第12話 シンシサマ
駅神様の言葉を和也は簡単には理解できなかった。
――力を与える……? 力とは何だ? 例の超能力のことだろうか?
などと思考を巡らせてみる。駅神は、和也とは対照的に落ち着いた様子でローズティーに口をつけていた。質問するべきか? と迷ったが、駅神がティーカップを置いて口を開くほうが僅かに早かった。
「私が授ける力は、君達が人々を守るために必要な力だ」
「人々を……守る?」
「そうだ。駅には我々しか知らない秘められた力がある。人の心の
「穢れを剥がし落とす力……ですか?」
駅神は小さく頷くと説明を始めた。
人というのは誰しも心の中に穢れを持っている。それには人生を悪い方向へ傾ける力があり、積み重なる程に影響は強まる。駅は、人が自力で排出することが出来ないその穢れを一手に引き受ける場なのだという。
「その穢れのことを、我々は『
「し……でい?」
和也は、聞き慣れない言葉に首を傾げる。人が誰しも持つ穢れ……つまり、自身も穢れを持っているのだろうか? そのことを駅神に問うと、彼はやんわりと首を振った。
「君の心に疵泥が溜まることはもうない。鉄道員として覚醒したからね。体を流れる私の力が疵泥を浄化するんだ」
駅神は「疵泥が見えるのは覚醒した鉄道員だけだ」と告げ、ティーカップにポットから新しい紅茶を注いだ。湯気とともにローズティーの華やかな香りが立ち昇る。
――覚醒。
その言葉に、和也は強く反応した。心臓が一瞬大きく跳ね、全身に勢いよく血液が巡る感覚が走る。
神田の話していた『覚醒の日』との確実な繋がりを感じさせる単語だ。とうとう辿り着いたのだろうか。
「あの、覚醒とは何ですか?」
「君の中の鉄道員としての
駅神は同情するような眼差しを見せながら、注ぎたてのローズティーが入ったティーカップを持ち上げた。
「覚醒を無事に終えると、霊は私に会いたいと騒ぎ出す。だから君はここに居るのだよ」
「なるほど、それが覚醒……」
あの時、突然「時空の広場に行きたい」と感じたのは覚醒を終えたからだったようだ。気味の悪い感覚に説明が付き、和也はホッと胸を撫で下ろした。
駅神に「話が脱線してしまいました」と詫びると、駅神は「鉄道員が縁起でもないことを言うものではない」と和也の発言を指摘した。だがその口元は僅かに笑っており、和也は本気かジョークかの区別が付けられなかった。
仕方なく苦笑いで返し、手早く元の会話へと進路を戻す。
「えっと……疵泥については理解できましたが、駅神様は何のために私に力を授けるのですか?」
「君には、この疵泥を餌に育つ『
「蠢穢……?」
「蠢穢も疵泥と同じで、覚醒を終えた鉄道員にしか見えない。乗客は勿論、覚醒前だった君にもね」
また新しい単語だ。既に座学は終わっていたと思ったのだが、まさかここに来て再開するとは。
和也は、これから働く頭に糖分を届けようと、マドレーヌに手を伸ばした。
「では、最後の一つは私が頂こう」
駅神が最後に残っていた貝の形をしたマドレーヌを手に取り、小皿は空になった。二人でマドレーヌを食べている僅かな時間だけ、静かな時が戻った。
駅神はマドレーヌを食べ終えて満足そうに頷くと、ローズティーで喉を潤してから口を開いた。
「蠢穢は最初は細かい胞子のような存在だ。だが少しずつ大きくなり、やがて人を襲うようになる」
「人を襲うのですか……!」
「いや、襲うと言うと語弊があるか。人生に悪影響を与えると言ったほうが正しいかな」
「疵泥と同じですか?」
「そうだね。だが、蠢穢は疵泥以上に厄介な存在なんだ」
駅神は深いそうに眉を顰める。
「成長した蠢穢は、常に黒い鱗粉のようなものを振りまいていてな。これを取り込むと、疵泥と同じように人生が悪い方へと進んでしまうのだが――」
駅神が一旦言葉を切る。マドレーヌの載っていない小皿に一瞬寂しそうな視線を向けた後、説明が再開された。
「この鱗粉は疵泥と違い、私の結界で落とすことが出来ない代物なんだ」
「結界で落とせない……?」
和也はその事実に驚きながらも、蠢穢の存在が乗客に与える影響について想像した。折角穢れを落としたのに蠢穢の鱗粉を取り込むことで再び人生が傾き、しかも駅では落とせない。つまり、永久に心に溜まり続けるということだ。
和也は駅神を見つめ、蠢穢に襲われた人の結末を尋ねた。
「人生に影響を与えられた人は、どうなるんですか? ……まさか――」
「死にはしないよ。直ぐにはな」
和也の言いたいことを先読みしたように、駅神が言った。気になるのは、最後の言葉。
――直ぐには。
「では、やがては死んでしまうのですか?」
「そうだ。命を脅かすような不幸に出会ってしまう」
腹部が抓られたように痛んだ。
和也は、その時初めて心臓の鼓動が乱れていることに気付いた。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、落ち着けと何度も自らに言い聞かせる。
緊張して乾いた喉を潤そうとティーカップを持ち上げた。手の震えが伝わり、半分以下に減ったローズティーに波紋が描かれる。
「その……蠢穢は、外に逃げ出したりはしないですか?」
「大丈夫だ。疵泥を落とす結界には蠢穢を閉じ込める役割もある、安心したまえ」
和也は「それは良かったです」と答えたが、自分でも笑ってしまう程に弱々しい声だった。
「駅のいうのは人生の分岐点だ。その駅に成長した蠢穢が住み着いていれば、分岐先は酷く悪いものになる。たとえ死ななくてもな」
「人生の分岐点……」
和也は駅神の言葉を小さな声で復唱した。ティーカップを口元に運ぶ力は、もう残っていなかった。力無く、ソーサーの上に下ろす。
「鉄道員の仕事は蠢穢に分岐を担う
「……乗客の人生は、私達が背負っているのですか?」
「そうだ」
その一言は、とても重かった。自然と視線が落ち、膝の上に載せられた制帽を見つめる姿勢になる。自分は、そんな重責を背負わなくてはならないのか。
大阪駅の一日平均利用客数は四十二万人。それだけの人生が僅かな職員の肩に載っている。信じられなかった。
「自分には重すぎる責務だと思うかね?」
駅神が尋ねる。その顔を見れなかった。
「だが、君は一人ではない。私の子供達は、皆優秀だ」
――子供達。
駅神が繰り返すこの言葉、文脈から考えると駅職員のことだ。実際、和也も「息子になったお祝い」をされている最中だ。
それにしても、ハードな祝い方だなと思う。
まるで誕生日に「今日から組を継げ」と宣言されたヤクザの息子のような気分だ。
駅神はティーカップの紅茶を飲み切り、ポットに手を伸ばしながら言った。
「それに、君は非常に大きな力を持っている。私が授けた力以外にもね」
「え?」
その言葉に、思わず顔を上げる。駅神は、持ち上げたポットの軽さに驚いたように手を止め、中身を確認していた。
「それは、どういう――」
「おっと、もう紅茶は無いようだ……」
駅神はポットを元の位置に戻しながら「殆どを私が飲んでしまったね」と笑った。その屈託のない笑顔は、息子に重い責務を背負わせたばかりの者とは思えないほど明るい。
「まだ聞きたいことは山程あるだろうが、残りは京太郎が説明してくれるだろう」
「え? 駅神様からは……」
「君の体は、まだ霊を抜くことに慣れていない。これ以上は肉体に疲労を残してしまう」
――霊を抜く?
突然物騒なことを言わないでくれ。と抗議したい気持ちになったが、それは強烈な眠気によって押さえつけられた。体に力が入らず、視界がぼやけていく。
「君が目を覚ましたら迎えに行くように、私の
――神使? まさか、神田助役達が言っていた『シンシサマ』って……!
和也は瞼が急激に重くなるのを感じた。視界が暗転し、引きずり込まれるように眠りに落ちた。
***
目に映ったのは白い天井だった。慌てて体を起こすが、もう目眩も吐き気も熱っぽさも無い。体の不調は全て消え、残ったのは夢のような奇妙な記憶だけだった。
――あれは、一体何だったんだ……。
どこからが夢で、どこからが現実だったのか分からない。
薔薇の花びらを吐いたのは夢? そこで駅神と称する人物に出会ったのは夢?
――蠢穢という存在から駅を守れと言われたのは……夢?
和也は線引の付けられない曖昧な記憶に混乱し頭を掻いた。その時、療養室の扉が強くかつ乱暴に叩かれた。
「ひっ!」
肩が震え、何とも情けない声が漏れた。扉を叩く音は、ガン! ……ガン! と規則正しい間隔で鳴っている。だが、その音質は人の手で叩いているとは思えないものだった。人の手よりも更に硬い物……例えるなら、木刀をフルスイングで叩きつけているような音だ。
本能的に恐怖心を感じ、和也は下半身まで下ろしていた布団を首元まで引き上げた。
「おい! 開けんか!」
扉の向こう側にいる、恐らく扉を叩いている人物が和也に扉を開けるよう催促してきた。生意気な中学生男子のような声。
たが、こんな状況で扉を開けられるほど和也に肝っ玉は座っていない。扉を開けた瞬間に手にした木刀で頭をかち割られる光景が簡単に想像出来てしまい、和也は慌てて首を振った。
「おい、早くせんか! 起きているのだろう!」
扉を叩いている人物が再び催促をする。そもそも療養室の扉に鍵はかかっていない。勝手に開けて入ればいいのに。
和也は勇気を振り絞り、そのことを伝えることにした。
「あの! か……鍵は掛かっていないので――」
「私は扉が開けれんのだ! 全く、不自由極まりないぞ!」
和也の声を遮って酷く苛立った声が飛んだ。
――扉が開けられない? 何か荷物でも持っているのか?
じゃあ、その木刀を下ろせばいいのに。と不満げな気持ちを持った時、激しい物音と物音の間に駆けて来る人の足音が聞こえた。
「シンシサマ、止めてください! そんなことをしたら、怖がって開けられないに決まっているでしょう!」
神田の声だった。それにシンシサマという単語。
――君が目を覚ましたら迎えに行くように、私の神使に伝えてある。
そう話す駅神の声が思い出された。
「やっぱり、夢じゃない……のか」
夢でないことは分かったが、まさか扉を叩いているのが神使様だとは思いもしなかった。少々乱暴者と聞いた気はするが、少々では済まないレベルに思える。やっていることはほぼ借金の取り立てだ。少なくとも神の使いがとる行動ではない。
神田が神使を制する声が再び聞こえ物音が止んだ。ドアノブが下がり、扉が開く。
和也は布団を握る手に力を込め、開かれた扉を見つめた。
そして、入室して来た者の姿に度肝を抜かれた。
「……は?」
そんな声が意図せず漏れた。軽快な足取りで入室して来たのは、立派な角を備えた『雄鹿』だった。大きさは一般的な鹿よりも小さく、茶褐色で白い斑点模様のある夏の毛並みをしている。
角の下に生えている耳をピクピクと動かしながら、黒く大きな目で和也をじっと見つめていた。
――これが、神使様……?
「私が見えるか?」
「えっ? あ……はい」
「うむ、宜しい。ご苦労だったな」
神使は大儀そうに言うと、その場に座り込んだ。足を畳んで寛ぐその姿は、どう見ても普通の鹿だ。人語を話すこと以外は。
だが、動物特有の獣臭さを一切感じない。神使は鹿の姿をしているだけで、決して獣ではないのだろう。
和也が神使の姿を見つめながら思考を忙しなく動かしていると、神田に肩を叩かれた。顔を上げ、自身を見つめる神田と視線を交差させる。
「体調は、もう万全か?」
「はい。吐き気もありませんし、だるさも消えました」
「そうか。よく耐えたな」
神田の初めて見る柔らかい笑顔に、張り詰めていた緊張が一気に解けた。肩の力が抜け、自然と口元が緩む。
「さっきは悪かった」
神田はそう言いながら、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「驚いただろう。急に騒がしくして」
神田は申し訳無さそうに話しながらも、その口元には僅かに笑みが浮かんでいる。
「はい……。何事かと思いました」
和也が「開けたら殺されるのかと思いましたよ」と告白すると、神田は視線を床で寛ぐ神使に向けた。
「とのことですよ、神使様」
神使は声をかけられ視線を神田に向けたが、「自分には非が無い」と言いたげな態度ですぐに逸らした。神田はその態度に小さくため息をつくと「さて」と呟き、和也に向き直った。
「駅神様にはお会いしたか?」
駅神様。その言葉を受け、脳裏に白い詰め襟姿の男性が浮かんだ。美味しいローズティーの香りが一瞬だけ蘇った気がした。
「はい。美味しい紅茶をご馳走して頂きました。それと、神田助役のマドレーヌも」
お茶菓子を頂いたことを伝えると、神田は照れくさそうに笑った。
「早速振る舞われたのか。まあ、とにかく……無事に済んで何よりだ」
「はい。夢でなかったことは理解出来ているのですが、まだ妙な気分です」
和也は膝の上に並ぶ両手を見つめた。この手でティーカップを持っていたことが事実なのだと、まだ上手く飲み込めない。駅神の存在は本当で、神使もこの目で捉えることができているというのに。
――そうだ。駅神様のあの姿……。
和也は駅神様について「会ったことがあるかもしれない」と話そうかと思った。
薔薇の花びらを吐いた時――所謂『覚醒』をした際に断片的に取り戻した記憶の中にいた男性と同じ姿だったこと。そして、その際に摘んでしまった例の花のこと。
「あの――」
和也は神田に対して話そうと声を上げたが、それは扉のノック音で中断せざるを得なかった。
「構わんぞ、入れ」
神使が座ったまま、入室を許可する。「あなたが許可するんですか」と突っ込みたくなったが黙っておくべきだと判断した。神使は駅神の使いであり、主席助役である神田が敬語を使う立場だ。揉め事は避けたい。
扉が開き、入室してきたのは椿だった。手に水の入ったグラスを持っている。
椿は和也の顔を見て安心したように笑った。
「目が覚めましたか。顔色も良さそうで安心しました」
「ご迷惑おかけしました」
「いえ。以前にも話しましたが、これは皆が通る道です。決して迷惑ではありませんよ」
椿は「寝起きの水分です」と付け足し、和也にグラスを差し出した。中身は冷えた麦茶だった。喉が渇いてベタつきを辛く感じていたため非常にありがたい。
「ありがとうございます。いただきます」
乾いた喉に麦茶を流し込む。寝起きの頭が、少しずつ冴えていくのが分かった。
「駅神様にも無事にお会いしたそうだぞ」
神使が椿を見上げながら伝えた。椿も当然ながら神使の姿に驚くことはない。
「そうですか。素敵な場所だったでしょう?」
「ええ。とても幻想的な空間でした」
そう答えながら、椿にグラスを返却する。椿は相変わらずの笑みを湛え「美しいですよね」と同意しながらグラスを受け取った。
「では、疵泥と蠢穢の話も聞きましたよね?」
その問いかけに一瞬息が詰まった。神田の様子をちらりと伺うと、和也を見つめる表情は一転して難しいものに戻っていた。
鼓動が乱れ、体がじんわりと熱くなるのを感じながら椿に視線を戻す。
「はい……聞きました。それが、僕達の責務だと」
自分にはまだ覚悟が足りないのだろうか。と和也は思った。思ったように声が出ない。得体の知れない存在への恐怖に支配されているのかもしれない。
そう思い悩む和也を他所に、神田が「よし」という呟きともに立ち上がった。
「それについて、これから座学だ。起きれるな?」
有無を言わさぬ問いかけに、和也はしっかりと頷いた。
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