第43話 力水

和也の訓練は夜まで続いた。上手く飛行することができない醜態を殿護にまで披露することは苦痛でしかなく、その心の荒れが能力の発現に影響しているのかフライ旗の武器化すら遅くなる始末だった。

 いつまで経っても飛行できない和也に対してつい言葉が強くなる鉄輪、それを抑える殿護という光景を何度も見ることになった和也は、殿護と鉄輪はただの上司と部下の関係ではないのでは? と考えていた。鉄輪を叱りつける際の「馬鹿者」という発言や容赦ない平手打ちからして、親族に近しい関係のように思えてならない。


 だが厳しい訓練の最中にそのようなことを尋ねる暇などなく、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積していった。


 ――早くお風呂に入って疲れを落としたい。


 そう願いながら訓練を続けた末、ようやく鉄輪から「風呂に行くぞ」と声をかけられたのだった。




 京都駅の風呂場も大阪駅と同程度の大きさだった。駅の規模や職員数も似ているため当然だろう。違っている点は床の素材が木ではなくクッションフロアであることだろうか。サラサラとした肌触りの良い素材であることは共通している。

 脱衣かごの入った棚が並んでいる様子も同じであり、ここでも同業他社を感じざるを得ない。

 

「将臣! 殿護さんにたれたんだって?」


 脱衣所に入ると同時に声が飛んできた。発したのは三十代位の男性で、お腹がふくよかなぽっちゃり体型。相撲部主将のイメージがしっくりくる外見だ。

 彼は既に制服を脱いでおり、ボディタオルやシャンプー等の入った入浴セットを小脇に抱えていた。


「お、まだ少し腫れてるか?」


 男性は自身の左頬を指で突きながら、煽るようなにやけ顔で将臣を見る。


「そうですよ! 思いっきり平手でやられました!」


 鉄輪は開き直るように声を荒げながら革靴を脱ぐと、下駄箱へと投げ入れた。和也もその後に続く。


「その後は耳元で大声出して説教! 難聴にでもなって基準値を逸脱したらどう責任取ってくれるんですかね!」


 鉄輪は言いながら脱衣かごの前まで移動すると、酷く苛立った様子で開襟シャツを脱ぎ始めた。

 鉄輪が口にした基準値とは『医学適性検査』における基準値のことだろう。鉄道員に対して年に二回義務付けられている検査であり、視機能、聴力、疾患及び身体機能障害の有無、中毒の有無が検査される。

 聴力は視力と違い矯正することが不可能であるため、必要以上に神経質となるのも無理はない。


「余計な監視役を置いていきやがって……あのクソ親父!」


 最大限の苛立ちが込められた叫びを放ち、鉄輪は開襟シャツを脱衣かごに放り込んだ。


 ――置いて行った?


 その表現が気になり、和也のシャツを脱ぐ手が止まった。今なら殿護との関係性を聞き出せるのでは? と思ったが、この苛立ちようでは八つ当たりされるのが関の山だろう。

 和也は質問を仕方なく諦め、シャツと肌着脱いで脱衣かごに押し込んだ。


「ほっそ」


 ベルトをスラックスのループから抜き取るのと同時に、鉄輪の莫迦にするような半笑いの声が耳に届く。

 一体何度人を虚仮こけにすれば気が済むのだろうか? と鉄輪に対するヘイトが高まっていた和也は、一度くらい睨みつけてやろう。と鉄輪に向かって鋭い視線を向けようとした。だが、そのような考えは視界に捉えた驚きによって忽ち吹き飛んでしまった。


 真横に立つ鉄輪の肉体は見事なまでに鍛え上げられていた。両腕は太く胸板は盛り上がり、腹筋に至っては完全なるシックスパック。道行く人にプロボクサーの体だと言って見せれば、間違いなく全員が信じるであろう鍛え方と筋肉量だ。


「能力が発現しにくいのは鍛え方が足りないからじゃないのか?」


 得意げな表情で語る鉄輪に「それは関係ないでしょう?」と反論するが、「いいや」と直ぐに首を横に振られた。


「現状、飛行能力を有しているのは俺と井上だけ。鍛えている俺ができて井上ができないんだから関係大ありだ」


 鉄輪はお風呂セットの入った黒色のメッシュバッグを担ぐように持つと「次の訓練から筋トレも追加するか」と悪戯っぽく言いながら浴場へと歩き去って行った。


「ちょっと……勘弁してくださいよ」


 既に過酷を極めている訓練に筋トレまで追加されては完全に体がもたなくなってしまう。数百回の腕立て伏せや腹筋を強いられるのでは? と思うと頭が痛くなり、和也は依代の力を受けていることを初めて後悔した。こんな力を持っていなければ鉄輪の訓練に身を投じる必要もなかったというのに……。


 落胆して肩を落としながらも、浴場へと一歩踏み出した。扉を開き、湯気と共に現れた浴場を眺める。やはり同業他社、非常によく似ていた。洗い場の数や湯船の大きさもほぼ同じ。職員が賑やかに仲良く会話している様子も変わらない。


「失礼します……」


 小声で呟きながら浴場へ足を踏み入れた。濡れた灰色のタイルを踏み締めながら洗い場へ進み、いつも通りに体の汚れを落とす。今日は特に汗をかいた。しっかりと石鹸の泡を立て、念入りに汚れを洗い落としていく。


 頭までを洗い終え、既に数十人が入浴している湯船に右足からゆっくりと浸かる。湯の温度は大阪駅よりも少し高く感じるが、この程度の差なら熱いとも感じることもなく快適だ。


 先に体を洗い終えていた鉄輪は他の職員達と仲睦まじく会話している。どうやら入浴中にまで和也の相手はしたくないらしい。今は業務上休憩時間にあたり、休憩中くらいは仕事から解放されたい! という気持ちは理解できるものの、少々傷付く行為でもある。


 仕方なく一人で入ろう。と初めての泊まり勤務を経験した日を思い出しながら肩まで体を沈めた時、「西の坊主!」という声が飛んできた。

 自分のことだろうか? と声の聞こえた方向へ顔を向けかけたが、一度立ち止まって考える。もしかすると西という苗字の職員を呼んだだけかもしれない。ありふれた苗字であり可能性は高いだろう。

 くだらない勘違いで恥をかきたくない! と和也は反応せずにいたが、今度は「西の研修坊主!」という声が飛んできた。これは自分のことで間違いないだろう。


 声のした方向を見つめると、湯気の中で恰幅の良い男性職員が手招きしていた。脱衣所で鉄輪を煽っていた職員だ。湯船の中を歩き、彼の元へ向かう。

 近くで見るとやはり大きい。相撲部屋に誤って弟子入りしてしまったのではないか? と不安になるほどだ。


「お疲れ様! 研修初日はどうだ?」


「お疲れ様です。まあ、ただただ疲れました……」


 そう返答しながら再び肩まで湯に浸かる。少し熱いくらいのこの湯加減が、体の芯にまで染み込んだ疲れを溶かし出してくれるような気がした。「気持ちいいいだろう?」と問われ、無言の頷きを返す。


「挨拶が遅れたけれど、俺は岩橋雄大ゆうだい。将臣の指導担当を任されていた第二世代だ、よろしくな」


 岩橋は肉付きのよい手を和也に差し出す。「よろしくお願いします」と返しながら和也は握手に応じた。もっちりとした弾力のある大きな手は握り心地がよく、不思議と安心感が得られた。


「僕は井上和也といいます。第一世代ですが、能力自体は――」


「能力自体は第四世代相当。だろ? 殿護さんに聞いたよ。なかなかに苦労しそうだな」


 岩橋は豪快にガハハと笑うと「気合い入れていけよ!」とエールを送りながら、和也の頭を押し込むように撫で回した。

 湯船の中に沈められるのではないか? と感じつつも「どうも」と軽く返事をする。


「何か分からないことや困ったことがあれば力になるぜ。他社だとか気にぜずに遠慮なく頼ってくれ!」


 岩橋は丸太のように太い腕を組み、人の良さそうな笑みを浮かべた。どうやら、かなり面倒見の良い性格をしているらしい。体格の影響もあってか信頼しても良いと思える人物だ。

 和也は岩橋に、あのことを聞いてみようか? 思い立った。訓練の途中からずっと気になっていた、鉄輪と殿護の関係性だ。


「あの……では、一つ質問いいですか?」


「お! 何だ?」


 前のめりになり、どのような質問がくるのか? と興味津々な様子の岩橋に、和也は二人の関係性を問うた。

 

「確かに気になるよな! 俺も新人に聞かれることがあるよ」


 再びガハハと笑うと、岩橋は二人の関係性について分かりやすく説明してくれた。


 その説明によると殿護は祖父が機関士、父親が新幹線総合指令場輸送指令長を勤めた第三世代とのことだった。そして驚くことに、鉄輪家との繋がりは初代から続いているのだという。

 初代は、同じく鉄輪家の初代と共に機関士を勤めた相棒同士。二代目は輸送指令長として、新幹線の名運転士となって活躍していた将臣の祖父を陰で支える、これまた相棒同士。

 そして殿護自身も、鉄輪家の三代目――将臣の父親にあたる――の右腕として鉄道員人生を勤めていた。駅長と首席助役の関係で、異動も二人揃って行うほどだったという。しかし、将臣の入社に伴い三代目の元を離れた。


「幹雄さん……将臣の父親だが、その意向でな。今後は息子を頼むとお願いされたそうだ」


 岩橋は「あの二人は……と言うよりあの一族は、殆ど身内関係みたいなもんなんだ」と言って説明を締め括った。


「ありがとうございます。なるほど……だから、置いていった。なのか」


 和也は将臣が脱衣所で発した「余計な監視役を置いていきやがって」という言葉の意味をようやく理解した。確かに自身の行動が父親へ筒抜けになるどころか、身内状態の人間のため遠慮なく叱り飛ばしてくるだろう。今回のように。


「ではいずれ、殿護さんの子供が鉄輪さんと相棒同士になるんでしょうか?」


 そんなさり気ない疑問をこぼした時、和也の両肩に何かが触れた。直後、体が勢いよくお湯に沈んだ。突然の出来事に対応できず、お湯の中で必死に両手を掻く。幸いにも、肉付きのよい手がすぐに手首を掴んで引き上げてくれた。

 水面から顔を出して激しく咳き込む。かなりのお湯を飲んでしまった。腹を下さないとよいのだが。


「将臣! 何をするんだ!」


 岩橋が和也の背中をさすりながら鉄輪に抗議の声を上げるが、鉄輪から帰ってきたのは笑い声。反省の様子など微塵も感じられない。

 想像でしかないが、恐らく肩に触れたのは鉄輪の両手だ。力一杯こちらの体を押し込み、湯に沈めたのだろう。換気口からの突き落としといい、鉄輪からは碌な目に遭わされていない。


「いいか、井上。これから討伐に入るが、ここは大阪駅とは蠢穢の質が違う」


 ようやく呼吸が整い、和也は鉄輪を見上げた。鉄輪の自信で満ち溢れた顔に、ニヤリとした笑みが描かれる。


「ぬるま湯で育ってきたお前に地獄を見せてやる」

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