第49話 曇り空の心
和也は自宅玄関で革靴を脱ぐと、以前よりも整理された廊下へ足を踏み入れた。そのまま洗面所へ向かい、水道の蛇口を開ける。
手洗いを済ませて顔を上げると、いつもよりも少し疲れた表情の自分と鏡越しに目が合った。
――依代の力を持つ強力な鉄道員を生み出そうとしているのかもしれない。
少しでも動くことをやめると京都駅神の発した予想が頭の中を巡りだす。
本当にそうなのだろうか? という疑問と、駅神の発言に間違いはない! という確信。水と油のような二つの感情が心の中で反発し合い、非常に気持ちが悪い。
脳内で堂々巡りする思考を吹き飛ばそうと頭を強く振ってみるが、悪い思考というものは非常に強固だ。その程度で消滅することはなく、すぐに元の軌道に戻り堂々巡りを再開し始めてしまう。
複雑な感情を抱えたままタオルで両手の水分を拭き取ると、和也はゆっくりとした歩みでリビング兼寝室へと向かった。リュックを下ろし、ワイシャツのボタンを外す。
和也は上半身の衣類を脱ぎながら、依代を得てからの人生で自らが決定をくだしたことがらをぼんやりと思い返した。
一人で祖父母の家へ行きたいと言ったこと。家族旅行の行き先に難波をリクエストしたこと。鉄道会社へ入社し、鉄道員となったこと。
全て挙げるとキリがないが、果たしてそこに自らの意思はあったのだろうか? と考える。依代に誘導されるように生きてきたのではないのか……?
様々な疑惑が心を押しつぶすかのように膨れ上がっていく。脱いだワイシャツをベッドに投げて続いて肌着に手をかけるが、その動作すら不可能になるほど脳と心は疲弊してしまっていた。
和也は肌着を脱ぐことをやめると、ベッドへとうつ伏せに倒れ込み強く目を閉じた。
心臓の鼓動が安定せず、少し息苦しい。どうやら、この問題は一人で抱え込むには余りにも大きすぎるようだ。脳がショートし、心がストレスで壊れるのも時間の問題だろう。
誰かに話して共有したいと感じた。これの解決方法を教示し、且つ他人に漏らさないであろう信頼のおける人物――
条件に合う人物はすぐに思いついた。うつ伏せの体を仰向けに変え、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
連絡先が並ぶ画面をスクロールする指先は、『神田京太郎』の名前の上で停止した。
***
翌日、和也は大阪駅で列車を降りた。一日中曇り空という気分の晴れない天気だが、雨が降るよりは幾分かマシだろう。
和也は昨日と今日の二日間が休みとなっているため、私服姿での大阪駅だ。白色の長袖シャツに黒色のパーカーを羽織り、下はネイビーカラーのデニム。足元のグレーのスニーカーは二週間前に購入したばかりの新顔だ。
空を覆う分厚い雲の影響なのか気温が昨日よりも低く、風がよく抜けるホームは少し肌寒かった。ジメジメとした夏が過ぎ去ってくれるのはありがたいが、ほんの少しの寂しさがある。
和也はパーカーの前を掛け合わせると、雑踏を避けながら駅務室へ足を進めた。
神田に連絡を入れたのは二日前の夕刻。休日で家にいたらしい神田はすぐに電話に出てくれた。電話口からは双子達の声が微かに聞こえており、会話内容から察するに数学の宿題を教えている最中だったらしい。
タイミングが悪かったことを詫びた上で相談したいことがある旨を伝えたところ、二日後の午前になら乗れる。との返答があった。
正直なところ忙しい中わざわざ時間を割いてもらうのは申し訳ないのだが、緊張によってどこか深刻そうな声色になってしまった自分にも責任がある。
自動改札機を抜け、出勤時と同じように関係者入口へと向かう。「失礼します」と声に出しながら扉を開けて駅務室に足を踏み入れた瞬間、勤務中の職員が一斉に視線を向けてきた。
その中にいた長谷川は、和也を見るなり驚いたように目を見開くと「井上くん!」と声を上げながら足早に駆け寄ってきた。
「どうしたのその怪我?」
「これですか? これは――」
一日経過してすっかり瘡蓋になった顎と頬の傷痕に指先で触れながら、説明をするため口を開く。だが、長谷川が「分かった!」と割り込んでくる方が早かった。
「鉄輪に殴られたんでしょ? 絶対そう!」
「え?」
和也の頭に幾つもの疑問符が並んだ。何故そう思うのだろう? と考えている間にも、長谷川は独自の推理を次々に展開する。
「鉄輪ってすぐに手が出る男って有名じゃない! きっと井上くんの態度に難癖つけて一発……酷い!」
勝手に想像を膨らませ憤慨する長谷川に「違います」と否定をするが、興奮しているせいか耳に届いていないようだった。その上、別の女性社員までが数名加わる始末。もはや止めようがない。
毎年新人を虐めているだの、嫁を殴っているだのといった根も葉もない噂が次々に飛び出す。どうやら、鉄輪には悪い噂が多く付き纏っているらしい。
腹が立つ場面は多々あったが、今回ばかりは気の毒に感じる。殴られたのは鉄輪の方だと言うのに。
「井上」
名前を呼ばれて視線を向けると、噂話に持ちきりな長谷川達の奥に神田の姿が見えた。ようやくこの場から解放される! と和也は大きな安堵感を覚えた。例え対象が苦手な相手であっても悪口は聞いていて気分が良いものではない。
和也は悪質なクレーマーを相手にした時とよく似た精神的疲労感を感じながら、神田の元へと向かった。
「訓練お疲れ様。能力が発現したと殿護さんから聞いたよ」
「おめでとう」と祝いの言葉を贈ってくれた神田に一礼する。大阪駅を離れていたのは三日だけだというのに、もう神田の声と姿が懐かしく感じた。温かい父親のようなその存在には、何故だか無性に甘えたくなってしまう。
「早速だが話を聞かせてくれ。秘密は守る」
***
エレベータで三階へ上がり、入社直後の研修にも使用した会議室へ入室する。重要な話は大抵ここでしてきたせいか、会議室が見えるだけで緊張する体になってしまっていた。脈が激しくなり血液が急速に全身を巡る感覚がする。
神田が着席したことを確認してから、和也も「失礼します」と一言告げて席に着いた。
「お忙しい中、時間を割いていただきありがとうございます」
頭を下げながら感謝を述べると、「気にするな」と神田らしい言葉が返ってきた。
「部下のメンタルケアも仕事のうちだ」
頼もしい言葉に、上げた頭を再び下げる。やはり神田を相談相手に選んで正解だったと強く感じながら、和也はことのあらましを話し始めた。
「実は、京都駅の駅神様に――」
神田が話の途中で徐に組んだ腕は、話が終わっても解かれることはなかった。視線を机に落としたまま、真剣な表情をピクリとも崩さない。その様子は、依代について話したあの日のことを思い出させるものだった。
鉄道員の秘密を知り、全てが始まった運命の日――
つい懐かしい光景が脳裏に描かれそうになったが、神田が視線を戻したことで即座に中断された。自らを見つめる神田と目を合わせ、発せられる言葉を待つ。
「……井上はどうしたい?」
和也にとって、その質問は決して予想外などではなかった。相談をすると決めた時から不思議と問われるだろうと感じており、答えはもう決まっていた。
一切迷いのない、強い想いを乗せた返事を神田に返す。
「東京駅へ行かせてください!」
「行ってどうするんだ?」
「駅神様から真実を聞き出します! 京都駅神様の仮説が正しいのかどうか……それを知りたいんです!」
神田はその返事を受けても、ただ静かに和也を見つめていた。会議室には沈黙の帳が降り時が止まったような錯覚を覚えるが、決してそうではないことを秒針の音が教えてくれた。
一鳴り毎に少しずつ緊張が高まっていき、カチコチという無機質な音に心臓の鼓動が重なっていく。
そして、五回目の音と共に神田がゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じた。
「……分かった。東京駅に伝えておく」
神田からの承諾に思わず「本当ですか!」という喜びの声が飛び出したが、すぐさま「ただし」と言葉が被せられた。
和也は喉元を出掛かっていた、ありがとうございます! の言葉を飲み込み続きを待った。
「オレも同行する。部下の抱えている問題だからな」
「分かりました。むしろ心強いです」
その言葉に偽りはない。右も左も分からない土地でもしショッキングな真実が明かされることがあれば、到底まともではいられないだろう。支えてくれる人が必要だ。
「向こうの駅にも予定があるだろうから、連絡を待って井上の勤務日と調整する。日程はまた伝えるよ」
「はい。よろしくお願いします!」
感謝をしっかりとした声で伝え、一礼した。今日だけで三回も頭を下げている。しかし、この頼り甲斐のある上司に対する感謝の礼は三回では足りないと思えた。
「話してくれてありがとう」
神田が立ち上がりながら述べたその一言により、和也の中で燻っていた、余計な仕事を増やしてしまったのではないか? という申し訳なさがほんの少し抑えられた。
腰を上げ、神田の後に続いて部屋を出る。その時、和也のお腹からぐぅという気の抜けた音がかなりの音量で鳴り響いた。体から突然の空腹主張を受け咄嗟に「違います!」と口にしてしまったが、これでは逆に自分の腹が鳴ったことをアピールしているようなものだ。
当然、神田は苦笑いを浮かべる始末。
「すみません。朝食を食べられていなくて……」
相談をすることに対する緊張のせいか体が重く、今朝はなかなか布団から出られなかった。電車の時間には間に合ったのだが、朝食を摂る時間は残されていなかった。完全に自分のミスだ。
朝食を胃に収めてさえいれば、最後の最後にこのような恥を晒すこともなかったいうのに……。だが、後悔して状況が変わるわけではない。
帰宅したら昼食を多めに取って空腹を鎮めよう。そう考えたのも束の間、食べる物が食パンとカップ麺しか残っていない状況だったことを思い出し、和也は肩を落とした。
しかしそんな状況は、神田の一言で一気に好転した。
「昼飯食べに行くか?」
予想外の提案に、驚いて神田を見上げる。普段なら遠慮すべきかお供すべきかを迷うところだが、今回はそのように迷い余裕などない。即答だ。
「行きます!」
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