第52話 油断と過信
結界内とはいえ、大阪駅の中を飛ぶのは新鮮だった。逃げる蠢穢を追う職員の姿や、戦闘の真っ最中という光景がよく見える。
しかし、他人の戦いに視線を奪われている場合ではない。和也は正面へ向き直り、自らが相手にするべき存在を視界に入れた。
地上からは蚊柱のような小さな蟲の集まりにしか見えなかったのだが、実物は想像よりも大きさがあった。ゴワゴワとした毛に覆われた体は乳児の頭程あり、隙間からは歪に盛り上がった赤い単眼の集合体が覗いている。
一体だけなら耐えられる外見だが、数十体が群れを成して飛び回っているのは勘弁願いたいものだ。
和也は安全に攻め込むタイミングを計るため、ゆっくりと群れの周囲を旋回する。
生憎、飛行しながらの武器使用はまだ訓練できておらず、和也に出来ることは蠢穢を追い立てて地上へ近付けることだけだ。ハルバードは早々にフライ旗の形態へと戻され、腰のベルトに挿さっている。
非常に地味な作業であり不満感が拭えないが、こればかりは発現の遅かった自らに責任がある。順調に訓練が進んでいれば基礎くらい齧れていたかもしれないというのに。
悔しいが、羊を追い立てる牧羊犬になりきるしかないのだ。標的に羊のような愛らしさは皆無だが。
「……行くぞ」
気合いを入れるように独り言を溢してから群れの中心へと飛び込む。瞬間、彙集しながら飛んでいた群れが飛散した。あまりにも素早い動きに目が追いつかず、呆然と空中を漂うことしか出来ない。
やらかしてしまったか? と焦る和也の眼前を目標としている蠢穢が単体で通過した。
――見失う訳にはいかない!
蠢穢をしっかり視界に捉え、振り切られないよう速度を出す。訓練では出したこともない速度に、緊張と恐怖が入り混じる。
蠢穢は上へと逃げようとする意識が強いのか、追いかける和也の高度はひたすらに上昇していた。目的は地上近くに誘導することであり、決して蠢穢との鬼ごっこなどではない。
このままでは時間内に一匹も誘導出来ずに終わってしまうのではないか? そのような不安が僅かながらも顔を出し始め、和也は思い切って更に速度を上げた。蠢穢を追い抜かし、その行く手を阻む。
予想通り蠢穢は進路を変更した。和也から見て右側へ移った進路の先も同じように塞ぐと、蠢穢は自らの意思通りに進めない苛立ちからかギギギと金属を軋ませるような鳴き声を発した。
進路を下へ変更した蠢穢に、思わず「よし!」と声が漏れた。付かず離れずの速度でその後を追い、次第に地上へと追い詰めて行く。
この場で叩き切ってしまいたい! との衝動から腰のフライ旗に手が伸びそうになるが、コントロールを失って墜落すれは元も子もない。ここは只管に追い立てるのみだ。
地上が近付き、戦闘する職員達の姿が見えてきた。多くの職員が忙しなく走り回り、多種多様な武器が振るわれている。その中でも、大きな薙刀はよく目立つ。和也は蠢穢の頭を切り落とした直後の神田へ向かって、叫ぶように呼びかけた。
「神田さん!」
神田はすぐに和也へ気付き目を向けた。足元に横たわる蠢穢の死骸を雑に踏み潰しながら、右手に持つ薙刀を素早く振りかぶる。
蠢穢が神田の存在に気付いて逃げ出そうと身を捩ったが、和也は咄嗟の判断で体制を変えると、その形容し難い体に蹴りを叩き込んだ。
駅神の力を纏った一撃に蠢穢の体が吹き飛ぶ。そして、赤い光の残像を残しながら迫る薙刀に両断された。
神経を逆撫でしてくる不快な断末魔が一瞬響き、消えた。
砂のように崩れる蠢穢を見て安心したのも束の間、和也は蹴りの勢いが余ってお尻から墜落した。叩きつけられた尾てい骨付近から脳天にかけてを鈍痛が貫く。
墜落しても止まらずにカーリングの要領で滑り始めた和也の体だったが、神田が素早く腕を掴んだおかげでことなきを得た。
神田はその腕を強く引いて立ち上がらせると、和也の背を叩いて称賛した。
「上出来だ! 上手いじゃないか」
「ありがとうございます!」
我ながら武器を持たずによく誘導したなと感じてはいたが、褒められるとより嬉しい。和也は「残りも叩き落としてきます!」と息巻いて上空への舞い戻った。
再び蚊柱のような群れを形成している蠢穢を蹴散らし、そのうちの一匹へと目標を絞る。逃げ道を塞ぎながら地上へと追い立てる行為も慣れればスムーズだ。
蠢穢の体が砂と化すのを見届け、また上空へ。
それを幾度と繰り返している間に、いつの間にか蠢穢は残り二匹となっていた。まだ神使から声は掛からない。どうやら時間内に終わらせることができそうだ。
助走を付け、結界内を舞う。残りの蠢穢を始末すべく視界に捉えた時、その隅を黒い影が通過した。蠢穢がまだ残っていたのだろうか? と、その場に留まり辺りを見渡す。
再度、影が通過した。先程は聞こえなかった蜂のような羽音を頼りに顔を向けると、結界内の壁に和也の見たことのない蠢穢がとまっていた。
その蠢穢の外見は、一言で例えるなら巨大化したゴキブリだった。真っ黒な体に異様に長い触覚。棘の生えた四肢を体に擦り付けるように動かす様子まで同じである。異なる点としてはカミキリムシのような大顎を持っていることだろうか。
小さくても本能的な恐怖を覚える外見だというのに、巨大化して恐ろしくないわけがない。目を背けたくなる悍ましさだ。
できれば視界に入れなくないのだが、そうは言っていられない。見失わないようにしっかりと焦点を合わせ――
「うわっ!」
突然、蠢穢が壁から飛び立ち和也に迫った。急接近に驚き、思わず悲鳴が喉を飛び出す。大顎を大きく開いて噛みつこうとする蠢穢から急いで距離を取る。
襲撃に失敗した蠢穢は、耳障りな羽音を響かせながら先程とは別の壁にとまった。
ごく短時間の接触しかしていないが、既にこの蠢穢に対する危険性をひしひしを感じる。かなり攻撃性が高く獰猛で、かつ素早いという特性も備えており厄介だ。
これを追い詰めるのは不可能だろう。そう判断した和也に残されているのは、討伐するか放置するかの二択。その中から、和也は迷うことなく討伐を選んだ。
大型の蠢穢は広範囲に鱗粉を撒き散らす。飛行するタイプだと尚更だ。放置することは避けたい。
問題はその方法だ。
――ほんの一瞬だけなら大丈夫だろう。
腰に手を回し、挿していたフライ旗を引き抜いた。両手で握りしめ、蠢穢に気付かれないよう息を殺しながら武器化を試みる。
早くしてくれ……! と焦る気持ちを抑えながらの数秒間が過ぎ、赤色の発光と共にフライ旗が長さを増した。鋭い刃を持つハルバードを右手に構えながら、呑気に触覚を振る蠢穢へゆっくりと接近する。
硬い前羽に覆われた漆黒の体めがけてハルバードを振り上げたその瞬間、突如体が落下した。
突然のことにパニックになる頭で必死に飛行体制に戻ろうと意識するが、やはり助走なしでは不可能のようだ。身動きが取れない状態で、急速に地上が近付く。
フライ旗の武器化を解けば飛行出来るのでは? という咄嗟の思いつきを試そうとしたが、混乱している影響かそんな簡単な動作すらかなわない。
仕方なくハルバードを投げ捨てたが、結果は変わらず。駅神の力が途絶えたハルバードは、数秒の間を置いてフライ旗の形状へと戻った。
無茶をするべきではなかった。そんな後悔が渦を巻き、心に悔しさが湧き上がる。
なす術もなく落下する和也を蠢穢は当然の如くチャンスと捉え、壁から飛び立つと脇目も振らずに追って来た。至近距離にまで悍ましい姿が迫り、破壊行為に特化しているかのような大顎が大きく開けられる。
キリキリという錆びた金属同士が擦れ合うような音の後、和也の意識は消失した。
***
和也は耐え難い激痛で目を覚ました。頭――特に鼻から上部分の痛みが強く、まるで高温に熱した鉄筋を深く突き刺されているよう。
両目からは生暖かい液体が溢れているのが分かるが、これが涙なのか血液なのかすら判断できない。周囲は暗く、痛みのあまり手足を動かすことすらままならなかった。
死ぬのではないか? という恐怖感と、いっそ殺してくれ! という懇願の感情が入り乱れる中、駆けるような足音が耳に届く。
「井上!」
聞き慣れた声と共に光が差した時、和也の意識は掻き消えた。
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