第51話 称賛と嘲笑

 大阪駅のロッカーで制服に袖を通すことが随分と久々に思えた。何ヶ月もの間離れていたわけではないのだが、それだけ京都駅での時間が濃かったということだろう。

 ワイシャツのボタンを留めながら思い返すが、やはりとてつもない密度の一日だったなと改めて感じた。たが訓練は一度で終わりではない。そのうち慣れるのだろうが、大阪駅との温度差に風邪をひいてしまいそうだ。


 そして今日は、そんな訓練によって発現した能力を神田に披露する日だ。余計なことを考えている暇はない。頭の中は必要最低限の情報のみに限定し、能力を発揮できるよう今から準備しなければ。

 スラックスとベルトを着用し、赤色のネクタイをしっかりと締めて頭と体を仕事モードへと切り替える。すっかり慣れた手付きによって出来上がった結び目の三角形を備え付けの鏡で整えると、和也はロッカーの戸を閉じた。




 大阪駅での朝礼は、当然ながら全員が同じ制服を着用している。疎外感を感じない朝礼はこれ程までに快適なのか! と感動にも似た気分を覚えながら、神田をはじめとした助役達からの報告に耳を傾けた。

 和也の隣にはいつも通りに三条が立っているが、外見態度共に変わりはなかった。能力の発現について尋ねることなどなく、つくづく鉄輪とは正反対の人間だなと感じる。


 朝礼が終わり、それぞれの持ち場へと散って行く同僚達の間を縫いながら和也は神田の元へ向かった。正面に立ち、訓練からの帰還を知らせるため軽く敬礼を行うと、神田も返してくれた。


「準備は出来ているか?」


 問いかけてくる神田の表情には、昨日よりも若干の疲れが見て取れた。昨夜に明けだと話していたことから恐らく『二徹』なのだろう。泊まり勤務を二日連続で行う、鉄道員の殆どが嫌っていると言っても過言ではない勤務日程だ。

 気の毒さを覚えながらも、問いかけに頷きを返した。


「大丈夫です」


「よし! じゃあ行こう」


 神田は和也の肩を軽く叩くと、廊下に通じる扉へ向かって歩き始めた。和也は少しばかりの緊張を感じながらその後を追った。




 訓練所の扉を開けると、既に照明が点灯していた。換気口も稼働しているようで、ゴウゴウと空気の入れ替わる音が響いている。

 神田と共に足を踏み入れた和也は、視界の隅に映った先客の存在に思わず声を上げた。


「三条さん!」


 どうしてここに? という言葉が続けて出そうになり、慌てて飲み込んだ。お前の指導係だからだよ! という返しをされるに違いない。

 鉄道員の真の世界に飛び込んだ日の記憶が再び思い出された。あの日も、三条が先に訓練所へ来ていたはずだ。


「井上」


 懐かしい日の思い出へと意識が向かいそうになる和也の耳に、神田からの声が届いた。「はい」と返事をしながら向かい合う。


「早速だが、発現した力を見せてくれ」


 その言葉に全身が粟立った。緊張で心臓が激しく波打つ。それは全身が震えているのではと錯覚してしまいそうな程に激しく、手のひらにじんわりと汗が滲んだ。


「はい」


 微かに震える声を返し、神田に背を向けた。一歩前に進み、高い天井を見上げる。首が痛くなる程の高さを誇るこの空間を飛び回った感覚を思い起こしながら、ゆっくりと深呼吸をした。


 ――大丈夫。きっとできる!


 自らを鼓舞し、視線を天井から真正面へと戻す。反対側の壁まで十分な距離があることを確認してから、和也は助走を開始した。しっかりと速度をつけながら足先へ力を送り、タイミングも測る。考えることが多い上に不恰好だが、自分にはこの方法しかない。

 一、二、三! と脳内でカウントダウンを行い、右足で思いきり踏み切った。途端に体がふわりと浮き上がり上昇して行く。

 体が上昇しながら回転し背中が上向きになりかけたが、上手く制御して両足を床へ向けた。この動作が最も難しく気を抜くと墜落してしまう。今回は成功したものの、毎度ヒヤリとして生きた心地がしない。


 空中に立つような姿勢を保ちながら地上の二人を見る。神田は感心したような笑みを浮かべていたが、傍に立つ三条は相変わらず仏頂面だった。

 神田に旋回するように言われ、和也は大きく一回りしてみせた。落下したらどうしようという不安感が脳の片隅に居座っており落ち着かない状態ではあったが、問題なく旋回を終わらせることが出来、和也は地上へ降り立った。


 床へ両足が着地した瞬間、成功したという安堵感が全身を駆け巡り、ほっと息が漏れた。全身から力が抜け崩れ落ちそうになったが、強く踏ん張り堪える。

 そんな和也の元へと神田が大股で歩み寄り、両肩を強く掴んだ。怒っているのかと錯覚する程の力であったが、神田の表情は穏やかだった。


「流石だな。立派なものだ」


 神田からの褒め言葉に首を垂れる。誇らしくも照れ臭くもある、父親に褒められた時と似た感覚に顔が熱くなった。

 しかし「よく頑張った」と褒める神田とは対照的に、三条はどこか不満そうであった。


「……その助走は省略できないのか?」


 痛いところを突かれ、一瞬言葉に詰まった。「すみません」と反射的に謝罪し、まだ助走なしでは飛び上がれないことを伝えると、三条は視線を外しながら鼻で笑った。


「アホウドリみたいだな」


「三条!」


 神田が即座に嗜めるが、三条に反省の素振りは見られない。珍しく口元を緩め、眠たげな印象の目元をこちらに向けている。

 駅神に選ばれた存在とは言っても所詮この程度か。と馬鹿にしているのだろう。言葉にされなくても表情だけで分かる。

 悔しいが、今の実力で三条に一泡吹かせることは出来ないだろう。鉄輪と同じ第四世代の力を有しているとは言え、自身の力はあくまで。遺伝子に力を刻まれた本物には到底敵わないのだ。


 視線を落として落胆する和也の背中が少し強く叩かれる。顔を上げると、心配そうに自らを見下ろす神田と視線が交差した。そう落ち込むな! と語りかけられている気がして、和也は小さく会釈をしてから背筋をピンと伸ばして背筋を正した。ここで落ち込んでいては努力を讃えてくれた神田に対して失礼だ。


 和也は、心と頭を侵食し始めているネガティブな思考を蹴散らすように軽く頭を振った。




 京都駅の地獄を経験した後では、大阪駅の蠢穢が以前にも増して大人しく見えた。動きも鈍く、外見も攻撃的でない。

 拡張された結界内を我が物顔で闊歩する蠢穢を叩き切る。犬型の蠢穢は背後から接近している和也に気付くことはないまま、胴体を分断され消失した。外見から京都駅で見た個体と同一であろうが、能力がまるで違う。


 ――駅神の力が蠢穢の攻撃性と成長を阻害しているのではないか? って話がされているな。


 岩橋の言葉を思い返しながら、結界内をぐるりと見渡した。依代である美しい薔薇の花々に汚れのない白い石畳。この空間を本来の力を取り戻した蠢穢が暴れ回るさまを想像してみるが、どうにも実感が持てない。どうやら心の中には、まだこの駅に関係のない話だと思っている自分がいるようだ。


「悠長なことは言っていられないんだけどな……」


 平和ボケをしている自身の心に語りかけるようにひとりごち、ハルバードを軽く振るった。甲高く鋭利な風切り音が耳に届く。それに続き、ゆっくりとした足音。


「何ボケっと突っ立ってるんだ」


 背後に顔を向けると、不機嫌そうな一重瞼が和也を睨んでいた。下げた両手に握られている双剣の輝きは変わらずで、今にも切り付けられそうな剣呑さである。


「訓練の成果を実践で見せてみろよ」


 三条は言いながら上空を指差した。遠目であるため詳細な形を視認することはできないが、真っ黒な蠢穢が群れを成して飛び回っているのが見える。


「今日はが居ないから手が足りないんだとさ。活躍し放題だな」


 恐らくアイツとは椿のことだろう。第四世代のいないこの駅では、飛ぶ蠢穢の討伐を椿に一任している。神田を始めとした乗務員経験者は忍び錠を拳銃へと変形させる能力を得ているが、相手は素早い蠢穢である。飛び道具では心許ないのが現実だ。


 それにしても……と、和也は隣に立つ三条へと視線を向けた。さらりと投げつけられた活躍し放題という言葉が、どうにも心に引っかかっていてならない。嫌味だろうか?


「嫌味ですか?」


 そう問いかけてみるが当然彼が真意を答えることなどない。「言ってろ」と不機嫌さを隠すこともしない口調で吐き捨て、去って行った。

 そんな三条の正面へ中型の蠢穢が挑発するかのように走り出たが、瞬時に三枚おろしとなり砂と消えた。


 触らぬ神に祟りなし。少なくとも、この戦闘中は必要以上に話しかけるのを避けた方が啓明だろう。

 和也は変わらず飛び回る上空の蠢穢に視線を戻すと、ゆっくりと助走をつけた。

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