第5話 泊まり勤務
和也はいつも通りの時間に起床し、いつも通りの電車に乗り、いつも通りの時刻に勤務先の大阪駅に到着した。
今日も大阪環状線に遅れはない。日本の鉄道の正確さに感心するとともに、自分がその正確さを守る立場になったことへの誇らしさを感じながら車両から降りた。
それにしても勤務先が駅というのはどうにも慣れないな。と改札へと向かうエスカレータに乗りながら思う。天気の悪い日でも職場まで濡れずに行けるというのは利点だが、休日に仕事でもないのに職場に足を踏み入れなければならないのが欠点だ。
先日の休日に買い物を終えて改札を通った際、偶然にも立哨を終えて駅務室に戻って来る神田助役と鉢合わせしてしまった。神田助役は優しい人であり決して嫌いではないのだが、休日に上司と会うのは極力避けたい。折角休みモードに切り替えていた体と頭が、強制的に仕事モードに戻ってしまう。
結局福島駅で電車を降りるまで緊張が抜けず、休みのはずだというのに妙な疲れを抱えて帰宅する羽目になってしまった。
エスカレータから降り、大阪環状線の乗り入れる一、二番ホームへ向かう人波に逆らうように歩き連絡橋口改札を目指す。ICカードをタッチして、スムーズに改札機を抜けた。
NR山陽の発行している交通系ICカード『
鹿を可愛くデフォルメしたキャラクターであり、なぜ鹿なのかは分からないがその見た目からファンが多くグッズも多数展開されていた。
和也はロクちゃんの描かれた水色のSKIPを左手に持ったまま、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた駅務室に繋がる扉のノブを掴む。入社から一月経ってもこの扉を開けるのはやはり緊張するものだ。
「おはようございます!」
扉を開けて、しっかりと声に出して挨拶をする。駅務室では前日からの泊まり勤務組が忙しなく仕事に明け暮れているところだった。「おはよう」という挨拶が順々に返ってくるが、どうも声に力がない。前日からの勤務で溜まった疲れに押しつぶされいるのだろう。
入口近くの壁面に設置された端末へ改札機と同じようにSKIPをタッチした。所謂タイムカードであり、これで出勤時間が記録される仕組みとなっている。
それが終われば次は制服に着替える作業だ。SKIPをビジネスバッグの外ポケットに仕舞いながら、ロッカーに向かうため駅務室を出ようとした時だった。
「おはよう。井上くん」
そう声をかけられると同時に後ろから肩を叩かれ、和也は振り返る。背後に立っていたのは長谷川だった。普段通りの笑顔をみせているが、両目の下には薄っすらと隈が出来ている。間もなく泊まり勤務を終える戦士の顔だ。
「井上くん、今日から泊まりでしょう? 頑張ってね」
それだけ告げると、長谷川は和也の返事も待たず、手に持っていた制帽を被って駅務室を後にした。その「頑張ってね」に含まれる様々な意味を想像し、ドッと気が重くなる。
――もう気合で乗り切るしかない!
自身の早くも逃げ出したくなっている心を精神論で突き動かし、和也は駅務室を出た。
更衣室に入り、自分のロッカーから制服を取り出した。ワイシャツに袖を通してボタンを止め、スラックスを履く。ベルトをスラックスのループに通していた時、扉の開く音がした。ベルトを締めながら更衣室中央の通路へ視線を向けていると、ロッカーの影から姿を見せた私服姿の三条と視線が交差した。
「おはようございます」
「……おはよう」
三条の態度は相変わらずだ。愛想のない挨拶を呟くように零すと、自らのロッカーへ歩み寄り解錠のための暗証番号を入力している。服装はグレーの長袖ワイシャツに茶色のズボンで、予想通りといえば失礼だがあまり着飾るタイプではないらしい。
「本日もよろしくお願いします」
コミュニケーションを取ろうと試みたが、返事はない。直前に開かれたロッカーの扉に隠され、三条の表情は分からなかった。もしかすると視線ぐらいは向けたかもしれないが、だから何だという話だ。返事が帰ってこなければ意味がない。
本日初めてとなる泊まり勤務も、恐らくこの態度のまま進行するのだろう。早速憂鬱な気分を抱えてしまったが、色だけでも明るく行こう! と和也は赤いネクタイを選んで締めた。
「改札に入る前に、風呂と寝室案内しておくから」
制服姿となって更衣室から出てきた三条は、待機していた和也にそれだけを話しそそくさと歩き出した。和也も呆れながらその後を追う。駅務室へ戻り、座学を受けるために何度も乗ったエレベータへと辿り着く。下りボタンが押されたことから、どうやら浴室は地下にあるようだった。
エレベータに乗り込み、三条と共に地下二階へと降り立つ。扉が開いた先は三階と何ら変わりない廊下だった。
ただ、三階との大きな違いは廊下がカーペット敷きになっていることだ。三階と同じリノリウム貼りの床はエレベータの周囲少しだけで、そこには大型のスチール製シューズボックスが置かれていた。その中には沢山のスリッパ。よくあるビニール製で、色は青。
「この階は土足厳禁だからスリッパに履き替えて」
三条から言われた通りに革靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。三条は和也が履き替え終えたのを確認すると、無言で歩みを再開した。
廊下は左右どちらにも伸びているが、まず三条が向かったのは右側。職員用トイレやどこに通じているか分からない扉を通り過ぎた突き当りに茶色い木目の引き戸があった。引き戸は廊下の左右の壁両方にあり、引き戸に直接貼り付けてあるプラスチック板には、それぞれ『男湯』『女湯』と表記されていた。
三条が無言で『男湯』の引き戸を開ける。現れたのは広い脱衣所だった、想像よりもかなり立派だ。その光景に、和也は高校時代に修学旅行で宿泊した旅館を思い出した。
思えば家族以外の人達と一緒に入浴するのは修学旅行以来だ。だが修学旅行とは違い、これから一緒に入浴するのは友達でもクラスメイトでもなく、職場の人間。同僚や上司に自分の裸を見られることを考えると少々恥ずかしくなったが、仕方がない。
脱衣所の入り口でスリッパを脱いでシューズボックスに仕舞い、裸足で脱衣所に足を踏み入れる。床材は肌触りの良い木目でサラサラとして気持ちが良い。
「ここが脱衣所。使い方は言わなくても分かるよな? 風呂くらい行ったことあるだろ」
「はい。ありますけど……」
案内をする。と言われたが、本当に案内だけのようだ。説明をする気が全く感じられない。落胆する和也を他所に三条は脱衣所を突っ切り浴場へと向かった。和也は一切説明されなかった脱衣所をじっくりと眺めながら、その後に続く。
脱衣かごの入った棚が手前と奥に二台並んでいる。町の銭湯とは違い、扉は付いていなかった。鏡の付いた洗面台は五つあり、ドライヤーが所定の位置にこれも五つ置かれている。
「ここが浴室」
三条がそう言いながら、磨りガラスの引き戸を開けた。現れた浴室は、やはり和也の想像を超えた広さだった。思わず感嘆の声が漏れる。壁沿いに八つの洗い場が設置してあり、二十人は入れそうな大きな湯船が堂々と鎮座していた。
「広いですね」
「ターミナル駅は人数が多いからな」
和也は浴室に足を入れないよう、身を乗り出して初めて見る駅のお風呂を眺めた。湯船にお湯は張られていないが、この広い湯船に浸かったら相当気持ち良いだろうことは容易に想像できた。一日の疲れが吹っ飛んでしまいそうだ。
三条は夢中になっている和也をつまらなそうに見つめていたが、突然その左肩を掴み脱衣所に押し戻した。和也がよろけた隙に引き戸を素早く閉める。
「終わり。今は湯も張ってないし、見るところも無いだろ」
浴室の見学を強制的に終了され、和也は物足りなさに不満を零したくなったが、今は研修中の身である。指導担当の先輩に文句を垂れるなど、以ての外だ。
和也は入室時と逆の手順を踏み、脱衣所を後にした。
浴室の次に案内されたのは寝室。これはエレベーターを通り過ぎた先、つまり左側あった。廊下の左右に窓の無い無機質な扉がズラリと並んでいる様は、扉に番号が振られていることも相まってどこか独房のようだった。
「個人の部屋があるわけじゃないからな。どこで寝るかは毎回変わる」
三条が一つの扉の前で立ち止まり、説明した。
「部屋の番号は、どうやって決まるんですか?」
「寝る時に『島田助役』から渡されるプラ板に書いてある。それの裏に起床時間の書かれた紙が挿さっているから見とけ」
島田助役の名前を聞いて、和也は覚えたての駅職員の顔と名前を擦り合わせた。あの戎様のような顔と体型をした男性が島田助役だ。確か、退勤管理等を担当していたはず……。と挨拶をした日のことを思い出していたが、三条が仮眠室の扉を開ける音で現実に引き戻された。
壁のスイッチを押し、電灯を点ける。明かりに照らされて見えるようになった仮眠室は、六畳ほどの広さだった。仮眠室にあるのはベッドとサイドチェストだけ。まさに寝るだけの部屋といった内装だ。
そのベッドの脇に見慣れない黄緑色の箱が置かれていることに気付き、和也は三条に質問した。
「あの箱は何ですか?」
「あれは自動起床装置だ」
「自動……起床装置?」
聞き慣れない謎の装置に、和也の脳内でクエスチョンマークが点灯する。三条は自動起床装置の近くに歩み寄ると、ベッドの上に敷かれた布団を捲り上げ、下敷きとなっている黒色の袋を指差した。
「設定した時刻になると、これが膨らんで体を起こすようになってる」
「なるほど。それなら目覚まし時計よりも確実ですね」
「寝覚めは最悪だ」
「……なるほど」
寝覚めは最悪ということは、寝起きの三条は今以上に接しにくい存在なのだろうか? 明日の勤務はどうなってしまうのだろう……。と嫌な想像が一瞬のうちに脳内を駆け巡るが、とにかく起床後数時間は何を言われても堪えるしかないだろう。
その後、三条から起床装置の使用方法をレクチャーされ仮眠室の案内は終わった。三条が仮眠室の扉を閉めながら、和也に視線も向けず口を開く。
「じゃあ、これから改札入るからな」
その一言に、和也は激しい緊張を覚えた。これから初めて鉄道員の仕事をする。
座学で教えられた知識は何とか詰め込んだはずだが、間違って覚えていないだろうか? 慌ててしまい変なミスをしないだろうか? そのせいで三条に罵倒されたりしないだろうか?
様々な不安が頭の中を埋め尽くし思考をネガティブな方向に誘導しようとするが、和也は大きくしっかりとした返事を返すことで、それらの悪い思考を頭の片隅に押しやった。
「はい!」
和也は三条に先導され、初めて有人改札の中に入った。乗客の立場では絶対に見ることのできない景色だ。関係者になったという強い実感の湧く場所の一つだろう。
何より驚いたのは、改札機を通る乗客達の手元がハッキリ見えるのだ。一番手前は勿論、一番奥の改札機までハッキリと。
――これだと、不正などしようもないな。
きっと乗客達はこの事実を知らないだろう。そもそも自分だって知らなかったのだ。と、和也が有人改札からの景色に感心していると三条から最初の指示が飛んだ。
「復習だ。ここからUWJまでの行き方と運賃は?」
「はい。えっと……」
この問題は、座学の時間に嫌というほど出題された。
『ユニバーサル・ワンダー・ジャパン』、通称『UWJ』は大阪を代表するテーマパークで、桜島線の『ユニバーサルシティ駅』が最寄り駅となっている。鉄道に乗り慣れていない地方から来る乗客も多く、質問される回数が多いとのことだった。
「一番線の大阪環状線に乗って、三駅先の『
和也の説明に三条は黙って耳を傾けている。
「運賃は……百八十円です!」
説明が終わると、三条は小さく一度だけ頷いた。「まあ、合格かな」と呟くような声が聞こえ、和也はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、関西空港駅に行きたいって言われたら? 特急は使わないルートだ」
「えっ! えっと、確か……」
大阪駅から関西空港駅は、隣の『新大阪駅』から特急列車の『はるか』に乗車するのが一番手っ取り早い。旅行で荷物の多い状態なら尚更だ。だが、三条から付けられた条件は『特急不使用』。中には在来線で行きたい人もいるだろうから、ありえない質問ではない。
和也は猛勉強の末に覚えた路線を脳内に思い浮かべ、在来線のルートを探った。確か『関空快速』に乗って行けるはずだ。到着ホームは大阪環状線と同じ一番線で、途中までは同じ路線を走ったはず。
「一番線から関空快速に乗ると、関西空港駅に到着します」
「車両」
「え?」
「車両!」
三条の指摘していることの意味が分からず、和也の思考が一瞬停止した。だが直後、自分のしでかした恐ろしいミスに気付き全身が粟立った。
「一号車から四号車に乗ってもらうようにお伝えします! 後ろ四両は和歌山方面行きなので……」
そうだった! と和也は己の実力不足を痛感し、肩を落とした。
関空快速の正式名称は『関空・
関西空港駅に向かうのは、飛行機に乗る予定の人達が殆どだ。そんな状況で和歌山県に連れて来られたら発狂ものだろう。
三条はわざとらしく溜息をつくと、和也を睨みつけた。
「その案内で乗客が和歌山へ行ったら大クレームだ。大事な会議に遅れたから賠償しろ! なんて言われたら、面倒くさいことになるぞ」
「……はい」
三条の言う通りだ。何も言われなければ、乗車位置など気にしないのが普通だ。特に、普段乗りなれていない乗客ならば。
「乗客は、井上を見て新人だとは気づかない。言い訳なんて出来ないものと思え」
「……はい」
今のやり取りが本番だったらと想像すると気分が悪くなった。研修中は三条が訂正してくれるが独り立ちすれば止める人間はいなくなる。神田を始めとした上司から雷が落ちるのは確実だ。そうなれば当然昇進にも影響が出るだろう。
実際に乗客を相手にする前から叩きのめされ和也がすっかり傷心した時、若い観光客と思しき二人組の女性が駆け寄って来た。キャリーケースを引くガラガラという音が、改札周辺に響き渡る。
「すみません! UWJってどれに乗ればいいですか?」
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