第47話 披荊斬棘

 和也は昨日と同じように、直立不動の姿勢で目を閉じた。足先に血を流し込むようなイメージを、しっかり脳内に描く。

 討伐の最後、落下して来た蠢穢の頭部を避けるために突如発現した能力は、訓練の際とは違って床から浮き上がることが出来ていた。あの時の感覚を思い出せば再度発現が可能なのではないか?


 壁際で見守ってくれている岩橋からそのようなアドバイスを貰い、和也は三十分前に今の姿勢を取り始めたのだった。

 それにしても……と、蠢穢を叩き落とした直後の鉄輪の表情を思い返す。妙にニヤついており、発現させるためにわざと蠢穢を頭上に落下させたのではないか? との疑念が浮かんで仕方がない。


 そんなノイズとなりえる思考を慌てて消し去り、集中力を高め直す。時間経過によって集中力が切れやすくなってきているらしい……急がなければ。

 だが、この焦りも良くない感情だ。和也は落ち着いて深呼吸をし、焦る気持ちも頭から追い出した。まっさらな脳内で、記憶している発現の瞬間を再生する。

 あの時何が起こったか……体に感じた感覚……がどのように全身を移動したか……。

 そういえば直前に後ろへ飛び退いたな。と思い出す。それも意識に加え、もう一度深呼吸。


 しかし中々上手くはいかない。避けたときと似た状況にするためバックステップを数回試してみるが、結果は変わらず。


「どうしてなんだ……」


 和也はその場に屈み込んだ。深く息を吐く度に、得られかけていた自信が外へ外へと追いやられていく。やはり鉄輪が言った通り、大きな危機が迫った瞬間にしか発現出来ないのだろうか? そのような条件付きの能力など持っていないのと何も変わらない。


「畜生……」


 自らの不甲斐なさにそんな言葉が漏れた。自身を卑下するのは良くないが、そうならざるを得ない状況だ。どうすれば発現できるのか? と、脳内で新たな方法を考えては却下を何度も繰り返した時、ふと脳裏に懐かしい記憶が蘇った。


 ――ほら、お母さんのタイミングで飛ぼう! 一、二、三!


 記憶の中で響く母の声は若々しかった。そして、この声かけをされたのは小学三年生の時だったはずだと思い出す。学年の大半がクリアしていた逆上がりを会得できずにいた当時の和也に、休日の朝から付きっきりで教えてくれた時のものだ。

 確か、それまではひたすら適当に強く地面を蹴る方法をとっていたのだが、母の告げるタイミングに合わせて地面を蹴る方法に変えた途端足の上がり方がよくなったのだ。

 地面を蹴るタイミングを決めることで力が集中したのか、母が見守っていてくれていたおかげで力が出たのかは不明だが、成功した記憶は間違いなく残っている。


 それにしても懐かしい。あの日に嗅いだ公園の土の香りや喧しい熊蝉の鳴き声までが鮮明に蘇ってくる。懐旧の情に浸って動けなくなっている和也を不信がってか、岩橋が「どうした?」と声をかけてきた。


「いえ、少し昔を思い出して……」


 それだけを告げて訓練に戻ろうとしたが、岩橋は「どんなことを思い出したんだ?」とかなり興味深そうだ。大したことではないという言葉で切り抜けようかと思ったが、困難を乗り越えて新たな技を会得した。というシチュエーションは今現在と重なる部分がある。現状の困難を切り抜く手がかりになるかもしれない。

 特別恥ずかしい記憶という訳でもなく、話すのを渋る必要性は皆無だ。和也は思い出した過去を鮮明なうちに岩橋と共有するべく口を開いた。

 

「逆上がりができるようになった日の記憶です。小学三年生の夏で――」



 

 和也の思い出話に頷きながら耳を傾けていた岩橋は、話が終わった途端に壁にもたれていた体を起こし「やろう!」と大きく吠えた。


「やる……? 何をですか?」

 

「同じ要領で今度は能力の発現を成功させるんだ! オレが合図をしてやるから、そうだな……端から全力で助走をつけろ!」


「分かりました。やってみます」


 和也は岩橋に返事をすると訓練所の壁際へと足早に移動した。発現出来る手立てが見つからない以上、何でも構わずやってみる価値はある。

 改めて見渡すと訓練所はかなりの広さがあった。これならば全速力で駆けても問題ないだろう。念のために両足の筋を伸ばし、腰を回してストレッチを行う。準備は万端だ。


「昔と同じように一、二、三の三で飛ぶのでいいよな?」


「はい。それで大丈夫です」


 岩橋からの提案に即答し、来る合図を待つ。


「よし! 全力で行け!」


 和也は床を強く蹴り、勢い良く走り出した。コンクリートの床を蹴り進む足音が広い空間に反響し、やかましく響く。岩橋から合図がされるまで只ひたすらに一直線へ駆け続けた。一分程走り続け、訓練所の中心を通り過ぎた辺りで合図が飛んだ。


「いくぞ! 一、二、三!」


 開始の合図と同じくらい大きな声だった。和也はその場でしっかりと踏み切り、駆けてきた勢いのまま思いっきり宙に飛び出す。ふわりと宙に浮き上がる感覚がした。

 だが、その感覚の持つ奇妙さにはすぐに気が付いた。幅跳びで得る感覚とは明らかに違う何かで、途端に体勢が不自然に変化した。背中が上を向くという通常ではあり得ない状況に、成功か? と心が踊る。

 だがその感覚は瞬時に消失し、和也は受け身を取る余裕もなく顔面からコンクリートの床に叩きつけられた。


「大丈夫か!」


 岩橋の声と、走り寄って来る足音が響く。顔面に広がる激痛に耐えながら、和也はゆっくりと上半身を起こした。ヒリヒリと痛む下顎を触ると皮の剥がれた感触があり、指先に真っ赤な血液が付着した。

 駆けつけた岩橋が和也の脇に屈み込み、強打した顔を覗き込む。


「うわ……酷く擦りむいてるな。歯とかは折れてないか?」


「それは大丈夫だと思います」


 そう答えた後、和也は舌で歯全体を軽く触ってみた。何か違和感を感じる箇所はなく、口の中に歯そのものや欠けた一部があるということもない。


「取り敢えず手当した方がいい。一度駅務室に――」


「待ってください!」


 和也の腕を持って立ち上がらせようとする岩橋に、慌てて静止の声をかけた。驚いた様子の岩橋を見つめながらその場に立ち上がる。


「何となく感覚が掴めそうなんです。忘れてしまう前に成功まで持っていかせてください!」


 その言葉に嘘はない。一瞬だけ感じた浮き上がるような感覚――あれを自らの物に出来そうな予感が不思議とするのだ。


「気持ちは分かるが、これ以上顔を痛めるのは……」


 岩橋は少しの間考え込んでいた。訓練とは言え和也は他社から預かっている人間であり、ましてや岩橋は正規の担当者ではない。大きな怪我を追わせたくないという思考が働いているのだろうことは明らかだった。

 しかし岩橋はやがて何か解決策を思いついたのか、唐突に立ち上がった。


「分かった! オレがここで受け止めてやる。そうすれば顔は守られるはずだ!」


「全力で走って来い!」と両腕を広げる岩橋を見て、頼もしさからつい笑みが溢れた。


「はい!」


 しっかりと返事をしてスタート地点へと戻る。その間も、脳内で踏み切った瞬間にするべき動作のシミュレーションを行った。何とか仕事を終えるまでには成功させたい! と強く願いながら定位置に着く。そこから遠く離れた岩橋を見つめると「いつでもいいぞ!」という太い声が聞こえてきた。この距離でもハッキリと耳に届く良い声だ。


「行きます!」


 腹からしっかりと声を出した宣言で、和也は助走を開始した。先程よりも早く、より勢いをつける。風を切って走る感覚が心地良かった。

 先程踏み切った位置が見えてきた。落ち着いて呼吸のリズムを乱さないよう意識する。後少し――


「一!」


 後数歩――


「二!」


 ――ここだ!


「三!」


 全力で踏み切り宙へと飛び出した体は、やはり独特の浮遊感に包まれた。

 この感覚を自らの物にしなければ! 強く意気込む和也の視界が途端にスローモーションと化した。だが不思議と驚きはなく、脳は冷静なまま行うべき行動を実行し続けている。

 全身の力を抜き、両足にを送る。そのまま飛び上がる様子を頭に描いて――


 残念ながら飛行の成功とはならず、顔面から岩橋の胸に勢いそのままで突っ込んだ。溜め込まれた脂肪がクッションの役割を果たしたようで痛みはない。受け止めた側の岩橋も体格差の影響なのか、もしくは体幹が優れているのか立ったまま和也を抱き止めていた。


「大丈夫か?」


「はい。お陰様で何ともありません!」


 もっちりとした抱き枕のような岩橋の体から離れ、大きく深呼吸をした。飛ぶ意識を描くのがワンテンポ遅れたように思う。それさえ改善できれば成功できる!


 小さな反省を繰り返しながら定位置に戻り、再び助走を開始する。先程と走る速さは変えず、同じタイミングで踏み切れるよう意識した。

 走りに勢いが付き、踏み切り場所が迫ってきた。


「一、二――」


 肺全体を満たすように大きく息を吸う。


「三!」


 全力で踏み切り、足が床を離れた瞬間に脳内でイメージを描いた。同時に、血の流れも意識する。独特の浮遊感に包まれたが、慌てずに目を閉じて集中する。血の流れとイメージだけを大切に。慌てず、ゆっくりと――


「井上!」


 岩橋の声に目を開き、声の聞こえた方向へ視線を向ける。岩橋の体が随分と小さいことに違和感を覚えるのと、その言葉をかけられるのは同時だった。


「成功してるぞ!」


「……あ」


 和也の体はかなり上空へと浮き上がっていた。背中を上にした体勢であり、まるでUFOキャッチャーに掴まれているような間抜けさが気に食わないが、そんな気持ちよりも成功した喜びの方が比べ物にならないくらい上回っていた。


「やった……! やりましたよ! 岩橋さん!」


 溢れ出る喜びに声量をコントロールする余裕もない。自分の声ではあるものの、反響して耳に届くそれは喧しいことこの上なかった。


「よし! そのままゆっくり旋回してみろ! 慌てるなよ」


 飛び上がることに成功しても、変わらず難所続きだ。和也は旋回するイメージ――鉄輪が訓練初日に見せてくれた動きを頭に描いた。ただ、そればかりに意識が向かないよう気を付ける。浮き上がるというイメージも持ち続けなければ落下してしまうからだ。

 水中を泳ぐペンギンのように滑らかな移動を心がけ、ゆっくり焦らないよう旋回する。視線は、下ではなく真正面に。


「いい調子だぞ! 慌てずスピードを――」


 不意に岩橋の言葉が止まった。訓練所の扉が開かれたことによる金属音が辺り一帯に響く。和也は落下しないよう最新の注意をはらいながら視線を出入り口に向けた。


「すみません、戻りました」


 遠慮がちに謝罪を述べながら姿を見せたのは、予想通り鉄輪だった。岩橋に対して会釈をする姿に普段の粗暴は微塵も見られない。指導担当者を事前相談もなくかつての師に押し付けてしまった申し訳無さからだろうか。

 

 だが、そのような様子を見せるのも一瞬のうちだった。「井上は小便ですか?」と煽るような問いかけを送り、自らの内に滾る自信を誇示するかのように腕を組む。

 その問いかけに岩橋は上空を指さして答えた。指先を追うように視線を上げた鉄輪と和也の視線が交錯した。

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