第6話 秘密

 三条に再びため息をつかれた。本日三回目になる。初めての案内は間違いなく行えた。UWJへの行き方はしっかりと覚えていたし、直前に復習という名の抜き打ちテストもされていたから。

 ただ、『新快速』の停車駅は完全に覚えられていなかった。この新快速の停車駅絡みで二度の誤案内。三条がいなければクレームに発展していただろう。


 新快速は、NR関西が誇る列車種別で、京阪神地区を中心に活躍している。特急列車並みの速さを誇りながらも特急料金不要の普通列車として運用されているために、新快速が停車する駅は人気で土地や家賃が高い。

 そして、乗車人数も当然多かった。


「新快速は『西明石駅』に停まる。『加古川駅』にも停まる」


「……はい」


 三条の疲れ切ったような喋り方が、和也の心に突き刺さる。


「じゃあ、『芦屋』は?」


「停まります」


「『神戸』は?」


「停まります」


 三条から次々と出される停車駅の問題に、和也は必死に食らいつく。間違えたら本日三回目のミスになる……いや、抜き打ちテストも含めたら四回目だ。

 息が詰まり、冷や汗が溢れた。頭の中の路線図を懸命に辿る。


「『垂水たるみ』!」


「停ま……りません」


「『魚住うおずみ』!」


「停まりません」


「魚住に快速は?」


「快速……? 停まりません」


「停まるよ! いい加減にしろ!」


 駅務室内ではないため三条は声量を落としていたが、それでも和也は驚き両肩が震えた。これでミスは四回目。和也は、焦りから分からないと言えずに適当に答えてしまった自分が嫌になった。

 自己嫌悪感に押しつぶされそうになっている和也に、三条が本日四回目のため息を付きながら言った。


「お前さあ、本当に――」


 三条はそこで不意に言葉を止めた。そして、迷惑そうな表情を浮かべて背後を振り返る。かなり低い位置。まるで話の邪魔をした誰かがそこにいるかのように。

 一言、「ちょっと待ってろ」とだけ告げると、三条は駅務室へと戻って行った。


 今のは一体何だったのだろう。見えない何かが見えているような……。やはり、超能力が関係して――


 ――いや、駄目だ。仕事中だぞ。


 危うく物思いに耽りそうになり、和也は軽く咳払いをした。これ以上ミスは重ねたくない。

 それにしても、まだ研修中だというのに一人にされるとは……。知識の必要な難しい質問をされたら、どう対処すればよいだろうか。

 そんな悪い想像をして一気に気が重くなった時だった。


 駅務室から、何かが倒れる音と振動が伝わってきた。


 軽いものではない。音や振動から考えて固く重量のあるものだ。

 例えば、人間の体――


 背筋がゾクリとした。

 まさか、三条の身に何かがあったのだろうか。急病? いや、まさか……さっき三条が見ていたに襲われた?

 色々な考察が頭の中を駆け巡る。三条が心配だという気持ちと、何が起きたのか気になる好奇心が心のなかで入り交じった。


 ――有人改札を無人状態にして許されるのだろうか……。


 しかし、和也はその答えを出すよりも先に足を駅務室に向けて進めていた。




 駅務室の扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは床に倒れ伏した三条だった。苦痛に歪んだ表情で、腰の辺りを右手で擦っている。


「だ……大丈夫ですか?」


 和也は急いで床に倒れ込んでいる三条の手を取ろうとした。だが、三条は差し出された手を乱暴に振り払う。


「触るな」


 体を起こしながら吐き捨てるように呟き、スラックスの埃を払う。まだ腰が痛むのか、表情は芳しくない。


 その時、三条の背後の机に積まれていた書類が突然崩れた。

 誰も触れていない。自然に崩れるような高さでもない。まるで、『見えない何か』に落とされたかのよう。その『見えない何か』はそれに驚いたのか、近くのペットボトルやペン立てをなぎ倒しながら横並びの机を渡り歩く。


 異様な光景だった。しかし、恐怖は感じなかった。恐らくは、先程三条が見ていただ。

 和也は、過去に目撃した超能力との繋がりを確信させる光景に少なからず高揚感を覚えた。


「三条さん、あれ……何ですか?」


 和也の質問する『あれ』が何を指すのか三条は察しが付いているようで、不快そうに眉をひそめめた。

 そして面倒くさそうに「忘れろ」と告げると、足早に駅務室を出て行こうとする。和也は慌てて三条の腕を掴んだ。振り向いた不快感を隠そうともしないその顔を見つめる。


――聞くなら今しか無い。と思った。


「やっぱり……鉄道会社には秘密があるんですか?」


 三条が一瞬目を見開くのが分かった。動揺を隠すように唇を舐める。

 数十秒の沈黙の後、ゆっくりと唇が開き、震える息とともに言葉が紡がれた。


「……やっぱりって何だよ」


「僕……小さい頃に見たんですよ」


「見た? 一体何を――」


「三条!」


 三条の言葉に被せるように、声が飛んできた。思わず声の聞こえた方向に顔を向けると、ホームの立哨を終えた神田がペットボトル飲料の蓋を締めながらこっちを見つめていた。

 制帽の庇から覗く鋭い視線に射抜かれ、三条共々口を噤む。


 神田がペットボトル飲料を長谷川に預け、こちらに歩いて来た。コツリ。と靴音がなる度に動機が激しくなる。

 神田が和也達の正面に立った、自然と背筋が伸びる。喉がゴクリと鳴った。


「それ以上喋るな」


 有無を言わさぬ声だった。

 神田の視線は鋭さを増し、背の高さも相まって金縛りにあってしまったかのように動けなかった。心臓が暴れるように鼓動し、手のひらに大量に汗が滲んだ。

 神田が、押さえつけるような視線を三条に向ける。


「改札に戻れ、三条」


「はい……」


 三条は喉が詰まったようなか細い声で返事をすると、逃げるように改札窓口に通じる扉へと向かった。研修での姿とまるで違う。いくら三条でも助役には逆らえない。

 一人残され、何を言われるのかと戦々恐々とする和也に、神田が声をかける。


「井上、ちょっと来い」


 心臓が一際大きく跳ねた。脳内で、これから訪れる可能性のある展開の中でも特に最悪なものばかりが駆け巡る。しっかりとした返事をしようとしたが、緊張と恐怖から上手く声が出ない。結局、先程の三条と同じようなか細い返事しか出来なかった。


 和也は神田の後に続いて、駅務室の扉から無機質な廊下に出た。駅長室に続いていたものとは違う扉で、廊下の壁には何も掲示物が無い。

 廊下は、少し先で左に向かっている曲がり角があった。どこに続いているのだろうか。


「何を見たんだ?」


 神田は後ろ手に扉を閉めると、早速そう切り出した。


「小さい頃に、何を見た?」


「それは……」


 和也が言い淀んでいると、神田が細く息を吐きだしてから告げた。


「俺は別に怒っていないし、井上が話したことを馬鹿にするつもりもない」


 神田はそう言ってくれたが、和也の見た光景は余りにも現実離れしている。

 本当に馬鹿にしないでいてくれるだろうか? 本当に笑ったりしないでいてくれるだろうか?

 だが、先程見た光景も現実離れしていた。だからこそ三条に切り出したのだ。きっと過去に見た光景や先程見た光景は、鉄道員にとって決して


 ――話してみよう。


 和也は覚悟を決めた。そもそも、話さなければ帰してはくれないだろう。


「小学生の時の話です……。地元の駅で――」


 和也はあの日の驚きや高揚感を思い出しながら、神田に駅員の超能力について話し始めた。




 神田は話を聞き終えると、深く息を吐きながら腕を組んだ。笑いも馬鹿にもしなかったが、和也はどこか不安だった。黙り込んでいる神田の顔に、恐る恐る視線を向ける。

 神田は難しい表情をしていた。何かを迷っているような、そんな表情。

 そして小さく「そうか」と呟いた。


「可笑しな話でしょうか?」


「いいや」


 神田の答えに、一瞬息が止まった。

 否定した。つまり可笑しな話でも現実離れした話でもない……。ということは――


「神田助役も、何か不思議な力が使えるんですか?」


 和也の質問に神田は意味ありげな笑みを浮かべ、こう答えた。


「それは答えられない」


「……どうしてですか?」


「井上には、まだ早いからだ」


「まだ早い?」


「そう。まだ早い」


 まだ早い。神田はそう繰り返した。


「つまり、いつか自分にも使える日が来るということですか?」


「……どうだろうな」


 神田は相変わらずの笑みを湛えたまま言い、組んでいた腕をほどいた。


「とにかく、今はしっかりと仕事をすることだ。いずれ分かる」


 神田は、「もういいか?」と告げ、和也に背を向けた。まだ聞きたいことがあった和也は、慌てて神田を呼び止めた。

 神田は駅務室に通じる扉のノブに手を伸ばしかけていたが、その手を下ろして振り向いた。


「さっき駅務室に何かいましたよね? それも、まだ答えられない……ですか?」


 神田は少しの間を置いてから、小さく頷いた。


「そうだな。まだ早いな」


 そう言って扉のノブに手をかける。だが、何かを思い出したように「そうだ」と声を上げると、ノブに手を掛けたままの姿勢で再び振り返った。


「体調はどうだ? 何か変わったことは」


 また体調についての話だ。神田は着任初日も、体調が悪くなったら話すようにと言っていた。やはり、鉄道員の不思議な力に関係があるのだろうか。


「いえ、特に……。偏頭痛の頻度が上がったくらいですね」


「そうか。ありがとう」


 神田は扉を開け、駅務室へと戻って行った。


 和也は扉が閉まると同時にガッツポーズをした。声が出そうになるのを必死に抑える。

 ようやく辿り着いた。やはり自分が見た光景は決して見間違いなどではなかった。間違いなく、鉄道員は不思議な力が使える。そして、自分にもその可能性がある。

 興奮して動悸が激しくなる。体温も僅かに上昇しているように感じられた。

 和也は自分の両手に視線を向けた。初めて制服に袖を通した時と同じように、二三度握ったり開いたりを繰り返す。


 ――きっと、もうすぐだ。


 もうしばらく興奮に浸っていたいが、神田の言う通り今は仕事をしっかりしなければ。

 和也は「よし」と小さく声に出して喝を入れると改札業務に戻るため扉を開けた。



***



 終電後の見回りを終え、和也は駅務室に戻った。体は、昼の案内と深夜の酔客対応でクタクタだ。鉄道員の仕事は想像以上に肉体労働だ。

 酔客の漂わせる酒の臭い沢山を吸い込んだからか、妙に気分が悪い。

 早くお風呂に入って疲れを取りたい。和也は、ボロボロになった体を引きずるようにして島田の元へと向かった。


 助役室は四階にある。エレベータで四階に向かい、廊下の途中にあった『助役室』と書かれたプレートの付いた扉をノックする。

 すぐに、「はい、どうぞ」という島田の声がドア越しに聞こえてきた。


「井上です。入ります」


 そう告げてから、そっと扉を開ける。助役室は、駅長室より一回り程小さい部屋だった。事務机が六つ向かい合わせに置かれており、その内の三つは書類が積まれ物置と化していた。

 入り口から見て左側の壁には制帽掛けが取り付けられており、助役の制帽が一つだけ掛かっていた。恐らく島田の制帽だろう。神田と椿は、まだ外にいるらしい。

 和也は机でキーボードを叩く島田に歩み寄り、軽く会釈した。


「お疲れ様です。仮眠室の鍵を受け取りに来ました」


 島田は和也に顔を向けると、戎さんの様な笑みを浮かべ「お疲れ様」と労いの言葉を口にした。そして、事務机の一番上の引き出しを開けて何かを取り出した。


「はい。これが、今日の井上くんの部屋」


 そう言われ差し出されたのは、手のひらサイズのプラスチックの札。三条の言う通り、表には部屋番号が裏には起床時刻の書かれた紙が挿さっていた。

 和也の明日の起床時刻は、四時四十五分。こんな早朝に起きた経験は一度も無かった。


「時刻確認して、寝坊しないようにね」


「はい。お疲れさまでした、お休みなさい」


「はい。お休み」


 和也は島田に一礼すると部屋の出口へと向かった。会社の人間に「お休みなさい」と挨拶をするというのは、何だか新鮮だった。




 脱衣所には、それなりに人がいた。幼い頃に祖父母と行った公衆浴場を思わせるような光景に懐かしさを感じながら、空いている脱衣かごを探す。

 それにしても、深夜の駅でこのような光景が繰り広げられているとは不思議だな。と和也は思っていた。

 駅という存在は、一般的は『電車に乗るための場所』だ。和也自身もその認識だった。しかし、そんな駅にはお風呂もベッドもキッチンある。まるで家だ。

 今まで素通りしていた場所の地下では、沢山の人間が家族のように生活している。そのことが、どこか奇妙だった。


 和也は、自身の汗と酔客の酒の臭いで悪臭を漂わせるシャツを脱ぎ、脱衣かごに押し込んだ。


 お湯の張られた浴室は、案内された時とは別物だった。真っ白な湯気が辺りに立ち込め、体を温かい空気が包む。家の浴室では味わえない、贅沢な空間だ。

 和也は洗い場で全身の汚れを洗い落とし、豪華な湯船に足を踏み入れた。お湯の温度は丁度良い。その勢いのまま全身を浸け、肩までしっかりと温める。

 気持ち良い。全身に溜まった疲れがお湯に溶けていくのが分かる。思わず吐息が漏れた。

 周囲を見渡すと、仲の良い同僚同士で楽しげに話している人達や、一人で静かに疲れを取っている人達と様々だった。


 ――俺は、まだ仲の良い人はいないからな……。


 湯船の中に三条の姿は見えない。駅務室では姿を見かけたため、すでに入浴を終えているのだろう。

 静かにゆっくり入るのもいいかな。と湯気でぼやける天井を見上げた。




 和也は歯磨きとお手洗いを終え、指定された八番の仮眠室に入った。フラフラとした足取りでベッドに倒れ込み、深く息を吐く。

 湯船で落としきったはずの疲れが再び体の上に伸し掛かって来た。


 ――キツい。


 初めての泊まり勤務、感想はこの一言で足りる。

 明日も早い。きっと今日の疲れは完全には取り切れないだろう。明日のほうがもっとキツいはずだ。

 和也は眠りにつこうとする頭を動かし、自動起床装置を指示された通りにセットしてから布団に潜り込んだ。




 ――寝覚めは最悪だ。


 和也の朝は、三条の話していた言葉に同意することから始まった。誰かに叩き起こされる方が、まだマシだ。背中を強制的に持ち上げられるのは、どうも気持ちよく目覚められない。

 和也は、まだ完全に目覚めていない脳味噌を無理やり覚醒させ、仮眠室の壁に掛けていた制服を手に取った。



***



 和也は自宅のベッドに、仮眠室と変わらない姿勢で倒れ込んだ。仮眠明けの一番疲れの溜まっている状態で迎える通勤ラッシュは、想像を絶する地獄だった。

 もう、この体に動くことの出来る力は残っていない。


 ――明日は休みだ。しっかりと休んで体力を戻そう。


 和也は通勤着から部屋着に着替えることも無いままに、深い眠りに落ちていった。

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