第44話 京の戦場
和也は鉄輪から手渡されたプレートの数字を頼りに、指定された仮眠室へと辿り着いた。室内はベッドが置かれているだけの殺風景さだが、ここは仮眠室だ。余計な物は必要ない。
ベッドの脇に屈み込んで自動起床装置のタイマーをセットしようかと試みたが、目的の装置がない。おかしいな……。と周囲を見渡してみるものの見慣れた黄緑色の箱はどこにも置かれていなかった。薄いマットレスを捲って空気袋の存在を確認するが、当然のごとく敷かれていない。
だが、困惑する和也の視界には既に代わりの起床装置が捉えられていた。部屋の隅に置かれたテーブル上にポツンと載せられている小さな目覚まし時計。どうやら中日本は自動起床装置を使用しないらしい。
「仕方ないか……」
便利な装置に甘えられない歯痒さを言葉にして吐き出すと、目覚まし時計に歩み寄り起床時刻をセットした。同じように枕元に置かれている時計の起床時刻も合わせていく。
「時刻よし!」
指差喚呼で起床時刻が正しいことを確認すると、和也はベッドに潜り込んだ。次に肉体が目覚めるのは三時間後たが、その前に霊の目覚めが待っている。鉄輪が地獄と表現したこの駅での狩りは一体どのようなものになるのだろうか?
和也は不安と少しの好奇心を感じながら、静かに目を閉じた。
目が覚めた。一切の眠気を感じないこの目覚め方は霊の目覚めだと、瞬時に理解できる体へとすっかり変わってしまった。
和也はベッドを降りてから振り返り、寝息を立てる自身の肉体を一瞥する。慣れない仮眠室だが
一安心し、仮眠室のドアノブを掴む。ゆっくりとドアを押し開けると廊下を照らす蛍光灯の灯りが飛び込んできた。肉体の眠りを妨げないよう必要最低限の隙間だけを開けて廊下に出る。
既に何人かの職員が出入り口へ向かって歩みを進めていた。
「よう。目覚めたか」
鉄輪が声をかけながら歩み寄ってくる。当然ながら制服姿で、半袖夏服の袖口からは鍛え上げられた両腕が伸びていた。脱衣所で見た肉体が記憶に新しいせいか、以前にも増して強そうに見える。
「お前はオレと行動してもらう。オレの動きを見て空中線のやり方を覚えろ。いいな?」
和也が「はい」と返事をするのを待つこともせずに鉄輪は出入り口へと早足で進む。その後ろを、はぐれないように早足で追った。
集合場所は大阪駅と同じく駅務室だった。ずらりと職員が並ぶ光景は同じだが、着用している制服の違いが和也の緊張を誘発する。
列の最後方に鉄輪並び、最前列に立つ殿護が口を開くのを待った。
「今日から不定期で大阪駅からの戦闘研修が入るが、気にせず普段通りの動きを心掛けてくれ」
殿護が言い終えるのと同時に、ほぼ全ての職員が振り向いて最後尾の和也を見つめた。戦闘開始直前の殺気立った視線に射抜かれ、お世話になります。という簡単な言葉すら出なかった。肩を
様々な伝達事項を伝えた後、殿護は「以上」と告げて締めくくった。その瞬間、辺りに緊張が走った。ピリピリとした空気の中、殿護の足元に立つ神使が大きな鶏冠を揺らして頭を上げる。
久々に耳にする雄鶏の鳴き声。同時に空間が歪み始め和也は目を閉じた。脳が揺れるような感覚に身を任せ、結界が広がるのを待つ。
平衡感覚が戻ってきたことを感じ取り、そっと両目を開いた。見た目上は何も変わっていないが、駅務室は既に拡張された結界の中に取り込まれている。
今の京都駅は、只の深夜のターミナル駅ではない。蠢穢を狩る京の戦場だ。
「行け! 追い詰めて狩り尽くせ!」
神使の声に触発されるように職員が一斉に散って行った。フライ旗の変化速度はやはり早く、鉄輪のような一振りが目立つ。和也も続いてフライ旗を両手で抱えて変化させるが、真紅のハルバードをその手に握ることができたのは十秒ほど経ってからだった。
足手纏いになりたくないという焦りからなのかは分からないが、訓練の時よりも明らかに遅い。
このままでは駄目だ! と歯を食いしばり、武器を握る白手袋に包まれた両手を見つめる。
「良い武器を持っているね」
不意に声をかけられ和也は顔を上げた。目の前に立つ殿護の右手には、先端が三叉に分かれた槍――トライデントが握られていた。和也のハルバードよりも色合いが薄く、ビードロのように透き通る赤色が美しい。
「将臣の戦いを見て学ぶといい。何か自分なりのコツが掴めるかもしれないからね」
殿護は一言アドバイスを送ると他の職員に続いて駅務室から去って行った。その様子を目で追っていた鉄輪も、フライ旗を振るってサーベルの形態へと変化させる。
「行くぞ。グズグズしていられないからな」
鉄輪の言葉にハッキリとした返事を返し、和也はハルバードを握り直した。
――地獄を見せてやる。
風呂場で言われたその一言が脳裏を過ぎる。この扉の先に何が待っているのか……初戦闘時の心境を思い出しながら、鉄輪が扉を開ける姿を後ろから見つめ生唾を飲んだ。
扉が開かれる。眼前に広がったのは美しい白木の床。所々に点在している池を避けるように張られており、その池には満開の蓮の花が幾つも浮かんでいる。まさに絶景と表現して然るべきだ。
煌びやかに光る水面が和也の緊張を僅かに加速させる。
しかし、そんな美しさに水を差す存在は、当然ここにも蠢いている。そして、
ならば、一体この広い結界内にはどれだけの数が潜んでいるのだろうか……? 大阪駅とは比べ物にならないであろう数を想像し、和也は戦慄した。
しかし、そう怖気付いてもいられない。和也は駅務室からの一歩を踏み出し白木の床板を踏んだ。
その瞬間、和也の前を何かが横切った。薄茶色の毛が生えた生き物――いや、今この空間に生き物などいない。あれは蠢穢だ。
「丁度いい。実力を見せてみろ」
鉄輪からの突発的な指示を受け、和也は小さな頷き共に駅務室を走り出た。床板を蹴り、結界に覆われた京都駅を駆ける。逃げる蠢穢は短い尾と四本の足を持つ犬の様な見た目で、追いつけないほど逃げ足は早くなかった。
しかし、自分はこれほど足が早かっただろうか? と目の前の蠢穢を視界に捉え続けながら疑問に思う。神田から力の説明を受けた際に『第三世代で身体能力が大幅に強化される』と聞いたが、この俊足もその一部なのだろうか?
真後ろまで接近した和也は、その走り続ける硬い毛に覆われた背中へハルバードを振り下ろそうと構えた。
その瞬間、蠢穢が走りながら振り向いた。頭が一八〇度回転して真後ろを向いている異様な姿だが、何より異様なのはその顔面だった。腐り落ちたかのように崩れた顔には鼻も口も無く、充血した無数の人の目だけが彙集している。まるで蓮の花托のような強い嫌悪感を感じる外見に血の気が引き、手足が止まりそうになった。
――鉄道員は蠢穢にビビったりはしない!
初戦闘時のような失態を繰り返すわけにはいかない!
恐怖で萎縮しそうになる心を奮い立たせ、体を翻して飛びかかってきた蠢穢を胴体部分で分断した。不快な金切り声と共に、粘性の強い黒色の体液が噴き出す。真っ二つになった蠢穢と和也の顔や制服に降りかかった体液は、すぐに砂のような状態へと変化して消えた。
「流石に地上の蠢穢は余裕か」
後を追ってきた鉄輪が茶化すように言う。
「勿論です。これでも鉄道員ですから」
どうやら怖気付きかけたことは鉄輪にバレていないらしい。和也はさも当然のように答えながら、ほっと胸を撫で下ろした。
蠢穢を難なく討伐できたことで、訓練によって失われかけていた自信が少しばかり戻ってきたように思えた。自らの確実な成長もハッキリと感じられ、自然とやる気が漲る。
和也は思わず笑みが浮かんでしまいそうな口元に力を込めた。
「悪いが、討伐の余韻に浸っている時間はない。まだまだ残っているんだ」
「分かっています」
制帽を被り直し気合を入れ直す。右手に握るハルバードを一瞥した後、再び結界内を見渡した。遠目からこちらの様子を伺う大型の蠢穢が六体確認できる。先程より一匹増えているが、恐らく騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。
新入りの七体目から視線を逸らしかけた時、その蠢穢の体が突如大きく膨らんだように見えた。驚いて視線を戻した和也は、蠢穢が膨らんだのではなく翼を広げたのだと認識した。
とは言っても鳥のように羽毛で包まれた翼ではない。剥き出しとなった骨に筋繊維が絡みついたような造形だ。
蠢穢本体は長い嘴を持った鳥型だが、羽毛は顔付近に生えるのみ。羽毛と皮膚が削げ落ちた痛々しい体の腹部には、人の頭程の瘤が無数にぶら下がっていた。
「厄介なのが出たな。地上は任せた」
鉄輪が言いながら和也の肩を叩き、一本前に出る。そして真上に浮き上がり、空中へと繰り出した。同時に蠢穢も翼を羽ばたかせ飛行を始める。双方共にあっという間に高度を上げ、地上からは姿が確認できるだけとなった。武器を振るう様子は見えるのだが、表情までは分からない。
空中で繰り出される蠢穢からの猛攻を華麗に交わしながら的確に攻めていく鉄輪の姿は見事としか言いようがなく、本物の繰り広げる戦いに埋められない力の差を感じてしまう。回復仕掛けていた自己肯定感が再び低下しそうだった。
――俺の相手はアイツじゃない……!
和也は鉄輪を見上げていた視線を下ろし、残っている五体の蠢穢へと向けた。その中の一体――巨大なトカゲに似た姿の蠢穢が少しずつ距離を詰めて来ている。他の四体は相変わらず遠巻きに見ているだけだが、戦闘が始まると一斉に攻めて来そうな予感があった。
「やるしかないか……」
闘心に火をつけるように呟いた。蠢穢を視界に捉えたままゆっくりと息を吐き、右足を一本引く。
その動きを察知したのか、トカゲ型の蠢穢が床板を蹴り猛スピードで駆けてきた。タイミングを測り、和也はハルバードを大きく振るった。
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