第48話 誘導

 鉄輪の顔に驚愕の表情が浮かんだのはほんの一瞬だった。すぐさま、心の内で犇く数多の感情を覆い隠すかのように冷静な表情が作り上げられる。


「……いつ発現したんですか?」


「ついさっきだ! 井上が中々に面白い発現方法を思いついてな!」


 機嫌が最高潮に良いのか岩橋は大声を張り上げる。その回答に鉄輪は「そうですか」の一言を返して腕を組んだ。


「やっと本格的な訓練に取り掛かれるんですね。いつまでも変化がないんで、正直うんざりしてたんですよ」


 遠回しに発現が遅いことをなじられ和也の心がチクリと痛んだが、そんなことで落ち込んでいるようでは鉄輪の元で訓練などできない。それは和也自身良く分かっている。


「今は旋回の練習をしていたところでな。おい井上!」


 岩橋が空中の和也に視線を戻し「さっきよりもスピードを上げて旋回してみろ!」と叫ぶ。


「はい!」


 和也は地上に届くよう大きく返事をすると、目線を進みたい方向のできるだけ遠くに向けた。普段なら、出来るだろうか? と不安になるところだが、成功体験の影響なのか妙な自信が漲っていた。


 まずはゆっくりと旋回して様子を見る。スピードが落ちたり蛇行するようなことはなく、進みたい方向へと正確に進行できている。徐々にスピードを上げながら二週目に入るが同じく問題点はない。極めて順調だ。

 和也の中の自信がより大きく膨らむ。今なら出来る! と。


 もう一段階加速してから三週目に突入しようと考え、加速することへ強く意識を向けた。更に早く、昨日鉄輪が見せた手本のような勢いで――


 突然、高度が低下した。

 あ! と思った時には既に落下は始まっており、コントロールを失った体が重力に引かれ猛スピードで風を切る。

 速度を上げることばかりで、飛行し続けるという根幹部分が疎かになってしまったのだろうか?

 落下の恐怖に抗いながらも再び上昇を試みようとした時、和也の手首が突如何者かによって掴まれた。落下の勢いが止まり、その場で宙吊り状態となる。

 恐る恐る視線を上げると、呆れ顔の鉄輪と目が合った。


「がっつり補習を入れてやる。覚悟しておけ」


 鉄輪の口角がニヤリと上げられる。その企むような笑みと補習という単語に冷や汗が滲むが、それ以上に鉄輪の持つ飛行能力の高さに改めて驚かされた。

 地上からここまで六、七メートルはあるだろうか? それ程の距離を一瞬で移動した上、行き過ぎたり空振りすることなく正確に和也の手首を掴んでいる。

 これがの力だ! そう身を持って教えられているような気分になり、自信に溢れていた心が途端に萎縮した。目標としている山は想像よりも遥かに高い。


 鉄輪が和也の手首を掴んだまま、ゆっくりと高度を落とす。やがて和也の両足が着地した。

 長時間飛んでいた訳ではないにも関わらず、ふわふわした浮遊感が抜けない。真っ直ぐ立てているか不安になる妙な感覚だ。

 この感覚にも慣れなければ、空中と地上を行き来しながら戦うことは難しいだろう。能力が発現したものの、未だに課題は多く積み上がっている。


 急激に重さがかかったことで少々痛む手首を摩っていると、様子を見守っていた岩橋が駆け寄って来た。


「凄いじゃないか! 成功したぞ!」


 岩橋は興奮しているのか、和也の両肩を掴み「やったな!」「凄いな!」と称賛の言葉をこれでもかと浴びせてきた。まるで力を完全に使いこなせたかのような褒めっぷりだ。

 照れ臭さと嬉しさが混じり合った感情に、和也は思わず口元を緩ませる。


「ありがとうございます」


「おい、将臣! お前も褒めてやれ!」


 岩橋が鉄輪に褒めるよう促すが、鉄輪は不満そうな表情で首を左右に振った。つまらなそうに両手を頭の後ろで組む。


「完全に力を使えるようになったら褒めますよ。こんなの、まだ初期の初期ですから」


「あのな……たとえ初期の初期でも、一つ壁を越えたんだ。褒めてやってもいいだろう?」


「分かりましたよ……。はいはい、凄い凄い」


 鉄輪から返ってきたのは、余りにも適当すぎる褒め言葉。岩橋は大きくため息を吐きながら、額に手を当てた。かつての教え子が捻くれた性格になってしまったことを憂いているのか、はたまた憤っているのか……。


「将臣! どうしてお前は――」


「それより、その傷だらけの顔は何ですか?」


 鉄輪はわざとらしく顔を顰め、和也へ向かって顎をしゃくる。和也はその発言を受け、自身が負傷していたことを思い出した。

 途端にズキズキとした痛みがぶり返す。


 「そうだった! 怪我の手当てをしなくちゃな……」


 今にも鉄輪へ説教を始めそうな岩橋だったが、慌てて和也へ向き直った。身を屈め、改めて傷の様子を観察した岩橋は「よし」の一声と共に体を伸ばし、和也の両肩に今度は優しく手を置いた。


「駅務室で手当てしてやる。そうしたら今日はもう上がると良い、お疲れ様だったな!」




***




 目が覚めるような赤色の太鼓橋を渡り、和也は駅神の待つ茶室へと足を進めた。


「失礼致します……」


 和也は控えめに入室の挨拶をし、茶室に一歩を踏み入れる。

 昨日と同じく、上がり框から見える障子には駅神の影が投影されていた。背筋が真っ直ぐに伸びたその正座姿勢には神々しさを感じざるを得ない。


 閉められた障子の前に立ち、勝手に開けて良いものか? と一考していると「入り給え」と声がかけられた。軽く会釈をした後、障子の取手に手を掛けてそっと開く。

 真正面の縁側越しに見える蓮の池の美しさには、二度目だというのにやはり息を呑んでしまう。煌びやかな水面は、自力での発現を達成したことで昨日よりも輝いて見えた。


「よく来てくれたね。待っていたよ」


 低く品のある声が茶室に響く。駅神は昨日と同じ姿勢で和也を待っていた。畳の上のお盆には茶碗が一つ乗せられており、茶を立てるための道具も用意されている。


「お待たせ致しまして申し訳ありません」


 形式的な謝罪をしながら、和也は駅神の正面に正座した。駅神は和也の顔を見つめ、柔らかな微笑みを浮かべている。


「君は遅刻などしていない。謝る必要などないよ」


 駅神は茶碗へと視線を移すと、茶せんで抹茶を点て始めた。シャカシャカという小気味良い音が茶室に響く。


「約束を覚えていてくれてよかった」


 駅神が安堵したような口調でこぼす。


「君を呼んだのは、昨日言えなかった話があるからだ」


「言えなかった話……?」


 疑問を口にした和也だが、引き出した昨日の記憶に駅神が何かを話そうとしかけた場面があることに気が付いた。

 それは、一般人に依代を手渡したのは何故か? という疑問を鉄輪が投げた直後。つまり駅神の言えなかった話というのは、その疑問の答えではないか?


「その表情を見るに、どうやら察しがついているようだね」


 駅神の言葉を受け、記憶を探ることに向いていた意識が現在に戻された。湛える笑みが僅かながらに固くなった駅神を見つめながら頷く。


「よろしい、話そう。だがその前に――」


 和也の前に、そっと茶碗が差し出された。駅神の手によって点てられた鮮やかな黄緑色の抹茶が茶碗の中から良い匂いを漂わせている。


「一口如何かな?」


「ありがとうございます。いただきます」


 和也は一言添えてから茶碗を持ち上げ、抹茶をゆっくりと口に含んだ。抹茶そのものの温かさと、そこに溶け込んでいる駅神の力が全身に染み渡り溜まっていた疲れが浄化されていく。駅神によって提供される飲料が持つ効能は本当に不思議だ。


 抹茶をしっかりと味わってから飲み込む。口内には優しいほろ苦さだけが残された。


 中身を半分程頂いた茶碗をそっと元の位置に戻し、正面に向き直る。駅神が小さく頷き、口を開いた。


 「あくまでも私の仮説だが」。そんな前置きから話は始まった。


「東京駅の彼は、強い鉄道員を生み出そうとしたのかもしれない」


「強い鉄道員を……ですか?」


 和也の問いかけに駅神はゆっくりとした動作で、だがしっかりと深く頷く。


「鉄道員に第一世代が多いことは君達も知っての通りだろう? それでは力は強まらないからね」


 そのことは和也も知っている。理由を直接尋ねたことはないが、恐らくは蠢穢の精神を蝕むような外見の影響が大きいのではないだろうか? と思う。あの姿を子供に見せたいと思う親は少ないはずだ。

 勿論、駅神に会い特別な力を得られるというメリットもあるにはあるのだが。


「そのために、覚醒前の人間を結界に招いて依代を手渡したのではないか……と」


 「まあ、ただの仮説だがね」と駅神は苦笑いを浮かべる。

 だが、和也はその仮説に一つの疑問を覚えた。抹茶で喉を潤してから「あの」と遠慮がちに手を上げる。


「覚醒した後に依代を手渡す方が確実なのでは? 一般人に手渡しても鉄道員になるとは限らないですよね?」


 そう疑問を呈すと、駅神は「その疑問は尤もだな」と答え静かに立ち上がった。

 畳の上を摺り足で歩きながら縁側へと向かう。縁側へ出る直前に和也を振り向き「着いてきなさい」と一言。その指示通り、和也は駅神に続いて縁側へと出た。視界一面に蓮の咲き乱れた幻想的な池が広がる。


「試しに、そこの依代を摘んでみなさい」


「えっ! でも、そんなこと――」


「大丈夫だから」


 和也は駅神に言われるがまま池へと身を乗り出し、水面で満開となっている蓮の茎に手を添えた。特に変化はなく、普通に触れることができる。太くて立派な茎だ。

 一呼吸置き、和也は摘み取るため手に力を込めようとした。その時だった。


 突然息が止まった。

 息をしようとするが全く呼吸ができない。呼吸という動作を封じられたかのようだ。吸うことも吐くこともできず、息苦しさだけが積もっていく。

 同時に、強い恐怖感が全身を駆け巡った。自身の死を感じさせるような恐怖であり、時間の経過と共に強さが増していく。死が背後から迫り来るよう。


 全身に脂汗が染み出し、手が震え始めた。周囲は漆黒に染まり、摘もうとしている依代だけが不気味に浮かび上がっている。

 恐怖感がさらに強まり、これから自らは死を迎えるのだ! という強迫観念が脳の大部分を侵食し始めた。まともな思考が回らなくなっていく。


 鋭利な爪を備えた化け物が、背後から自らの首を切り裂こうと狙っている感覚がする。首筋に生暖かい吐息がかかり、冷えた爪が皮膚に食い込む――


 そこで漸く和也は手を離すことができた。体に力が入らず、その場に仰向けで倒れ込む。止まっていた呼吸が再開し、肺が急速に酸素を取り込み始めた。周囲の景色も復活し、美しい結界内が視界を彩る。


「今……何、が……」


「どうしたのかな? 何もいないし三秒も経っていないよ」


 半分パニック状態に陥っている和也に駅神が少々茶化すように声をかける。


 ――何もいない? いや、そんなはずは……!


 倒れ込んだまま周囲に視線を巡らせるが、駅神の言う通り他存在の気配はない。自身の首を狙っていた化け物は一体どこへ消えたのか。

 残されたのは恐怖心によって引き起こされた激しい鼓動だけ。


「怖がらせてすまないね。体は大丈夫かな?」


 駅神は和也の手を掴んで引き起こした。和也はややふらつきながらも何とか立ち上がる。

 ほんの少し不安感が残る胸を押さえながら、自身が手にかけようとした依代を見つめた。薄い桃色の花弁は、先程感じた恐怖感とは程遠い美しさを放っている。


 三秒も経っていないという駅神の言葉が信じられなかった。自分はもっと長い時間を恐怖と苦しみの中で過ごしたというのに。


「さっきのは、一体……?」


「あれは君の霊の怒りさ」


 駅神は答えながら視線を池へ移した。


「結界や私を傷付けようとすると鉄道員の霊が怒り、肉体に恐怖心を与えるのだよ」


「つまり、君の話した『覚醒後に依代を渡せばいい』という意見は現実的でないということだ。そして――」


 駅神は和也に向き直ると、白色詰襟の胸元に手を当てた。


「この私も依代を摘むことはできない。この結界は私そのもの、自傷行為などは決して許されない」


「つまり、依代を摘むことができるのは鉄道員の霊を持たないだけということ……?」


「その通りだよ」


 確かに。と、和也は取り戻した東京駅神とのやり取りを思い返した。駅神は依代を『お土産』と称して和也にしていた。自らは一切手を出そうとせずに。


「東京駅の彼は、依代の力を持つ強力な鉄道員を生み出すことで戦闘力不足を補おうとしているのかもしれない」


「戦闘力不足を……」


 駅神は、第二世代や第三世代が足りないことの穴埋めをしようとしたのだろうか?

 和也は胸ポケットからお守り袋を取り出すと、中身の依代を引き抜いた。最近は神々しささえ感じるようになったこの依代を自身に摘ませた時、駅神はそんなことを考えていたのだろうか?


 しかし自らが呈した疑問の通り、その子供が必ずしも鉄道員になるとは限らない。もし別の職業にでも就かれれば貴重な依代が無駄になる。非常に賭けの要素が強いように思えた。

 依代を得た子供を誘導できるよう、何か鉄道員に対して強烈な印象でも抱かせない限りは――


「……あ」


 和也の脳が一瞬フリーズした。直後に過去の記憶が猛スピードで引き摺り出されてくる。

 線路を覗き込む駅員、浮き上がる傘、その時に抱いた興奮――


 全身が粟立ち、依代を持つ手が震えた。


「どうしたのかな?」


 駅神に問われ、和也は急速に溢れ出してきた唾を飲み込んだ後に答えた。


「僕は東京駅の駅神様に……誘導されていたのかもしれません」

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