第41話 半端な発現
死を覚悟した次の瞬間、加速していた体が急停止した。かと思えば、ふわりと浮き上がり水の中にいるかのような浮遊感に包まれる。
「お! やっぱり俺の予想は正しかったな」
鉄輪が嬉しそうに笑いながら話す声が近付いて来る。恐る恐る両目を開けると、和也の体は床に追突する寸前で停止していた。脳が思い出したかのように呼吸を再開し、和也の耳では激しい呼吸音とパニックを起こしたかのように乱れ打つ心臓の鼓動音が鳴り響いていた。
「極限まで自分を追い込まないと力が出ないタイプだな」
鉄輪が、逆さまの状態で宙に浮く和也の顔を身を屈めて覗き込む。
「井上って、夏休みの宿題とか始業式の前日に慌てて終わらせてただろ?」
図星だった。恥ずかしくも懐かしい記憶を引きずりだされ、和也は全身がむず痒くなるような感覚に陥った。
「今はそんなことどうだっていいでしょう!」
ニヤニヤと笑う鉄輪に向かって逆さ吊りの情けない姿勢のまま吠えたが、鉄輪の表情は変わらない。まるで効いていないようだ。
「図星か?」
「どうでもいいですから早く下ろしてくださいよ!」
「どうして下ろすんだ? やっと発動できたんだから飛んでみろよ」
鉄輪に言われ、そうだった。と思い出す。しかし逆さ吊りの状態からどのようにすればよいのか……? 迷っていると鉄輪が屈めていた体を起こし、大きく一度手を叩いた。
「ほら、さっき話したコツを使ってみろ! 集中、集中!」
和也は鉄輪の言葉を受けて両目を閉じた。頭に血が登ってきたようで少しクラクラする。早く体制を立て直さなければ……。
空中を飛び回る姿をイメージして血を足に流すように意識する。が、体は全く動かない。逆さまの状態でふわふわと浮いたままだ。何度頭にイメージを描いても頭が上を向くことがない。
「……どうした?」
鉄輪が怪訝そうな表情で和也を見遣る。素直に「動くことができません」と答えると、返ってきたのは特大のため息だった。
「さっきコツを教えたばかりだろ! どうしてできないんだ?」
苛立ちを隠そうともせず不満をぶち撒ける姿に、和也の心が忽ち萎縮した。心のささくれが言葉となって口から飛び出す。
「あんな曖昧なコツだけで飛べたら苦労しませんよ!」
そう叫ぶと同時にやる気が一気に削ぎ落とされ、その影響か空中に浮いているだけの状態すら維持できなくなった。浮力を失いコンクリートの床に頭部を打ちつけることとなったが、たいした高さではなかったため頭や首に痛みはない。しかし、心の痛みは大きくなるばかり。
鉄輪の顔を見るのが恐ろしくコンクリートの床に視線を合わせたまま座り込んでいると、頭上から苛立ちがこれでもかと含まれたため息が降ってきた。
「真面目にやれよ……」
心の傷口を抉られる感覚がした。三条の時とは比べ物にならない抉られ方で、立ち直れなくなりそうなほどの傷の深さ。自分がコントロールできる能力はここが限界なのかと諦めてしまいそうになる。
悔しさと申し訳なさを抱えながら顔を上げると、鉄輪は和也に背を向けて出入り口へと歩き出していた。
「あの……どこに――」
「煙草だよ!」
まだ苛立ちは消えていないどころか更に強さを増しているようだった。振り向いた鉄輪の眉間には何本もの皺が刻まれており、自分はそれほどのストレスを与えてしまったのか。と嫌でも分からさせられてしまう。
鉄輪は投げつけるように強く言葉を放つと扉を開けて訓練所を出て行った。扉が閉められ大きな金属音が響く。訓練所に反響しながら広がっていくその音にさえ、和也は責められているような気がした。
「さっき吸ったばかりじゃないか……」
一人取り残され小さく愚痴を溢す。高い天井を見上げてもう一度挑戦しようかと考えてはみるが、行動が追随してこない。どうやら心は訓練を続けたくないらしい。
しかし、放棄することなど出来ない。神田に申し訳ないことは勿論、指導してくれている鉄輪にも失礼だ。粗暴な物言いや危険を顧みない指導方法など問題点は多いが、決して悪い人間ではないのだろうと思う。少なくとも、奢って貰った昼食分を返せるくらいの能力は身につけて帰りたかった。
「もう少し頑張ってみよう」
誰に伝えるでもなく自分自身に語りかけ立ち上がる。高い天井をもう一度見上げながら、足を肩幅に開く。息を吐き、同時に頭の中の余計な考えを全て追い出す。目を閉じ、血の流れを意識した。足の先に送り込むように――
だが、やはり体は反応しない。足の裏はしっかりと床を踏み締めたままで、上昇する気配など微塵も感じられなかった。
悔しさで心が潰れそうになった時、訓練所の扉が開かれた。重い金属音に思わず両肩が跳ねる。背筋を正し、出入り口に視線を送った。
たが予想に反し、入室してきたのは鉄輪ではなかった。鉄輪を警戒して乱れていた心拍がゆっくり元のリズムに戻り始める。
「将臣は?」
殿護がそう問いかけながら和也に歩み寄って来た。シルバーフレームの眼鏡とオールバックの髪型は相変わらず知的な雰囲気を醸し出している。
「煙草を吸いに行くと言って出て行きましたが……」
「そうか。訓練は順調かな?」
殿護からの質問に、つい視線が下に落ちる。自らに対する強い失望感が背中に乗っかっているようで気が重かった。
「順調……とは言えないです。うまく飛行できなくて」
「能力の発現自体がしないのかい?」
「いえ、発現は一度だけしました」
「不完全ですが……」と付け足し、和也は視線を落とした。殿護までもが自身に対して失望するのではないか? との恐れが渦巻き、堪らなく苦しくなる。
しかし殿護は、鉄輪のような露骨に残念がるといった様子を見せることはなかった。本来ならマナーとして当然なのだろうが、不思議と聖人君子に見えてくる。
「落ち込むことはないよ。飛行能力の発現には将臣も相当苦労していたからね」
「そうなんですか……?」
殿護の発言を受け、和也は鉄輪の辿ってきた苦労の道を想像した。第四世代は鉄輪一人のみで、飛行能力の発現方法についてコツを教えてくれる人物は誰一人いない。そんな環境の中、鉄輪は血の滲むような努力をしてあれ程の華麗な空中移動を可能にしたのではないか?
和也は、鉄輪が必死の努力の末辿り着き手にしたコツを『あんな曖昧なコツ』などと罵ったことを後悔した。師匠がいて恵まれている人物にそのようなことを言われたら頭に血が昇るのも無理はないだろう。
殿護の「うーむ」という唸り声で和也の思考が現実に引き戻された。殿護は腕を組み、真剣な表情で考え込んでいたが、やがて視線を和也に戻した。
「先程、一度だけ発現した。と言っていたね? 同じ方法をもう一回とってみてはどうかな」
その提案に和也の心臓が跳ねた。同じ方法をもう一度とるなど勘弁願いたい上、殿護にあの危険極まりない指導方法を知られるのは如何なものか。
鉄輪の横暴な行いに辟易しているのは事実だ。しかし、失礼な発言をした自身の失態を考えるとフェアだろう。密告するのは気分的に良くない。
「どうした? もしかして何かされたか?」
黙り込んでしまったことを不審に思われたのか更に問われた。今更、何もありません。とは答えにくい。
――どうする……?
退路を経たれ万事休すかと思われたその時、訓練所の扉が威勢よく開かれ渦中の人物がすっかり機嫌を戻した様子で姿を見せた。
「おい! 少しは飛べるようになったか?」
鉄輪が機嫌良く叫びながら和也に歩み寄る。護の来訪にも対して驚いていないようだった。研修の場に上司が現れると萎縮してしまう者が多いはずなのだが、鉄輪の性格がそうさせているのだろうか。
「殿護さん来てたんですね。どうです? 井上は飛べましたか」
「まだだね。今、一度目と同じ方法で能力を発現させてみてはどうか? と提案したところだ」
殿護が現状を説明した途端、今までヘラヘラとしていた鉄輪が表情を一変させた。笑窪を浮かべていた口元は真一文字に結ばれ、軽く見開かれた両目は泳いでいる。
殿護はそんな鉄輪を気にする様子は見せず、和也に向き直り再び質問した。
「将臣からどのような指導を受けたのかな?」
「えっと……鉄輪さ――」
言葉を紡ぎかけた瞬間、鉄輪に両肩を強く掴まれた。鉄輪は命乞いをするような表情を見せ「昼飯奢ってやったよな?」と和也にだけ聞こえる程の非常に小さな声で囁く。
和也が何かを答えるより先に、鉄輪は殿護によって引き離された。開襟シャツの首元を掴まれているようだが、直接手は触れていない。念力だ。どうやら殿護は第二世代以上の鉄道員らしい。
「今は私が井上くんと話しているんだ。さあ、続きを」
殿護の眼光が和也を貫く。さっさと本当のことを話すべきだろうという考えに及びかけるが、鉄輪の助けを乞う瞳が視界に入る度中断を余儀なくされてしまう。
「将臣に遠慮する必要はないよ。言っただろう? 将臣が迷惑をかけたら遠慮なく相談してくれ。と」
確かに、殿護からは挨拶の際にそう言われた。そのことは覚えているのだがどうにも言い辛い。
しかし、ここから脱出する術はもう一つしか残されていない。鉄輪に恨まれ、これからの訓練が地獄になろうとも――
「えっと、ですね」
和也は心臓の激しい鼓動と冷や汗を全身に感じながら口を開いた。
「鉄輪さんから、極限まで追い込まれないと力が出ないタイプだと指摘されまして……その……」
自身を見つめる鉄輪と目が合った。和也は心の中で謝罪しながら目を逸らし、自身が突き落とされた換気口を指差した。
「あそこから飛び降りろと……」
「何!」
殿護は非常に驚いた様子を見せ、遥か上部に設置されている換気口を見上げた。下げられた両手が微かに震え、顔が怒りで急速に赤らむ。そして、怒りに満ちたその表情のまま鉄輪に向き直った。
鉄輪は全てを諦めたのか、ぎこちなく笑い両肩をすくめてみせた。
直後、殿護の発した「馬鹿者!」という叱責と激しい平手打ちの乾いた音が訓練所に響き渡った。
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