第46話 傷痍の朝

 目覚まし時計のけたたましいベルの音が和也の鼓膜を激しく震わせる。重い体を何とか引き起こし、枕元で鳴り響くベルを止めた。

 たが、ベルの音はまだ消えない。和也は二つ目の目覚まし時計を止めるためにベッドを降りた。眠気でふらつく足を気合いで動かし体を進める。


 二つ目のスイッチも押して寝室を静寂に戻すと、目頭を強く抑えた。

 いつものことではあるが、睡眠時間を三時間しか確保できないのは酷としか言いようがない。肉体から疲れが完全に取れたとは言い難く、頭もぼんやりとして上手く思考が纏まらない。


 そんな半分眠っているような頭に、昨夜の記憶の断片が浮かんだ。そうだ! と、和也は急いで左肩の状態を確認する。

 傷一つない、至極綺麗な肩。それを見て安心感からホッと息が漏れた。


 依代が血の代わりを成している――その奇妙な現象については、岩橋が簡潔に教えてくれた。


 霊を抜き出した状態は肉体を持たないため当然出血などしない。傷付いた際に流れるのは血ではなく霊を満たすもの――つまり鉄道員の力を象徴する依代であると。


 また岩橋は、依代をそれにより失っても力が弱まる訳ではないこと、痛みは一瞬しか感じないが決して無敵ではないこと。の二つも教えてくれた。

 霊が多少傷ついても討伐の最後に駅神様からを施してもらえるが、致命傷となる損傷を受けると霊は一時的に失われ、戦闘から強制的に離脱することになる。そうなれば霊が傷を受けたまま肉体に戻り、痛みが発生すると。


 ――自分は幸い治療を施してもらえたが、もし致命傷を受けたらどれ程の痛みが肉体を襲うのだろうか……?


 最悪の想像が目覚めたばかりの頭を駆け巡り、少しばかり気分が悪くなる。深呼吸をして精神状態を整えると、和也は仮眠室を出た。


 廊下では既に何人もの職員が忙しなく行き来をしており、皆、片手に歯ブラシ等の入ったを持っていた。勿論、和也の右手にも提げられている。普段大阪駅で使っている物と同じ、小さな紺色のメッシュ手提げだ。


「調子はどうだ!」


 そう声をかけられると同時に背後から思いっきり背中を叩かれた。内臓が全て口から飛び出てしまうのではないか? と思うほどの衝撃に和也の体が大きくよろける。

 当人は強く叩いたつもりなどないのだろうが、痛いものは痛い。心臓は驚いたせいなのか、それとも少し位置がずれでもしたのか激しい鼓動を刻み続けていた。


 朝から手荒い起床の挨拶を向けてきた声の主は顔を見なくても分かるが、振り返らないわけにもいかない。


 和也は体ごと仮眠明けの岩橋に向けると、そのはにかんでいる顔に目を向けた。得た睡眠時間は同じであるにも関わらず岩橋はどこかエネルギッシュで、表情や立ち姿に疲れは全く滲んでいない。自身との差は間違いなく性格であろうが、自身が岩橋のように振る舞う姿は想像したくない。軽く考えただけで目眩がした。


「良く眠れたか?」


 相変わらず声が大きく覇気がある。和也は、思わず押忍! と答えそうになる衝動を抑えながら「それなりに」と返答した。


 「それは良かった!」と岩橋が自分のことのように喜び笑い声をあげた時、その大きな体の向こうから「通してくれ!」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。廊下を歩いていた職員が端に移動して道を開ける。すると、小柄な職員を抱きかかえた鉄輪が姿を見せた。それを見た和也の脳裏を岩橋の言葉が過る。


 ――霊が傷付いたまま戻ると肉体的な痛みが発生する。

 

 まさか! と抱えられた職員へ視線を向かわせた。和也とは同年代と思われ、顔を苦痛に歪ませて大量の脂汗をかいている。歯を食いしばって呻きながら痛みに耐える姿は只々悲惨だった。

 岩橋が鉄輪を追うように歩いてきた職員を捕まえ問いかける。


「おい! 森川、蠢穢にやられたのか?」


 呼び止められたその職員は、「ああ」と至極心配そうな表情で頷いた。


「左足を切り落とされたんだと。独り立ちしてから時間が経ってるし、油断したんだろうな」


 左足を切り落とされた――想像を遥かに超える恐ろしさに慄きつつも、和也は森川と呼ばれた抱えられていた職員の姿を思い返した。一瞬ではあったが、足に負傷は見当たらなかったように思う。そもそも片足に欠損があれば流石に気が付くはずだ。

 だが、森川は酷く苦痛を感じていた。あれが演技だとは到底思えず、霊の傷が肉体に痛みを与えるのだということを和也は強く意識させられた。


「そうか……ありがとう」


 岩橋は腕を掴んでいた手を離すと、「可哀想に」と呟きながら鉄輪が歩いて行った廊下の先へ切なげな視線を向けた。

 和也も同じく視線を向ける。森川はこれから駅神の手による治療を受けることになるのだろうが、霊を失った状態で施される治療はどのようなものなのだろうか?

 一瞬で楽になるのか、それとも治療中は別の痛みを感じるのか……。そんな疑問が頭の中に広がり始めた瞬間、今まで麻痺していたのか強い恐怖感がドッと心に押し寄せた。


 あの時――四体の大型蠢穢に囲まれた時、一瞬でも気を抜いていたら同じ状況になったかもしれない。実際危うい場面は多々あった。手足は勿論のこと、首だって落とされていたかもしれない。もし首が落とされれば、肉体の感じる痛みはどれ程の強さなのか――

 仮眠室を出る直前にした最悪の想像がより身近に感じられ背筋が凍った。周囲の音が薄れ、全身から血の気が引いていくのを感じる。


「おい! 大丈夫か?」


 岩橋から声をかけられ、思考の悪い巡りが止まった。遮断されていた聴覚が戻ってくる。仮眠室は既に平穏を取り戻しており、若干の騒がしさが復活していた。皆が準備の続きに勤しんでいる姿を見て、和也は安堵感から息をついた。


「何か悪い想像でもしていたか?」


 ピタリと当てられたことに驚きつつも、あの状況で考えてしまう内容はそれしかないか。と納得した。


「はい……。今回は何事もなく討伐できただけですが、次は自分があのように痛みに悶えるかもしれないと考えてしまって」


「その考えを持てているなら上出来だ! 慢心ほど危険な存在はないからな。最大の敵は自分だぞ!」


「そうですね。ありがとうございます」


 岩橋の言う通りだ。常に危機感を持っていれば負傷する率も下がるだろう。とは言っても、いつかはその時が来るはずだ。それは覚悟しておかなければならない。

 それにしても研修前には考えもしなかったことだ。討伐へ赴くことが怖くならなけばよいのだが……。


 ――そもそも、何故大阪駅の蠢穢は攻撃的でないのだろうか?


 覚醒直後に三条から、攻撃してくる蠢穢もいる。と聞いてはいたが遭遇したことは一度もなく蠢穢の中でも稀有な存在なのかと決め込んでいのたが、京都駅の蠢穢を見るにどうやら違うらしい。

 和也は、その件に関して岩橋が何かを言いかけていたことを思い出した。蠢穢の討伐に時間をとられ、何を話そうとしたのかを結局聞けていない。


「あの、岩橋さんにお聞きしたいことがあって。大阪駅の蠢穢の件に関してなのですが――」


 そう切り出すと、岩橋は「お! 話そびれたやつか!」と、手を打った。どうやら彼も話をしかけたことは覚えていたらしい。


「井上は今日の明けまで訓練の続きだろ? 訓練所に向かいながら話してやる」

 

「え? 今日は岩橋さんが指導してくださるんですか?」


 そのような話は一言も聞いていないが……。と心の中で首を傾げると、岩橋は「将臣は森川を連れて行っただろ?」と答えた。


「将臣は粗暴な部分が目立つけれど仲間思いな奴でな。きっと森川が回復するまで戻ってこないはずだ」

 

「だからオレが臨時で担当してやる」岩橋は自信満々な笑顔でそう宣言すると、再び和也の背中を平手で打った。気合を入れろよ! とでも言わんばかりの凄まじい衝撃。撃たれた箇所がジンジンと痛み、脳の片隅にしつこく存在していた眠気は忽ち吹き飛んだ。


「よし、朝礼が終わったら集合だ!」


 痛みに悶える和也を他所に、岩橋はガハハと上機嫌に笑いながら廊下を歩き去って言った。




 一人だけが他社の制服を着用している――そんな居心地の悪い朝礼を終えた和也は、岩橋と合流して地下の訓練所へと向かっていた。


「大阪駅の蠢穢が大人しくなったのは……確か二年前の年の瀬だな。片町の駅神様が流れ着いたのと同時期だ」


 ひんやりとした空気に包まれている仮眠室地下の廊下を並んで歩き、若干反響している岩橋からの説明に耳を傾ける。


「駅を失っても神としての力はまだ残っていて、その力が蠢穢の攻撃性と成長を阻害しているのではないか? って話がされているな」


 岩橋は「推測の域を出ないが」と付け加え、訓練所に通じる重い扉を開いた。少し錆ついた音と共に、扉の向こうに暗闇が現れる。和也は岩橋に続いて中へと入り、しっかりと足を踏ん張りながら扉を閉めた。重量があるだけではなく錆のせいで動きが悪く、余計に重く感じてしまう。

 岩橋が照明のスイッチを入れたようで、訓練所内が一気に明るくなった。同時に換気口が空気を循環させる音がゆっくりと響きだす。


「その影響からか、井上の見た例の蠢穢は大阪駅では駅神が来て以降姿を消していたはずでな。再び現れたということは――」


「神としての力が弱まっている……ということでしょうか?」


 和也の質問に、岩橋は唸りながら太い腕を組む。


「分からんな……。何せ駅を失った駅神が死なずにいること自体が、鉄道開業以来初めての経験だからな」


 岩橋は解いた両手を腰に当てると、お手上げだと言わんばかりにため息をついた。


「ま、オレに言えることがあるとするならば、蠢穢の攻撃性が戻るかもしれないってことだ。しっかり戦闘力を上げてから駅に帰れよ!」

 

「分かりました。ひとまずは自力での発現を目指して頑張ります」


 岩橋は和也の宣言した目標に満足そうに頷いた。やはり包容力があって頼れる人だなと感じる。鉄輪の雑な受け答えとは雲泥の差だ。

 このまま鉄輪が戻って来ても担当を続けてもらいたい……。本来の指導者に対して失礼なことを考えかけた頭をリセットし、高い天井を見上げながら深く息を吸う。

 せめて今日中には飛行能力を獲得して帰りたい! そう強く願いながら訓練を開始した。

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