第3話 駅長

「では、行きましょうか」


 椿が優しく微笑みながら、事務室の奥にある扉を開けた。その先に伸びていたのは無機質な廊下で、大人二人が余裕ですれ違える程度の幅がある。壁には消火栓や標語などの掲示物が貼られており、いかにもバックヤードといった雰囲気だ。


 廊下に足を踏み入れ駅務室に繋がる扉を閉めると、先程までは聞こえていた駅の喧噪がパタリと消えた。本当に駅にいるのか疑いたくなるような静けさ。

 客という立場では絶対に歩けない、まるで『秘密の通路』と言わんばかりの場所に和也は少しばかりの興奮を覚えた。その興奮が顔へと表れないよう表情筋に力を込め、真面目な表情を繕う。


 和也は、椿と三条に続いて列の最後尾を歩く。一つ目の角を右に曲がると、左側にエレベータが設置してあるのが見えた。だが、椿は利用することなく足を進める。和也は通り過ぎざまにエレベータ脇に掲示してある階数案内のパネルに目を向けた。どうやら駅長室は今いる三階に、助役室や会議室は四階にあるようだった。

 これならばエレベータを使う必要はないな。と一人でに納得しながら視線を正面に戻す。前を歩く三条の背中を視界に捉えたタイミングでふとした疑問が浮かび、和也はその背中越しに声を掛けた。


「あの、駅長室に入ることって頻繁にあるんですか?」


 三条はいかにも面倒臭そうな顔で振り返ったが、意外にも回答をくれた。


「余り無い」


「入るとしたらどんな時ですか?」


「怒られる時」


 三条は、素気なく簡易的な回答を告げると正面へ向き直った。

 その回答を聞き背筋にゾクリと寒気が走る。今から怒られに行くという訳ではないというのに、駅長から叱責を受ける自分自身を想像してしまい自然と動悸が激しくなった。


 ――挨拶に行くだけだ!


 そう自らに言い聞かせるように心の中で叫んで深呼吸をした時、椿が廊下の突き当たりで足を止めた。和也も慌てて足を止める。

 椿の正面には一際重厚そうな扉があり、その上には『駅長室』と彫られている木製の看板が掛けられていた。和也の心臓が一際強く脈を打つ。


 椿が駅長室の扉を三度ノックすると、間もなく「どうぞ」と室内から男性の声が聞こえてきた。


「椿、入ります」


 椿が開けた扉を通り、和也は三条に続いて入室する。


 駅長室は二十畳ほどの部屋だった。中央に応接セットが置かれており、左右の壁際には沢山の資料が詰め込まれた本棚が鎮座している。その本棚の上には昔の大阪駅と思われる白黒の古い写真や、歴代の大阪駅長の名前が記された木製の歴代駅長名鑑が掲げられていた。

 部屋の主である駅長の机は応接セットの奥にあり、机に座っていた男性がこちらへ視線を向けた。


 駅長は五十代半ばの男性だった。ロマンスグレーの短髪で、柔和な表情を浮かべている。だが、深く刻まれた皺がこれまでの苦労を物語っていた。

 大きなデスクには新聞や書類、そして現場職最高峰の証である駅長帽が堂々と置かれている。金線が2本入ったその制帽を視界に捉えた時、和也の緊張はピークに達した。


「新人の井上くんです。ご挨拶に伺いました」


 椿に紹介された和也は、制帽を脱ぎ深く頭を下げる。


「君が井上くんか」


 駅長は椅子から立ち上がると、柔らかい笑みを浮かべながら和也に向かって左手を差し出した。


「ようこそ。大阪駅へ」


 握手を求められ、和也は緊張しながらも差し出された左手を握り返した。節の太い大きな手だ。結婚指輪だろうか? 冷えた金属が手に触れた。


「私が、駅長の『陸田りくだ順一』だ。これからよろしく頼むよ」


「はい! 立派な鉄道員になれるよう頑張ります! よろしくお願いします」


 和也は駅長の期待に応えるように、再度勢いよく頭を下げた。駅長が優しそうな人でよかった。と安堵しながら頭を上げる。その時、机の後ろに掲げられている額縁が視界に入った。


『安全綱領』


 その文字を見た和也の脳裏に、入社式での社長の祝辞が蘇る。


 ――これから皆さんは命を預かる側になる。そのことをしっかり心に留めていて欲しい。


 その言葉と共に紹介されたのが、この『安全綱領』だった。縦に箇条書きされたそれに、和也は目を通す。


 一、安全は輸送業務の最大の使命である。

 二、安全の確保は規程の遵守及び執務の厳正から始まり不断の修練によって築き上げられる。

 三、確認の励行と連絡の徹底は安全の確保に最も大切である。

 四、安全の確保のためには職責をこえて一致協力しなければならない。

 五、疑わしい時は手落ちなく考えて最も安全と認められるみちを採らなければならない。


 いずれも鉄道員として働く上で忘れてはならない事ばかりである。今日から鉄道員としての人生を送るのだ。という覚悟を再び噛み締めた時、隣に飾られた見慣れない毛筆の存在に気が付いた。


『駅是 精励恪勤せいれいかっきん


 駅是とは何と読むのだろう。えきぜ、で良いのだろうか? 『精励恪勤』という四字熟語は、漢字からして「しっかりと働こう」という意味のように思えるが……? などとあれこれ思考を巡らせていると、和也が視線を向けている先に気がついたのか、椿が優しく説明してくれた。


「あれは、駅是えきぜです」


「えきぜ?」


「駅の基本的な方針ですね。目標でもあります」


 「なるほど」と和也は頷く。どうやら大阪駅は「しっかり働くこと」を目標に掲げているらしい。無難ではあるが、重要な要素でもある。

 それにしても駅是の文字は非常に達筆だな。と和也は感心した。毛筆に関して知識は深くないが、それでも分かる美しさだ。そのことを正面に立つ駅長へ伝える。


「あの毛筆は駅長が書かれているんですか? 達筆ですね」


 和也の質問に対して駅長は少し困ったように笑うと、「まぁ……そういうことになっているね」と答えた。どうにも歯切れが悪い。

 そういうことになっている。とは、前任者が書いた駅是を使い回しているという意味だろうか? 将又、別人が書いたとでも言うのだろうか? その回答に含まれている意味が分からず心の中で首を傾げた時だった。


「……その内分かる」


 今まで無言を貫いていた三条が囁くように言った。驚いて三条へと顔を向けたが、一重瞼の瞳はすぐに逸らされた。

 駅長が場の空気を入れ替えるように咳払いをし、椿へ目を向ける。


「井上君の指導について、神田君から指示があったかい?」


 駅長からの問いかけに、椿は「はい」と優しげな柔らかい声で返す。


「しばらくは座学、そのあと改札に出てもらいます。指導係は三条さんです」


「そうか。三条君、よろしく頼むよ」


 指導係を言い渡されている三条は、少し緊張した面持ちで会釈をする。駅長は小さく頷き期待していると言いたげな視線を送った後、ゆっくりと和也に向き直った。


「私は駅にいない事もあるが、何あれば相談に乗るよ。立派な鉄道員になれるよう期待しているよ」


「はい! 頑張ります!」


 駅長から期待の二文字を聞いたことで、解れかかっていた和也の緊張の糸が再び強く張られた。和也のハッキリとした大きな返事に、駅長が笑顔を見せる。


「では、二人とも業務に戻ってくれ。椿君は少し話があるから残ってくれるか?」


「分かりました。では、失礼します」


 三条が退室の挨拶をして、駅長に背を向けた。和也も丁寧に頭を下げると、その後に続いて駅長室を後にした。






「駅長、優しそうな方ですね」


 和也は、前を歩く三条に話しかけた。これから指導を受ける相手とは親しくしておきたいからだ。しかし、そんな和也の思いとは裏腹に三条の返事はやはり素っ気ない。


「ああ」


 お互いが無言のまま、歩みだけが進んで行く。


「椿助役も、優しい方ですよね」


 椿の名前を出した途端、三条が立ち止まって振り向いた。その顔を見て和也の心臓が大きく跳ねる。三条が自分を激しく睨み付けていたからだ。


「あ……すみません……」


 和也は手に尋常ではない汗が滲むのを感じた。心臓が激しく波打つ。三条が椿に対して嫌な顔をしていた事を今更になって思い出した。


 ――やらかしてしまった。


「俺はあいつが嫌いだ」


「……そうなんですね」


「不気味なんだよ」


「不気味……ですか?」


 椿のどの辺りが不気味なのだろうか? 和也は再び歩き始めた三条に続きながら考える。口調が優しく、見た目も爽やかで物腰柔らかな感じがある。駅長からも信頼されているようだったし、やはりどこにそんな要素があるのだろう。


 変な趣味でもあるのだろうか? と和也は考えた。俗に言う『残念なイケメン』と言う奴だ。だが、やはりどうにも結びつかない。

 和也が頭を捻っていると、再び三条が立ち止まってこちらを振り返った。慌てて姿勢を正す。


「筆記用具持って来い」


 三条はそれだけ告げると、すぐにエレベーターの乗降ボタンを押して中に入っていった。会議室のある四階に向かうのだろう。


「はい!」


 和也は、急いで自分に割り当てられたデスクへ筆記用具を取りに向かう。


 ――余計なことを考えている場合では無い。今は集中しなければ。


 今から叩き込まれるであろう知識を入れるスペースを作るため、和也は頭を振って必要の無い考えを追いやった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る