第13話 クレマチスの花
和也は、久々に自らの手で制服に袖を通した。制服は椿がロッカーから持ってきてくれた。流石に寝間着で駅構内を彷徨くことは出来ない。
神田が外で和也が着替えるのを待っている。出来るだけ急いで着替えよう。
夏服である涼し気な水色のワイシャツのボタンを留め、青いネクタイを締めた。夏用の少し生地の薄い黒いスラックスを履き、指定の黒い革ベルトを通す。
そして、こっそりベッドに隠し置いていたお守り袋を、シャツの胸ポケットに仕舞った。
忘れ物がないか確認し、療養室を出る。
「着替え、完了しました」
廊下で待っていた神田に軽く敬礼する。神田は、壁に寄りかかった姿勢で腕を組んで待っていた。和也に気付き、姿勢を正す。
「よし。じゃあ、取り敢えず挨拶しよう。皆にな」
神田の表情は、どこか嬉しそうで誇らしげでもあった。
和也は、神田と神使と共に、久しぶりに駅務室へと顔を出した。
「お前達、祝え! 覚醒者だ!」
神田が扉を開けると同時に、神使がそう叫びながら入室した。駅務室内で業務に励んでいた職員達が、一斉に振り返る。
皆、神使を見ても驚きも不思議がりもしない。その光景が、ここに居るのは全て覚醒済みの者達だ。と、和也の未だに理解が追いつかない頭に容赦なく現実を突き付けて来る。
「おめでとう!」
そうどこからか声が上がり、一瞬遅れて盛大な拍手が和也に送られた。初出勤日の際に送られた拍手よりも派手だ。
きっと駅職員にとっては、これが『入社』に相当する区切りなのだろう。駅神の子供になることが、この駅の一員として認められるために必要な要素なのだ。
「おめでとう」
そう声をかけて和也の正面に立ったのは、三条だった。
「ありがとう……ございます」
厳しく指導された先輩に認められるのは、嬉しくもありどこか照れくさい。和也は口元にぎこちない笑みを浮かべたが、その表情は三条の発した「但し」という一言で崩れた。
「覚醒したことで、更に仕事は増えたからな。覚悟しておけよ」
三条は「つまり覚えることも増えるってことだぞ」とでも言いたげに和也を一睨みすると、背を向けて有人改札に続く扉に向かって歩いて行った。
和也は会議室のある三階に向かうため、エレベータを待っていた。目の前に背を向けて立つ、神田と神使の後ろ姿を眺める。
和也に、鹿とエレベータ待ちする経験は勿論無い。初体験だ。勿論、神使は鹿の姿をしているだけであって決して鹿では無い! ということは分かっている。
しかし、この視界を脳で処理する際、どうしても脳が「おかしいぞ!」と異論を唱えてくるのだ。
神使の、白色の体毛がハートの形に生えているように見える鹿特有のお尻を眺めていると、脳が考えることを放棄し始めそうだった。いや決して鹿ではない。それは分かっているのだが……。
「三条は、どうも後輩に対して冷たいな」
神使が言いながら、不満そうに床に右前足の蹄を打ち付けた。カツン。と如何にも硬そうな音が鳴る。
「だからと言って後ろから角で突くのは禁止です、神使様」
神田が神使を窘めるが、その口ぶりは何度も注意を続けてきたように思えるものだった。
「お陰で、三条は腰痛持ちになってしまったんですよ」
「知らん。あやつが態度を改めれば良いだけの話だ」
神使に反省の様子は見られない。完全にパワーハラスメントだ。それも、かなり悪質。
どうやら、改札の指導を受けている時の三条が何かに襲われた事件は、神使によるパワハラが原因のようだ。初出勤日に三条が長谷川に言われていた「また背中を突かれちゃうよ」という言葉の意味も、漸く分かった。
三条には申し訳ないが、和也は疑問が晴れてスッキリした頭で到着したエレベータに乗り込んだ。
会議室は、三条に指導を受けた時と何も変わらない。強いて言えば、机の上にテキストの類いが乗っていないことだろうか。三条から知識の無さを叱られた日のことが酷く懐かしく感じられた。
「適当に座ってくれ。特にテキストは無い」
和也は、神田の言う通りに適当な椅子に腰掛けた。奇しくもその座席は、三条との座学で使用した椅子だった。
神田が和也の正面になるように座った時、神使が机の上に勢いよく飛び乗った。蹄が軽快なリズムを刻み、神田が渋い表情を作って神使を見つめる。
「神使様。以前からお伝えしていますが、机の上に乗るのは止めていただきたい」
「仕方ないだろう。私は目線が低いから、お前達の顔がよく見えんのだ」
神使は悪びれる様子もなく言うと、机の上に座り込んだ。
「行儀は悪いだろうが許せ」
神田は納得がいっていないようで、まだ渋い表情を作ったままだ。
和也は神使が机の上に乗る姿を見て、以前に駅務室で目撃した光景を思い出した。誰も触れていないのに崩れ落ちた書類、ペットボトルなどを倒しながら進んでいた見えない何か。あれは、神使の仕業だったのだ。
そして同時に、神使はかなり自分本位な考え方の持ち主なんだ。ということも分かった。扱いづらそうだ。絶対に揉めたくない。
「井上」
神田に名前を呼ばれ、和也は姿勢を正した。頭の中から余計な考えを押しのけ、今現在のことに集中する。
「駅神様からは、どこまで聞いた」
「疵泥と蠢穢はどのような物か……というところまでですね」
「分かった。では、どのような物か説明してみろ」
「説明……はい」
和也は夢のように曖昧な記憶を掻き回し、説明に到れる量の素材を必死に集めた。集まった素材である断片的な記憶を繋ぎ合わせ、文章にして行く。
「えっと、疵泥は……人々の心に溜まる穢れです。自力では落とすことが出来ず、駅……いや、駅神様の結界がそれを剥がす力を持っています」
神田は何も言わずに頷いた。文句や訂正が無いということは、間違っていないという認識で良いだろう。和也はホッと一息つき、説明を続けた。
「蠢穢は、疵泥を餌にしている存在で、人の人生に悪影響のある粉を撒いています」
神田は、再び無言で頷いた。
「この蠢穢から利用客を守るのが鉄道員の責務である。ということまで聞きました」
「なるほど。じゃあ、今の時点で分からないことはあるか?」
神田はそう尋ね、机の上で腕を組んだ。
分からないこと。そう聞かれて一番に浮かんだのは、駅神から授かる能力のことだった。間違いなく例の超能力だろうと予想できたが、それを一番に聞くのはどうにも印象が悪いように思えた。
取り敢えず、二番気になっていることを聞いてみよう。
「蠢穢は、どのような外見をしていますか?」
和也の質問に神田は眉間に皺を寄せ、低く唸り声を上げた。
「何とも答え辛いな……」
「伝え難い外見ですか?」
神田は、ゆっくりと一度だけ頷いた。
「全ての蠢穢が同じ姿をしているわけではない。蟲のような奴もいれば、動物のような奴もいる」
「千差万別ってことですか」
「そうだ。すまないが、この質問には上手く答えられない。他に聞きたいことはあるか?」
こればかりは実際に目にするしかないようだ。蟲のような見た目ということは、蝶や蛾に似た姿で空を飛んだりするのだろうか。
まだ見ぬ蠢穢への想像を高めながら、最も気になっていた質問を引き出す。
――やっと、この件について聞ける。
和也は乾いた唇を舐めた。膝の上に乗せている両手が、いつの間にか机の上に乗っていることに気付いた。緊張と興奮から前のめりの姿勢になってしまっていたようで気づいた瞬間に恥ずかしさから顔が紅潮するのを感じた。
膝の上に戻して視線を正したかったが、頭は「質問に対してどのような回答が来るか」ということで一杯になっており、そのような簡単な指示すら受け付けてくれなかった。
仕方なく、その姿勢のまま待ちに待った質問をする。
「駅神様が鉄道員に与える力というのは、例の超能力のことですか?」
質問を終えた途端に心拍数が上がり、体が熱くなるのを感じた。
和也は、全身に響く心臓の鼓動を聞きながら、神田の回答を待つ。
会議室に入ってから一度も表情を崩さなかった神田の口角が、僅かに上がったのが見えた。
神田は、シンプルな結婚指輪の嵌っている左手を和也に翳し、一言。
「井上が見たのは、これか?」
一瞬の沈黙の後、和也の左腕が勢いよく引かれた。
「うわっ!」
腕を引く見えない力の強さに負け、机に身を乗り出す姿勢になる。机に右手を突き引っ張られる力に抗おうとするが、少しずつ神田の方へと引かれて行く。
間違いない。これは、あの時に見た超能力だ!
神田は体制を崩すこと無く座っている。疲弊している様子も一切見られない。左手は握られた状態に変化しており、和也の腕から伸びている目視出来ない糸を引くような姿勢を取っていた。
「これです! この力です!」
左肩が痛み始め、和也は堪忍したように叫んだ。
「京太郎! 止めんか!」
和也の悲鳴に近い声を聞き、隙かさず神使が声を上げた。神田が左手の力を緩めた途端に力が弱まり、和也は安堵の息を漏らした。
左肩を擦りながら椅子に座り直し、「悪い悪い」と軽い謝罪で済ませている神田に向き直った。
「……実演ありがとうございます。この力で蠢穢を倒すのでしょうか?」
「そうだな。でも、お前にこの力は使えない」
「……は?」
頭の中が真っ白になった。
ずっと、この力が使えるようになると思っていた。何故という二文字が頭の中を支配し思考が回らなくなる。予想だにしていなかった現実に動揺し、机に両手を突いて椅子から立ち上がった。
「どうしてですか! どうして神田助役が使えて、私は使えないんですか? 同じ鉄道員じゃないですか!」
つい、興奮の余りに声が大きくなった。そんな和也の感情が高ぶりを鎮めるように、神使が冷静に答えを返す。
「お前が第一世代だからだ」
飛び出した『世代』という単語。超能力と同じくらい謎めいている存在だ。寝たふり作戦を決行してしまったがために、その存在を知りながらも決して聞くことが出来なかった単語。
その意味を、漸く尋ねられる瞬間がやってきた。
「その、世代っていうのは何ですか?」
和也は、座り込んだまま澄まし顔の神使に尋ねる。
「自身が『鉄道員として何世代目か?』という意味だ」
神使の目は、能力が獲得出来ない事実に動揺する和也を、どこか哀れんでいるように見えた。
和也は、全てを見透かすようなその目を直視できず、大人しく着席した。
正面に座る神田に向き直ると、待っていたように質問を投げかけられた。
「井上の家系に、自分以外に鉄道員はいるか?」
「血の繋がりがある者だけだ」という神田の質問に、和也は首を振った。
「いません。だから私は第一世代ってことですか?」
「そうだ。駅神様から頂くこの力は、自身の体に流れる鉄道員の血の量に反応して強くなる」
「鉄道員の血……?」
どこか神秘的なその単語を、和也は復唱した。ショックの影響か、声に力が無いことが自分でも分かった。
「第二世代で念力、第三世代は身体能力が大幅に強化され、第四世代は空中を自由に移動できる力を得ることが分かっている」
神田は「第一世代が得られるのは最低限の力だけだ」と付け加えて解説を終えた。
驚くべき事実だった。和也は全身の力が抜けるのを感じ、背もたれに体を預けた。
蠢穢に対抗するには世代を超えて能力を強化する必要があるなんて、想像すら出来なかった。
そして、和也にさらに衝撃を与えたのは、篠山口駅で目撃した例の男性駅員が第二世代だったことだ。彼は、さも当たり前のように力を使っていたが、その力は当たり前の物ではなかった。
「最低限の力……」
「最低限とは言ったが、鉄道員の大多数は第一世代だ。対抗するには十分な力だよ」
神田が、落ち込む和也を慰めるように優しく話すが、このショックはその程度で治められるものではない。得られると思っていた力が得られなかった衝撃は計り知れない。ずっと、あの力を使える身になることを夢に見ていたのに。
『最低限』という言葉が、自分が必要とされていないような意味に聞こえ、悔しさから俯いて唇を噛んだ。
――いや、でも駅神様は……。
和也は、駅神に言われた言葉を思い出した。悪い方向へしか進まないだろう思考を止め、顔を上げて神田を見る。
「でも駅神様は……私が非常に大きな力を持っている。と仰っていました」
その一言で、会議室の空気が僅かに変化したような気がした。
「……どういう意味だ?」
神田の問に、素早く首を振る。
「分かりません。ただ、私が授けた意外にも力を持っている。とだけ言われて……」
「何か、心当たりはあるか?」
神使が相変わらず冷静な口調で尋ねる。その、『心当たり』という言葉に少しドキリとした。心当たりは大いにある。しかし、和也はその事実をすぐには伝えられなかった。この奇妙な事実は、伝えることを躊躇してしまう。
いや、そもそも本当にこれが理由なのか? もっと別のハッキリした理由があるのではないだろうか?
自分に自信が持てなくなり、自然と視線が二人から逸れた。
「どうした? あるのか、ないのか。ハッキリせんか」
冷静だった神使が、口を開かない和也に対して少し苛ついた態度を見せる。
和也は「神使様」と窘める神田の声を聞きながら、覚悟を決めて神使を見つめた。
話すしかない。今の所、怪しいのはこの一件だけなのだから。
「心当たりはあります。信じてもらえないかもしれませんが」
「ほう。言ってみろ」
神田と神使の交互に目線を送り、一呼吸置いて口を開いた。
「私は……東京駅の駅神様と、一度お会いしたことがあるかもしれません」
「何だと?」
「そのような訳があるか!」
神田が、怪訝な表情を見せた。神使も神田の声に被せるようにして割り込む。当然の反応だろう。和也自身も、未だに信じられないのだ。
「その時に、この花を摘んだんです。心当たりというのは、この花のことです」
和也は制服の胸ポケットから、お守り袋を取り出した。その中から、ラミネート加工された例の花を取り出し、神田と神使に差し出す。
「これは……?」
神田が不思議そうに花を持ち上げる。その時、神使が激しい動揺を見せた。
「おい! この花は……!」
勢いよく立ち上がったせいで、蹄の甲高い音が連続して会議室に響いた。今まで見せたことのない、何か恐ろしいものに近づくような足取りで、紳士は神田の持つ花に顔を近づける。
「神使様は、何かご存知ですか?」
神田が、神使が良く見えるように花の向きを変える。その動作によって、神使の動揺が更に増したように見えた。
「この花は……『クレマチス』……」
神使の声は、動揺のせいか少し震えていた。
「東京駅の結界の
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