第11話 時空の広場
和也は目を覚ました。上半身を起こして周囲を見渡してみるものの、室内は明かりが消されており状況は一切分からない。
ただ体は調子を取り戻しているようで、吐き気と喉の違和感は共に消失していた。そして、その体は倒れたはずの床の上ではなくベッドの上にあった。
――もしかして、あの光景は夢だったのか?
その可能性は大いにあるだろう。と思った。薔薇の花びらを吐き続けるなんて、どう考えても異常だ。思い出すだけで気持ち悪くなってくる。
おかしな夢を見てしまう程に疲れているのだろう。早く業務に復帰できるようにしっかりと体を休めなければ……。
そう考えながらベッドに横になり、布団を被ろうと持ち上げた時だった。
――行かないと。
突然、そのような衝動に駆られた。再び上半身を起こし、鼓動が少しばかり早まった胸元を軽く押さえる。
今のは一体何だろうか? 頭の中に住む何者かが思考に介入してきたようで、酷く気味が悪い。
――そんなことを考えている場合じゃない。行かないと。
再び思考の介入が発生した。ベッドから降り、スリッパに足を入れる。立ち上がるが目眩は無い。
――どこに行かなければならないんだろう? いや、余計なことを考えては駄目だ。行かないと!
ゆっくりと足を踏み出し療養室を出るが、部屋の外も室内同様暗闇に包まれていた。目が慣れてきてある程度見えるようになっては来たが、薄暗いことに変わりはない。
廊下を歩き駅務室に入るが、その駅務室も明かりが消されている。どうやら、もう終電は出てしまっているようだ。
――早く行かないと。
歩くスピードを少しばかり早め、人気のない駅務室を出る。扉を開けた瞬間、夏の湿った夜風が和也の体を包み込んだ。
眼前に飛び込んできたのは大阪の夜景。自分以外に誰もいない、無音の中で眺める夜景の美しさは別格だった。月明かりと煌びやかなネオンの明かりが視界を確保してくれている。
――綺麗だ……。いや、違う。早く行かないと。
一体どこに行くというんだ? 疑問を呈する心とは裏腹に足は迷いなく進み続けており、ただどこかを目指している。駅ビルは当然閉まっており、いつもは大勢の人が行き交っている二つの駅ビルを繋ぐ広場は、気味が悪いほど静まり返っていた。
その広場から伸びる、幅が広く長い階段を見上げる。この上に何があるか、当然和也は知っていた。二〇十一年の大規模改良工事で誕生した大阪駅の新たなシンボル『
スリッパが脱げ落ちないよう慎重に階段を上る。夜風を背中に受けながら、ひたすら上を目指した。
――自分は何故、時空の広場を目指しているんだろう。そこに一体何があるというんだ。いや、考えるな。とにかく行かないと!
六十四段もある長い階段を登りきると、時空の広場のシンボルである金時計が現れた。その堂々とした佇まいに引き込まれるようにして歩み寄る。
金時計の文字盤を見上げたその時、和也は軽い目眩を覚えた。
また体調不良が戻ってきたのだろうか? と思ったが、少し違う。まるで車酔いのような独特の気持ち悪さ。同時に目の前の景色が歪み始めた。平衡感覚を失いそうになり思わず目を閉じる。
目眩は十秒程で治まった。何が起きたのだろうか? と思いながら目を開けた時、和也は目に飛び込んできた異常すぎる光景に声を漏らした。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、自分の知る時空の広場ではなかった。金時計こそ残っているものの、広場一体は色鮮やかな薔薇の花に囲まれていた。
赤、黄、白、ピンク……様々な色合いの薔薇が咲き乱れ、つる性から木立ち性まで入り乱れている。しかし乱雑に咲いている訳では決してなく、細やかな手入れがされている印象を受けた。
まるで外国のローズガーデンのような趣ある空間。御伽話の中に迷い込んだような状況に、思わず息を呑む。
――どうして……もしかして駅全体が……?
大阪駅全体が薔薇の花に飲まれてしまったのでは? そのような懸念が浮かび振り返った和也の背後には、大きな薔薇のアーチが建っていた。つる薔薇が抱きつくようにして表面を覆い、幾つもの真っ赤な花を咲かせている。
そして、そのアーチから向こう側は濃霧に包まれたかのように白く、登って来た階段や聳え建つ駅ビルは見えなくなっていた。
時空の広場を覆う大阪駅自慢の大屋根までもが姿を消しており、まるで隔離された空間のようだ。
では、広場の下はどうなっているだろうか。
時空の広場はホームの真上に位置している。行き交う列車を眺められる絶好のポイントとして子供や鉄道ファンのみならず、一般の人々もよく真下の線路を覗き込んでいた。
和也は石畳へと変化している床を踏みしめながら、線路を見下ろせる時空の広場の端へと向かった。
コツと靴音が鳴った。スリッパを履いているはずなのにと驚いて足元を見る。
和也の履き物は革靴へと変わっていた。まさか! と自らの服装を確認しする。寝間着を着ていたはずだったのだが、いつの間にか制服姿となっていた。そっと頭に手を伸ばすと、制帽もしっかりとその手に触れた。
「一体何がどうなっているんだ……」
立て続けに起こった奇妙な現象に理解が追いつかず、つい独り言が漏れる。端にあったはずのガラス張りの柵は木製の物に置き換わっており、アーチと同様に沢山のつる性薔薇が巻き付いていた。ただ、ここはアーチと違って複数色の花が咲いている。
花を潰さないように避けながら柵を掴む。真下を覗き込むと、やはり予想通り霧に包まれていた。電車の姿は見えず、勿論走行音も聞こえない。
「どこなんだろうな、ここは」
再び独り言を漏らし、柵から手を下ろした。一体どうすれば元の大阪駅に帰れるのかと考え始めた時、カチャリとガラス製の食器がぶつかり合うような音が聞こえた。
――誰かいる!
驚いて辺りを見渡す。人影は見えないが、ここには沢山の薔薇の木やトピアリーが存在しており隠れる場所など幾らでもある。
だが、和也は不思議と確信していた。視線をこの空間内に唯一建っている建物へと移す。本来の時空の広場ではカフェが営業している場所に建つ、白い壁面と淡い赤色の屋根が特徴的な小屋。そこに誰かがいる。
和也は深呼吸をして呼吸を整えてから、小屋に向かって歩み始めた。
小屋の右手前には壁がなく、テラスのようになっていた。そこにはモザイク調のタイルがお洒落なガーデンテーブルと、お揃いのアイアンチェアが二脚置かれていた。
砂埃一つ乗っていない綺麗なテーブルを覗き込んだ時、ふと紅茶の香りがした。
「座り給え」
心臓が口から飛び出すのではないかというくらいに大きく跳ねた。暴れ続ける心臓を落ち着かせようと、視線はそのままに息を吐く。
耳に届いたのは品のある低い声だった。和也は緊張によって過度に分泌された唾を飲み込むと、声のした方向である小屋の中に恐る恐る顔を向けた。
小屋の中にはカウンタータイプの作業台があり、そこで白い詰め襟を着た人物が何か作業をしていた。背を向けているため顔は見えないが、声色からして男性だろう。髪は短く、髪色は白髪交じりの黒。
「……し、失礼致します」
和也はその人物に顔を向けたまま、静かに椅子を引いて着席した。制帽を脱ぎ、揃えた膝の上に置く。声に含まれている緊張を感じ取ったのか、男性はかすかに含み笑い漏らした。
「緊張しているかね?」
「ええ……それは、もう」
再び含み笑いが聞こえた。
「心配しなくとも取って食べたりはしない。私はお祝いがしたいだけだ」
「お祝い?」
男性は「そうだ」の声と共に振り向いた。歳は五十後半から六十頃だろうと思われる外見。切れ長の目が印象的だ。着用している白色詰め襟の左右の襟元には、動輪の模様が彫られたバッヂが留められていた。
両手で金の縁取りが施された白色のトレイを持っており、その上にはお揃いのポットと二つのティーカップ、そしてマドレーヌの入った小皿が乗っていた。
「君が、晴れて私の息子になったお祝いだ」
そう言いながら和也に歩み寄ると、テーブルにトレイをそっと載せた。そしてティーカップの一つをソーサーと共に和也の目の前に置く。
「さあ、召し上がれ」
「あ……頂きます……」
和也の心臓は未だに暴れており、そのせいで声が上手く出せなかった。極度の緊張状態にあることが丸わかりの状況に、自然と顔が熱くなる。
再び唾を飲み込んでから、置かれたティーカップを持ち上げた。ティーカップの中には透明感のあるセピア色の紅茶が注がれていたが、表面に見慣れないものが浮いていた。
小さな薔薇の蕾。
和也がいかにも奇妙そうに見つめいていたからだろうか、いつの間にか正面に着席していた男性は自らのティーカップを持ち上げながら和也に問いかけてきた。
「ローズティーは初めてかね?」
「あ、いや……はい」
和也の緊張に押しつぶされたかのような返事に笑みを零すと、男性はティーカップを口に運び紅茶を一口飲んだ。
「私は、このローズティーが大好きでね。子供達も大好きだ。君も、きっと好きになれる」
和也はもう一度薔薇の蕾を見つめると、恐る恐るティーカップを口に運んだ。甘い香りが鼻腔をつく。
温かい紅茶を一口含む。飲み込むと同時に気品のある薔薇の香りが一気に広がった。味はどこか甘くてフローラル。今まで飲んだことのない、繊細な味わいだった。
「美味しいです……」
「それは良かった」
男性はそう言って笑うと再び紅茶を飲んだ。和也も二口目を頂くとティーカップをソーサーに音を立てないように優しく戻し、溜まっていた疑問を解決するために正面に座る彼を見つめた。
――そういえば……。
和也は、その詰め襟姿に見覚えがあることに気付いた。顔つきは違うが、同じ服装の男性。薔薇の花びらを吐いた時に取り戻しかけた記憶に映っていた、あの人物だ。
そう、確かその時も紅茶をご馳走になったような――
いや、それは今考えるべきことじゃない。と和也は思考を止めた。改めて、男性に聞くべきことを頭の中に浮かべる。
「あの、あなたは……何者ですか?」
「私は、この駅の
「駅神……?」
「駅神というのは、言ってみれば、この駅そのものさ」
駅神はそう言って再び紅茶を飲むと、マドレーヌの載った小皿を和也に勧めた。
「どうかね? 京太郎が持って来てくれたんだ。実に美味しい焼き菓子だ」
「京太郎……?」
「神田京太郎だよ。知っているだろう?」
「あ! 神田助役……!」
――神田助役は京太郎という名前だったのか。
言われてみれば、古風な名前が似合いそうな顔立ちだ。と和也は考える。それにしても助役をファーストネームで呼ぶとは……。駅神と駅職員は仲が良いのだろうか?
色々と考えながらも、取り敢えず勧められたお菓子は頂いておこう。と和也はマドレーヌを手に取った。美味しそうな焼色がついた長方形のマドレーヌ。
柔らかく口に入れると途端にホロリと崩れ、バターの濃厚な風味がふわりと広がった。
確かに美味しいマドレーヌだ。和也は「今度どこで買ったか聞いておこう」などと考えながら、口内のベタつきを紅茶で流し込んだ。ティーカップを置き、駅神に再び問いかける。
「あの、駅神……様は、僕たちとは一体どのような関係ですか?」
和也は駅神に対して、『様』という敬称を付けた。本能的にそうするべきだと感じたのだ。
駅神は例えようのないオーラのような、畏怖の念を抱く空気を纏っている。この異様な空間も相まって「本当に神様なんだ」と理解するには十分すぎる雰囲気だ。
「どのような関係……か。ふむ」
駅神はマドレーヌを一口齧り「やはり美味い」と満足げに呟くと、その口元に笑みを浮かべて言った。
「私は、鉄道員……つまりは子供達に力を与える存在さ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
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