第42話 神と少女
眼下に望む福島駅周辺は、多くの人々で賑わっていた。老若男女が各々の目的で出歩き、駅構内へもひっきりなしに出入りして行く。
自宅マンション四十一階のサービスバルコニーに立つ椿は、白色ワイシャツに黒色スキニーパンという格好でその光景を眺めながら、口に咥えている煙草を離した。
ふーっと細長く息を吐き、煙が夕焼けに空へ消えて行く様子を目で追っていると、列車の入線音が微かに耳に届いた。煙草の灰をスライド式の携帯灰皿に落としてから再度駅へと目を向ける。
降車する乗客の人数は帰宅ラッシュ手前にも関わらず多く、乗り込んで行く人数も多かった。やはり、ターミナル駅の隣駅という立地の良さからであろうか?
心の傷口が疼き始めたのを感じ、椿は素早く煙草を咥えた。思い切り煙を吸い込み多量のニコチンで頭を麻痺させようと試みるが、生憎この体はヒトではない。思考が止まることはなく、懸念していた負の感情が続々と生成され始めた。
――何故、私は死ななければならなかったのか……。
自らの駅もターミナル駅である『京橋駅』に隣接していた。隣駅の規模こそ違うものの、よく似た立地である彼に対して抱いてしまう強烈な嫉妬心は、自身でも気味が悪いと思わざるを得ない。
こんな感情を持ったところで自らの駅が帰ってくるわけもなく、息子達と再び美しい結界内で幸せな時間を過ごせるわけでもないというのに。
賑わう駅から視線を逸らし、自身への苛立ちから雑に息を吐いた。一度に多くの煙が排出され視界に薄い灰色の靄がかかる。心に渦巻く感情とよく似たその靄を、少し湿り気のある夏の風が素早く掻き消していった。
ほんのりと甘く紅茶のような香りのする煙を口内でふかしながら、もう一度駅を見下ろす。
この場所からの景色を望む度、福島駅として生を受けていれば。と何度思ったことだろうか。そして、その思いを持てば持つ程に子供達への申し訳なさと自らへの嫌悪感が膨れ上がっていく。
自らの駅を――自分自身を卑下する行為は、駅神として決して許されるものではない。いや、そもそも私は今でも駅神なのだろうか? 駅を失った今、自らの存在意義は失われている。それでも駅神と呼べるのか?
――私は一体何者なのだろう……?
椿は、煙草を持っていない左手をじっくりと眺めた。肌が白く、指の長い手だ。片町駅として生を受けた時と全く変わらぬ大きさと形。
外見上は何も変わらないが、この体は駅を失っている。死のタイミングを逃している以上、いつ消えてもおかしくない非常に不安定な存在だ。それは数分後かもしれないし、数百年後かもしれない。前例がない以上、未来永劫この結界の外で生き続ける可能性すらあるのだ。
溢れ出してやまない負の感情に押さえつけられた椿は、すっかり短くなった煙草を携帯灰皿へ押し込んで閉じると、ベランダの手摺りに上半身を預けた。
ここ数十年は特に思い悩むことなどなかったと言うのに、最近になって駅を失った際と同規模の喪失感が襲いかかってきている。いや、それ以上かもしれない。
ワイシャツの胸ポケットから新しい煙草を取り出して咥え、オイルライターで火をつけた。神でもヒトでもない体を煙で満たす。
福島駅にまた列車が入線してきた。十両編成の車両から沢山の利用客が溢れるように降りてくる。あれだけの人数が駅を必要としている。大切に思われている。愛されている。
どす黒く粘り気のある嫉妬心が心に絡みつき取ることができない。どうすれば綺麗になるのか? と、方法も分からないまま煙草を深呼吸するように吸った。ゆっくりと、心の醜い汚れを洗い流すように息を吐く。煙の色は相変わらずの灰色だった。
「ただいま」
視界が晴れるのと同時に、背後から少女の声が飛んできた。煙草を咥えようと口元まで運んでいた手を下ろし、振り返る。
視界に映ったのは見知った顔だった。乃々華がサービスバルコニーとリビングを繋ぐ扉を開け、身を乗り出すような姿勢でこちらを見ている。
「おかえりなさい」
そう言葉を返すと、心の穢れが僅かだが軽くなった気がした。どんよりとした重さがなくなり、胸の支えが取れたようにスッキリとしている。何故だろうか? と考えながら歩み寄って来る乃々華を見つめた。
長い黒髪を夏風に靡かせながら口元に笑みを浮かべている姿は美しく、この家の世話になるとこが決まった日に自らを迎え入れた少女の面影は、丸く大きな黒い瞳に残るばかり。
「煙草、また神田さんから貰ったの?」
乃々華は、椿が指で挟んでいる煙草を見つめながら不満そうな表情で尋ねてきた。肯定の頷きを返し、椿は煙草を咥える。
「神田さん、まだ煙草辞めていなかったのね」
「去年、禁煙するって仰ってたのに」と少し頬を膨らませて抗議する。その姿に、微かだが当時の面影が残っていることに気付かされた。椿は懐かしさを覚えながらも、乃々華にかからないよう顔を背けて煙を吐く。先程よりも灰色が薄れたように思えたが、気のせいだろう。
「辞めないと思いますよ。彼にとって喫煙はお父様の存在を感じられる大切な時間ですからね」
神田が愛飲し時折椿に分けてくれる煙草は、通称『金ピース』または『ロングピース』と呼ばれる銘柄で、神田の父親が吸っていたものと同じ銘柄だ。バニラのような甘い濃厚さと紅茶のような華やかさを併せ持った独特な煙草である。
「それは知ってるけれど……やっぱり健康には良くないわ」
乃々華は言い終えると同時に椿を見つめてきた。その強い意志の篭った視線が訴えているのは、さしずめ「あなたも止めるべき!」と言ったところだろうか?
「私の健康は心配いりませんよ。まずはご自分の心配をなさってください」
椿は、「煙がかかりますよ」と一言告げてから煙草を咥えた。屋外とは言え、至近距離に立っていれば多くの煙を浴びることになるだろう。乃々華の体に、嫉妬心に塗れて汚れた煙を取り込ませることは避けたかった。
しかし乃々華はそんな注意喚起など知らんと言わんばかりに、椿と体が触れ合う程の距離に立った。同じような姿勢をとり、眼前に広がる大阪平野を眺めている。
「体に臭いがついてしまいますよ」
「構わないわ。だって椿さんの匂いだもの」
視線も寄越さずこぼす乃々華に「頑固ですね」と言ってみるが、反応は返ってこなかった。椿は、ぼんやりと風景を眺めたままの乃々華から顔を背けて煙を吐く。
しかし、その瞬間に風向きが変わり吐き出した煙は乃々華の顔を包み込むように流れた。乃々華は当然その煙を吸い込んでしまったようで、手で纏わりつく煙を払いながら激しくむせ返っている。
椿はまだ長さの残る煙草を携帯灰皿に差し込むと、思わず屈み込んだ乃々華の背をさすった。
「だから言ったでしょう。大丈夫ですか?」
声をかけながら乃々華の顔を覗き込むと、強く目を閉じて苦悶の表情を浮かべていた。ロングピースのタール数は二十一ミリグラムだ。慣れない者が肺に入れるとかなりキツイだろう。そもそもロングピースは肺喫煙に向かない。
「お部屋に戻った方がよろしいですよ」
咳は治まったものの未だ苦しげな乃々華に手を差し伸べたが、乃々華はそれを振り払った。その行動に驚き動きを止めた椿の両肩を、縋るように掴む。
「椿さん! どこかに行っちゃ嫌よ!」
「……どう言う意味でしょうか?」
両目に涙を溜め叫ぶ乃々華に返せたのは、そんな疑問だけだった。その涙は自分を想ってのものか、はたまた煙草の刺激によるものか……そんなことを考えている間にも肩を掴まれる力が強まる。
「椿さんの背中凄く寂しそうだったわ。明日突然いなくなるような感じがして……」
乃々華は言葉の後半になると力無く俯き、声量も囁きほどに小さくなった。たが肩を掴む力は依然として強く、彼女の焦りが伝わってくるようだった。
「お家に居た家政婦さんがそうだったの。寂しそうにベランダに立たれていて、何かお悩みかな? ってお話を聞いたら実はって……」
乃々華の声が涙声に変わる。その家政婦の話は椿も聞いたことがあった。実母の介護のためにこの家を離れたことも、乃々華が彼女に心を開いていたことも。
「またお父さんとの二人暮らしに戻ってしまうの? お父さんのことは好きだけれど、やっぱり寂しいの」
強い夏風が吹きつけ、乃々華の長い黒髪を持ち上げる。
「お母さんと家政婦さんに続いて椿さんもなんて……そんなの嫌!」
乃々華はそう叫ぶと椿の体に腕を回し、胸元に頬を押し付けるようにして抱きついた。嗚咽を漏らしながら「行かないで」と悲しげに呟く。
椿は突然のことに数秒間唖然とした後、慌てて乃々華の両肩を押して身を引き離した。胸元に耳を当てられては人でないことを悟られてしまう。駅神の体が鼓動を刻むことはない。
「大丈夫ですよ。私はどこにも行きませんから」
引き離された乃々華の涙に潤む瞳を見ていると、咄嗟にそんな言葉を口にしてしまった。なんて無責任な言葉なのだ! と、ますます自身への嫌悪感が広がっていく。
乃々華が言ったように、明日消えてもおかしくない体だと言うのに――
「本当?」
「……ええ。本当ですよ」
嘘を重ねた。浄化れていた心の穢れが戻ってくる。せめて、乃々華の目の前でこの体が消えることのないよう祈るばかり。
「じゃあ約束して、椿さん」
「約束ですか?」
正直気が進まなかったが、この場を切り抜けるには約束するしかない。決して守れない約束を交わす、碌でもない神に成り下がるしかないのだ。
「では……指切りでもしましょうか」
昔、息子達とよく交わした指切りを提案し、小指を立てた右手を乃々華に差し出す。乃々華はその手をじっと見つめた後、そっと自身の右手を持ち上げ椿の手に近づけた。
「さあ、約束です」
椿の言葉に乃々華は頷く。瞬間、乃々華の手が椿の手首を掴んだ。勢いよく引き、体制を崩した椿の顔を両手で挟み込む。
十六歳少女の唇が神に触れた。
全身から力が抜け、抵抗することすらできなかった。いや、そんな発想すら浮かばなかったと言った方が正しい。頭の中は真っ白だった。
足元で何かの落下する金属音がした。それが左手に持ったままであった真鍮製の携帯灰皿だと理解したのは、乃々華が唇を離した後だった。
「約束。お父さんには内緒よ」
乃々華は酷く紅潮した顔で言うと、素早く立ち上がってリビングへと逃げるように駆け込んで行った。その後ろ姿を、椿は両膝をついた姿勢のまま見つめる。
夏の風が背後から強く吹きつけ、携帯灰皿から溢れた灰を巻き上げた。
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