第2話 大阪駅

 『大阪駅』は、関西最大級のターミナル駅である。二〇十一年に開業した五代目駅舎は、ホームを覆うように設置された迫力ある大屋根が有名だ。

 一日に四十万人以上が利用し駅構内ではスーパーやカフェなど、駅を取り囲むように建つ駅ビルでは百貨店やホテル等が営業している。

 曜日や時間帯を関係無しに常に人が行き交う光景は、第二の都市『大阪』を象徴していると言えるだろう。


 そんな大阪駅には六ケ所の改札口があり、和也はその一つである『連絡橋口改札』へと向かっていた。改札外に南北の駅ビルを結ぶコンコースがあるこの改札は常に人の多い場所ではあるが、電車が到着すると更に人の数が増す。

 和也は、ホームへ繋がるエスカレーターから溢れ出て来た地元では考えられない規模の人並みを避けながら進み、改札口のある方角へと足を進めた。


 改札口を抜けて目的の場所を目指す。どこにあるかは事前に把握済みであり、迷わずたどり着くことができた。構内の壁と同化するように白色に塗られた扉の前に立つ。

 扉に黒色で印字された文字を見ると、より一層緊張感が高まった。


 『関係者以外立ち入り禁止』


 幼少期の出来事がなければ、和也は今ここに立っていなかっただろう。就職先を考えている際にその出来事を思い出したことが、鉄道会社の仕事について調べるきっかけだった。

 社会インフラを守るというやり甲斐のある仕事、悪くない福利厚生、揺るぎない安定性……。そして、幼少期に目撃した謎を解けるかもしれないという期待。そのような魅力に惹かれ、和也は鉄道員という人生を歩むと決めたのだ。


 もう一度、目の前の扉に印字された文字を読む。脈が乱れ、手に脂汗が滲んだ。


 ――俺は関係者だ。入ってはいけない訳がない。


 そう自分に言い聞かせると、和也は着慣れないスーツのスラックスで手汗を乱暴に拭き取ってからドアノブを握り、一気に押し開けた。

 しかし自分が加えた力以上に勢い良く扉が開き、和也は慌ててドアノブから手を離した。転げそうになった足元を慌てて立て直し、開いた扉の奥へと目を向ける。


「おっと、失礼しました……」


 そこには、背の高い駅員が立っていた。どうやら内と外で同時に扉を開けてしまったらしい。


 駅員は四十歳前後だろう外見で、垂れがちの優しげな目が印象的な男性だ。しかし、最も和也の目を引いたのは、駅員の被る制帽だった。鉢巻に赤い帯が巻かれ、金色の一本線が入った制帽。それは助役――駅員の指導や駅長の補佐を担当する中間管理職の証である。

 上司となる人物が現れたことで、和也の緊張度合いが一気に跳ね上がった。手のひらから汗が吹き出し、口内に湧き出した唾液を反射的に飲み込んだ。


「あの! 本日から配属になります――」


「井上和也くん」


「あ、はい! 井上です! よろしくお願いします!」


 既に自分のことは伝わっているようだが、当然だろう。これから配属される新人のデータに目を通さない現場は無いはずだ。

 きっと自身のデータも穴が空くほど読まれたのだろう。助役達がデータ上の気になる点を幾つも指摘しながらしかめっ面で議論を交わす恐ろしい光景が一瞬で脳内に構築され、和也は身震いした。

 だが、その想像も助役が後ろ手に扉を閉める音を聞いたことで、泡のように弾け消えた。


「着替えに行きましょうか。更衣室へ案内しますね」




 和也は助役の左隣に並んで構内を歩き、更衣室への道を進む。人の多さは相変わらずだ。


「私は『椿つばき』といいます。分からないことは、何でも聞いて下さいね」


 椿助役はその優しげな目を細め、笑顔で自己紹介をしてくれた。テノールの声色にも優しさが満ちている。


「はい! よろしくお願いします!」


 和也が再び張り切った返事を返すと、椿はニコリと笑顔を見せた。


 椿は、背が高くスタイルが良い上に容姿も優れていた。大学生らしき二人の女性達が、すれ違いざまに椿を見てハッとした表情を見せる。一瞬の間を置いてから上がる黄色い声。椿は慣れているのか表情を変えることはなかった。

 和也は羨ましさを感じながら、チラリと椿の左手に視線を向けた。確実に嵌めていると予想していた薬指の指輪は見られなかった。


 ――意外に独身なのだろうか。それとも、仕事上嵌めていないだけだろうか……。


 和也はそこまで想像したところで、考えるのを止めた。これから仕事なのだ。色々な業務を覚えなければならないのに、余計なことを考えてはいけない。

 和也は、脳内の現在必要としない考えを消し去り黙々と足を進めた。




 更衣室には背の高いロッカーが何列も並んでおり、どこか市民プールの更衣室を連想させるような光景だった。扉には紙製の名札が刺してあり、和也のロッカーは入口から三列目の壁際。『三条』という駅員が隣のようだった。

 椿は和也のロッカーを開けると、中から真新しい制服を取り出した。黒色のジャケットと同色のズボン。赤、青、ベージュの三色が用意されたネクタイ。

 そして、羽根をモチーフにした社章が光る制帽。


 他の鉄道会社が制服にグレーや紺といった色を採用している中、『関西旅客鉄道』通称『NR関西』の制服は黒色である。装飾も少なく、シンプルなデザインが格好良いと評判らしい。

 和也は椿から制服を受け取ると、早速着替えに入った。素早くシャツを着、スラックスを履いてジャケットを羽織り、正面のボタンを留める。三つ並んだ銀色のボタンは、動輪の模様が彫られた細かい作りだった。


 和也は青色のネクタイを締めると、最後に制帽を被った。更衣室内の姿見に映った自身の姿が、あの日に傘を拾った駅員と重なる。自然と、白手袋を嵌めた手に視線が移った。二三度、手を握ったり開いたり繰り返す。今なら、何か不思議な力を使える気がした。


「どうしましたか?」


 不思議そうに和也を見る椿と目が合った。一瞬、超能力のことを話そうかと思ったが、きっと笑われるだろうと考え、止めた。


「いえ、何でもありません」


 和也はそう答えると、もう一度姿見に目を向けた。慣れない自身の制服姿に、高揚感を覚えると同時に少し緊張した。






 九時。出勤点呼が始まる。

 新人の紹介があるため、和也は『神田』という主席助役と共にずらりと並んだ駅員達の正面に立った。主席助役は、髪を短く刈り上げた五十代だろう男性。椿程ではないが背が高く、体つきもガッシリとしている。何かスポーツをしているのだろうか? と感じる。鋭い目が印象的だ。


 助役は、椿と神田。そして、椿の隣に並んでいる男性の合計三人のようだった。三人目の助役は、えびす様のようなお腹をした恰幅の良い五十代の男性。男性は和也を見つめると人の良さそうな笑みを浮かべた。笑うとますます戎様に近付き、怒った顔が想像できない。


 神田が咳払いをする。それを合図としたように駅員達が一斉に姿勢を正した。和也も緩みかけていた気持ちを引き締め、同じように姿勢を正す。


「本日から配属になる新人だ。井上くん、一言あるかな?」


 神田に振られ、和也は「はい」と神田の目を見て返事をした。顔を正面に向け直すと、これから共に働く大勢の駅員達の視線が一斉に和也へと注がれた。

 全員が鋭く力強い目をしていた。これは人々の生活の足を守るという決意を……この国に張り巡らされた鉄道網を守るという覚悟を決めた目だ。


 溢れ出る鉄道員としてのプライドに気圧され、和也はゴクリと唾を飲み込んだ。


「本日から大阪駅で働きます、井上和也です! よろしくお願いします!」


 できるだけハキハキとした声で挨拶を行い、大きく頭を下げる。


「よろしく」


 そんな返事がどこからか聞こえ、パラパラと拍手の音が響いた。和也は少し照れくささと緊張の入り混じった感情を持ちながら顔を上げると、もう一度「よろしくお願いします」と頭を下げた。


 その後は神田が伝達事項等を伝え点呼終了となり、駅員達は各々の仕事場へと向かって行った。和也は神田の隣に留まり、指示を待つ。


「井上は、これから駅業務についての指導を受けてくれ」


 神田は和也にそう告げると、駅員達に向かって『三条』と呼びかけ手招きした。一人の男性が近付いてくる。二十代と思しき小柄な男性だ。駅業務の指導係だろうか? 黒縁眼鏡の奥で一重瞼の瞳が覗いている。


「井上です。ご指導よろしくお願いします」


「……よろしく」


 和也の気合の入った挨拶に対し、三条の態度は随分と素っ気ない。無愛想な人だな。と感じると同時に、彼が隣のロッカーであったことを思い出してどうにも気が重くなった。

 三条は、一見眠たそうにも見えるその目を神田に向ける。


「神田助役、指導の前に駅長へ挨拶に伺いましょうか」


「ああ、そうだな。そうしてくれ」


 三条からの問いかけに、神田は頷いて答えた。


「俺はホームの立哨りっしょうがあるから、椿さんと三人で行ってくれるか」


 神田はそう話すと、手に持っていた制帽をしっかりと被った。制帽を被ると随分印象が変わる。制帽の庇から覗く目は先程より鋭さを増したように見えた。

 『立哨』とは、列車監視に当たる業務のことだ。今は通勤ラッシュの真っ只中。この時間帯の立哨は過酷な仕事になる。


 神田に呼ばれた椿がこちらに歩いて来る。その時、三条が露骨に嫌な顔をしたのが分かった。だが椿は気にも止めない様子で、怒ることも三条から目を逸らすこともしない。何事もなかった様子で、案内しますね。と和也達を先導した。

 椿達の後に付いて行こうとした時、神田の呼び止める声が聞こえた。立ち止まって振り返ると、神田は和也に顔を近づけ声を潜めて言った。


「体調が悪くなったら、すぐに言ってくれ」


「はい。分かりました……」


 一体何のことだろうか? と和也は首を傾げた。体調不良を訴えるのは確かに大切なことだが、それをわざわざ説明するだろうか。

 神田の表情が妙に真剣だったこともあって、先程の言葉は和也に大きな疑問を与えた。

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