第4話 白い花のお守り
和也は小走りで駅務室に戻り、自身のデスクに駆け寄った。デスク横に掛けていた母から就職祝いとして贈られたビジネスバッグを開き、ノートと筆記用具の入ったペンケースを取り出す。
早く戻ろうとバッグをデスク横に掛け直して歩き出そうとするが、どうにも気が重かった。
あの三条と二人きり……その事実が頭の角にちらつき、足を重くしてくる。
椿は「しばらく座学」と話していた。しばらくとはどれ位だろうか……。一月程? いや、座学が終わってもまだ改札の指導がある。
あの無愛想な受け答えは、一撃一撃は強くないものの何ヶ月も続けて喰らい続ければ致命傷になってしまいそうだ。
先を考えたことで憂鬱になり、机に両手を突いた。思わずため息が漏れる。
その時、背後から椅子のキャスターの回転音が近づいて来た。姿勢はそのままに視線だけを向けると、若い女性が椅子に座ったまま和也へ近づいて来ているところだった。
「元気無いね」
女性は和也の隣に椅子をつけ、心配そうに話しかけてくる。名札には『長谷川』と書かれていた。三十代前半だろうか? 長い黒髪がシニヨンで後頭部に纏められている。
「いえ……そんな事は」
「三条の奴、無愛想でしょ。それで落ち込んでるのかな?」
落ち込みの原因を言い当てられ、和也はドキリとした。この程度の事で落ち込むような新人――そんなレッテルを貼られたくない気持ちから否定しようとしたが、長谷川は和也が認めたかのように話を進めた。
「仲良くするつもりなんてありません。って態度だよね。無垢な心にはグサリと来ちゃうよ」
長谷川は「私も無垢だからグサリときちゃう」と言い笑う。笑顔には人を癒す力があると素直に思える明るい笑みに触れ、和也は心がほんの少し楽になったように思えた。
「本当は私が指導してあげたかったんだけど、新人教育は一つ上の社員がするって伝統でさ」
「ごめんね」と手を合わせて謝罪する長谷川に「大丈夫です」と返しかけた時、扉の激しい開閉音が背後から飛んできた。
「井上!」
聞き慣れた声に、心臓が跳ねる。手の平に汗が滲むのを感じながら扉の方向を振り返った。声の主は予想通り三条であり、廊下へと続く扉を開けたまま眠そうな目で和也を睨み付けている。
「遅いな。いつまでかかってんだ」
「す……すみません! すぐに向かいます」
長谷川に会釈をする余裕も無く、素早く三条の元へと向かった。三条が小さく舌打ちをするのが聞こえ、浮上しかかっていた気分が再び深く沈み始める。
――自分は、鉄道員としての仕事を続けていけるだろうか……。
「三条!」
扉を閉めようとドアノブへ手を伸ばした三条がだったが、長谷川から呼びかけられ手を止めた。その姿勢のまま、呼び止めた長谷川を睨み付ける。目つきの悪さからそう見えているだけで、本人にそんな気はないのかもしれないが。
「新人には優しくしてやってよ」
三条は何も回答することなく、いちいち煩いな。と言いたげな表情だけを作り、止めていた手を動かしてドアノブを掴む。
「でないと、また背中を突かれちゃうよ」
「煩いな!」
三条が少々乱暴に扉をしめた。今の発言に対して明かに苛立っていることが表情、そして声色から嫌というほど伝わってくる。
これからまた二人きりだというのに、何故怒りのスイッチを入れてしまうんだ! と長谷川に対して今すぐにでも抗議したい気持ちに駆られたが、この状況で駅務室に戻ることは三条のさらなる不機嫌を誘発するだろう。
やり場のない不満感を漏らしかけたため息と共に飲み込むと、和也の脳内思考は長谷川の奇妙な発言の意味について考察することを選んだ。
背中を突かれる。とは何の事だろう。乗客とトラブルになり傘で突かれたとかだろうか? だが、長谷川は「新人にやさしくしてやらないと」と前置きした。じゃあ乗客では無い。そもそも新人指導は一つ上の社員が行うという話だった。それが正しいならば三条が新人指導を行うのは初めてではないのか?
意味がわからないな……。と、和也は三条の後に続きながら頭を捻る。しかし心のどこかで、過去に見た超能力と繋がっているのではないか? という淡い期待があった。
この駅……いや、鉄道業界には何か秘密がある!
「おい」
エレベーターを二人横並びで待っていると、三条がポツリと呟いた。
「余計な事考えるなよ」
「……はい」
小さくとも威圧感のある声に、思わず気圧される。忙しなく考察を繰り広げていた脳内が、潮が引いたように静かになる。
これから座学であり、鉄道員にとって大切な事を学ぶ時間が訪れる。そんな時に別の事を考えている余裕などあるわけがない。知識を取りこぼすのは勿論、集中できずに三条を刺激してしまうことは避けたかった。
共にエレベーターに乗り込み、三条によって四階のボタンが押されるのを目で追っていた和也は、奇妙なボタンの存在に気が付いた。
一階のボタンの更に下に階数表示の無いボタンがあった。その隣には鍵穴。点検の際に使うのでは? とも思ったが、先程の発言のせいもあって妙に勘繰ってしまう。
――このボタンも、鉄道業界の秘密に関係しているのだろうか。
和也の胸に生まれた小さな疑惑と共にエレベーターは上昇し、すぐ四階へ到着した。三条の後に続いて会議室へと向かう。
会議室は学校の教室程の広さで、想像よりも小さかった。横長の事務机を二つ並べた物が向かい合うように置かれており、両方の机に新人教育用のテキストが置かれていた。三条が奥の机に向かって歩き、腰を下ろす。和也もそれを見届けてから椅子を引いて腰掛けた。
近くでテキストを改めて見ると一昔前のノートパソコン程の分厚さがあった。見ているだけでやる気が削がれそうになる。持ち上げると、これが鉄道員の責任だ! と言わんばかりにズシリと重さがかかった。
「井上」
「はい!」
突然名前を呼ばれ、慌てて三条に視線を向ける。
「お前ここから……そうだな、『
「え! ……っと」
それは、幼い頃から電車に乗る機会の少なかった和也には難問であった。実家から最寄り駅は遠く離れており、今も一人暮らしのアパートは大阪駅から大阪環状線で一駅隣の『福島駅』だ。三田駅のある路線は、和也の実家最寄り駅と同じ福知山線だが、そこから大阪駅まで通して乗ったことなど一度も無い。
しまった……。そう感じながら前日に目を通しておいた路線図を必死で思い返す。
「大阪……尼崎……いや、その前に一駅あった気が……」
尼崎の前は『塚本』だったか『塚口』だっただろうか。全然思い出せない。そこを突破できなければ、覚えているその先の駅を答えることができないというのに。
数分間考え込んでいると、三条が「タイムアップ」と呟いた。
「井上、家の最寄りどこ?」
「福島ですけど」
「実家?」
「いえ、実家は『
そう告げると、三条が怪訝な表情を見せた。鉄道との無縁さを奇妙に思っているのだろうか。悩むように顎を手に乗せ、口を開く。
「井上は何でNRに入ったの? 日常生活で鉄道使わなかっただろ」
和也の予想は的中した。日常生活を送る上で鉄道が不必要な地域に生まれ育ちながら、鉄道員を志すのは珍しいだろう。生活圏内に鉄道があれば、就職先として候補に挙がるこ事もあるだろうが、日頃目にしなければは中々思いつかないはずだ。
「理由は何かあるの?」
理由。そう聞かれ和也は困惑した。昔ホームで見た駅員の超能力が気になって。などとは到底言えるわけもない。市民の足を支えたかったから。等と言っても車社会育ち故に説得力が無さ過ぎる。
――どうしようか……。
和也は再び悩み始めたが、それを余所に三条は自分のテキストを開き始めた。
「まあいいや、高校に求人が来てたとかだろ? 取りあえず研修始めるから」
どうやら他人の志望動機など興味がないらしい。そっちが聞いてきたんだろう! と多少苛つきつつも、和也は大人しく分厚いテキストを開いた。
三条の指導する座学は一月程続き、和也は駅員として覚えなければならない事の多さに辟易した。営業規則や切符の清算、割引切符やダイヤグラムに加え、近隣の情報までで頭に叩き込む必要がある。驚くべきは、これが『営業』だけの知識ということだ。『運輸』であるホーム立哨が始まると、新しく信号などの種類も覚える必要がでてくる。もうすでに限界が近いというのに、これ以上詰め込めこまれては流石に頭がパンクしそうだ。
だが、三条は無愛想であるものの指導は分かりやすく、テキストを読むだけでは理解しにくい内容も噛み砕いて説明されることでスッと頭に入ってきた。
他人への説明というものは、説明する側が完全に理解していないと難しい。もしかすると三条は頭が良いのかもしれない。と、和也は無愛想で短気な自身の先輩を少し見直した。
座学が終わる頃には、新品だったノートにも仕事内容が綿密に書き込まれ、駅員として働く上で欠かせない代物となっていた。
***
和也は福島駅から徒歩十分程度の場所に位置する自宅マンションへと帰宅した。築十八年の1Kでバストイレ別。家を探す際に色々と条件を付けたが流石は大阪の中心地、物件はすぐに見つかった。
リビング兼寝室に置かれたベッドへビジネスバッグを置くと、そのままベッドに倒れ込んだ。ネクタイを緩め、大きく息を吐く。
今研修で教わっていることは鉄道員として知っていて当たり前の知識だ。この程度で音を上げているようでは、この先続かないだろう。それに座学の間は日勤であり当日帰宅ができたが、次の改札業務からは泊まり勤務が始まる。体力面でも、この程度で疲れていては続かない。
「やっぱり学校の勉強とは違うな……」
和也は力のない声で呟くと、ベッドへ横になった姿勢のままビジネスバッグの外ポケットを開けた。中に手を入れ、ポケットティッシュやのど飴を避けながら目的のものを掴んでそっと取り出す。
青色のお守り。子供の頃、母に作ってもらった物だ。経年劣化により所々にヨレや擦り切れが見て取れるが、まだ穴も空いておらず綺麗を保っている。和也はお守り上部で絞られていた紐を緩め、中身の内府に当たるものを抜き出して蛍光灯に翳した。
小さな花。白い六枚の花びらはラミネート加工のお陰で全く色
五センチ程度のこの花は、和也が幼い頃……母の話では幼稚園の年少の時期に、どこからか拾って来た物だ。
この花を手にした日、和也は母と二人で東京へ観光に訪れていた。和也にとっては初めての東京であり、最終日のその日は新幹線へ乗る前に東京駅を見て回ろうと早めに駅へと着いていた。和也は地元では考えられない規模の巨大駅に興奮し、母を放って走り出した……らしい。
そして、案の定迷子になった。
母とはすぐに再会することが出来たのだが、迷子になってから母と再会するまでの記憶は一切無かった。そして母と再会した時、和也はこの花を手に持っていた。母の「どこで拾ったのか?」という問いかけに、和也は「拾った」と返したらしいが、どこで拾ったかに関しては「分からない」の一点張り。
母は、一体どこから拾って来たかも分からない得体の知れない花を気味悪がっていたが、和也はこの花をとても気に入っていた。父に頼んでラミネート加工を施して貰い、母を説得してお守り袋を縫って貰った。
そして、現在に至るまで大切に持ち続けている。
駅で手に入れた出所不明の花。同じく駅で目撃した超能力との関係性を疑りたくなるが、和也はこの花に特別な何かがあるとは思っていなかった。
ただ、この花は、何故か捨てられないのだ。不思議と手元に置いておきたい衝動に駆られる。守ってくれると感じてしまうのだ。
小学校高学年の時にこの花の種類を調べようと試みたが、似ている花は見つかったものの大きさが明らかに違ったり色が違ったりと、確実にこれだと言える種類の特定には至らなかった。
和也は自らの守り神をお守り袋に戻し、そっと再び外ポケットに仕舞うとベッドから起き上がり大きく伸びをした。
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