろう。否定の気持ちを伝えるため、枕に乗せた頭を左右に振る。


「いえ……少し思い出してしまっただけです」


「そうか」


 駅神は納得したのかそれ以上追求しなかった。指の長い大きな手で、和也の頬を包み込むようにして撫でる。


「君の霊は随分と損傷が酷かった。暫く休んでいくといい」


 駅神はそう言って椅子から立ち上がると、「また様子を見に来るよ」と告げベッドを後にした。

 白詰め襟の背中が遠ざかって行く。その様子を和也は横になった姿勢のままぼんやりと眺めていた。

 駅神の進む先には薔薇の生垣が聳え立っており、赤やピンクや黄色といった色とりどりの薔薇が咲き乱れている。その影に駅神の姿が隠れた時、自然と和也の喉から大きなため息が漏れた。


 ――しでかした無茶を叱られるだろうか。


 少しくらいなら大丈夫だろうと武器を取ったのが間違いだった。大きな後悔が重くのしかかる。もっと自身の能力を客観視し、過信した行動は慎むべきだった。


 以前、致命傷を受けたらどれ程の痛みが肉体を襲うのだろうかと考えたが、まさか現実になってしまうとは。京都駅で朝を迎えたあの日に目撃した若い職員の姿が脳裏を過ぎる。

 きっと自身も誰かの手によって結界内まで運んでもらったのだろう。朝の忙しい時間帯に手を煩わせてしまった申し訳なさが、心をどんよりと濁らせる。


 ――早く業務に戻らなければ。


 駅神からは休むよう言われたが、そう悠長にもしていられない。迷惑をかけた分、仕事で取り返さなければ。

 和也は上手く力の入らない上半身を半ば無理矢理起こすと、体を捻りながら周囲を見渡した。


 自身が寝かされているベッドは白いガゼボの中に設置されているようで、何本もの支柱が目に入った。東京駅の結界内を思い起こさせる風景。しかし、その支柱には薔薇の蔓が多量に巻き付いており外部の様子は殆ど分からなかった。出入り口として開けられている箇所からしか情報が得られない。


 そんなガゼボの中に置かれているのはベッドと先程まで駅神が腰掛けていた椅子のみ。そして、その椅子はお茶会で座るものとは違う初めて眼にするタイプだった。ダークブラウンのアンティークチェアで、座面にはオリーブ色の布地が貼られている。背もたれには繊細な動輪の透かし彫りが施されていた。非常に上質な木材を使用していると思われ、年季の入った色合いが美しい。

 ベッドに使用されている木材も、色合いから同様のものなのだろう。ベッドボード上部に施された透かし彫りは、椅子と同じデザインであった。敷かれているシーツも上等であることが一目で分かる触り心地。微かに艶のある生地はシルクだろうか。


 きっと、我が子を安心して休ませるために作られた空間なのだろう。調度品一つ一つから大きな愛を感じる。和也は、そんな愛に甘え続けていたい気持ちになりながらも、それを振り払ってベッドから抜け出した。


 見慣れた白い石畳へ一歩踏み出す。だが、途端に強烈な眩暈によって視界が回転するように揺れた。歩くことはおろか、立っているのも不可能な程の強い眩暈。

 和也はその場にしゃがみ込み、症状が過ぎ去るのを待った。血管が収縮するような波打ちを顔周辺――駅神から治療を受けた辺りに感じる。両手で患部を押さえ、目を閉じた。暗転した視界に浮かび上がったのは凶暴さを醸し出す大顎。その幻覚に反応するかのように波打ちが強まった。


「……悔しいな」


 和也は小さくこぼした。それは自身の中に内包された霊へ向けた言葉。鉄道員としての矜持ほこりを一手に背負うその気高き霊は、倒すべき相手であるはずの蠢穢に打ち負かされたことが悔しくてたまらないらしい。


「もっと強くならなくちゃな」


 次の訓練では武器の使用を可能にしたい! あの蠢穢にリベンジしなければならない! 和也の心に、強い想いが湧き上がる。

 波打つ痛みがおさまっった。困難を乗り越える覚悟を決めるように、大きく深呼吸をする。結界内に漂う華やかな薔薇の香りが鼻を抜け、猛烈にあの紅茶が飲みたくなる。


 ――紅茶を一杯だけいただいてから業務に戻ろう。


 和也は顔を上げて立ち上がる。視界の揺れは既に消えていた。




***




 突然目が覚めた。地下水の流れる水音と、ほんの少しカビ臭い冷えた空気が和也を包む。

 霊が肉体に戻る時と違い、じんわりと目が覚めていく感覚は一切なかった。東京駅で結界の外へ出た時と同じだなと、またもや懐かしさを覚える。


 ベンチから立ち上がり、閉じられている扉を開けた。高い湿度のせいで錆びついた蝶番が軋み、通路に金属音が響く。

 仮眠中に着替える間もなく運ばれたため、和也の格好は寝巻きのままであった。当然、その姿で地下通路を歩くのは少々肌寒い。夏場でも涼しい場所だというのに今は秋口だ。

 困るのは寒さだけではない。腕時計を嵌めていない状態のため、現在時刻が不明だった。既に明けとなる時間なのか、仕事に戻れる時間なのかすら分からない。


 ひんやりとした空気を全身に感じながら、和也は通路を小走りで進んだ。

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