第7話 立哨、酔客、痴話喧嘩

 改札業務は一ヶ月間続いた。休みの日や業務中の休憩時間等、時間があれば路線図や時刻表を睨み、頭に知識を叩き込んだ。

 その甲斐もあってか、初日に比べるとミスは大幅に減った。しかし、まだ知識の範囲外のことは多い。三条からの罵倒が飛ぶ度に、負けてたまるか。と意地になって知識を詰め込むことが日課になりつつあった。


 そんな時、改札業務の研修修了が言い渡された。次はホーム立哨の研修で、指導担当は神田。

 神田からはホームで合図を送る赤い旗、所謂『フライ』の使用法を教わった。

 最初に教わったのはフライ旗の持ち方だった。決して巻き付けて持っていけない。そう何度も強く言われた。


 フライ旗は、一般的には車掌にドア閉めの指示を送る際に使用される。その際は旗を絞ったまま頭上に上げることで指示を送るが、非常事態――人の転落や荷物挟まり等の事態に陥った際は車掌や運転士に向けて赤い布地を振る必要がある。

 なので素早く広げられるよう、布部分と持ち手の棒部分を一緒に握り込む独特な持ち方をしっかりと守らなければならない。持ち手に巻きつけていては、指を離しても布が広がらない。その数秒のロスで防げる事故も防げなくなる可能性があるのだ。


 和也は、神田から徹底的にその持ち方のレクチャーを受け、身につけた。

 神田は指導も親切で優しく、三条の元で勤務する改札業務を離れられたのは嬉しかった。

 だが、ホーム立哨も指導者が優しいだけで、現場は同レベルの地獄だった。

 十九時半の帰宅ラッシュ。大阪環状線の一、二番ホームは殺伐としていた。


***


「最低! もう二度と会わねえからな!」


 激昂した女性の声がホーム上に響く。会話内容を聞いている限りでは、交際相手の浮気が発覚した感じだろうか。

 通勤客で混雑したホームを人を掻き分けながら進む。すると、一組のカップルが見えてきた。女性が明るい茶髪を振り乱し、彼氏と思われる男性をハンドバッグで激しく叩きつけている。

 ハンドバッグには刺々しい装飾が幾つも付いている。あれで叩かれたら痛そうだ。


 そのカップルの周囲だけ避けるように人垣が割れており、駆け寄ってくる和也に対して通勤客らから、早く摘み出せ! と言いたげな視線が送られていた。


 和也と神田は乗客の一人から「カップルが殴り合いの喧嘩をしていた。迷惑だから止めて欲しい」と通報を受けた。てっきり和也は神田が担当するのかと思っていたのだが、神田は和也の肩を叩き「やってみろ」と一言。

 そのため、和也は一人きりでこの場に送り込まれていたのだった。


 ――殴り合いと聞いていたけど、どう見ても一方的だな……。


 和也はそう考えながら、ハンドバッグを振り回す女性の腕を掴み、刺激しないように気をつけながら声をかけた。


「落ち着いてください」


 和也に腕を捕まれて初めて駅員の接近に気がついた女性は、殺気立っていた目を女優のように素早く潤ませて和也に縋り付いた。


「駅員さん、聞いて! こいつ、私とのデート中に浮気相手と『LINEAリネア』してたの! 最低でしょ?」


 女性は和也の同情を惹こうとしているのか、甘えるような声と口調で話す。体から強い香水の臭いが振り撒かれ、和也は噎せ返りそうになった。

 LINEAとは日本で最も普及しているメッセージアプリの名称だ。それをデート中に、しかも浮気相手とのやり取りで使用するのは確かに最低な行為だが、今やるべきことは女性の恋人を責めることではない。


「ここだと他のお客さんの迷惑になりますから、移動しましょうよ」


 和也は、自分に突き刺さる物言わぬ視線に突き動かされるように、二人にそう提案した。一番線に入線して来る内回り列車の音にかき消されないよう、しっかりと声を出す。


「分かった。でも、駅員さんからも言って欲しいの! でないと、こいつ反省しねえから」


 興奮してか、段々と口調が戻りつつある。このままでは、再び乱闘が始まってしまう。和也が二人を駅務室に案内しようとした時だった。

 恋人の男性が、発車寸前の列車に向かって一目散に走り出した。だが、和也が気付いた時にはもう遅く、男性は閉まり始めたドアの隙間を職人技のようにすり抜けて乗車した。


「テメエ! ふざけんな!」


 女性の怒りが頂点に達した、物凄い力で和也の腕を振り払う。般若のように怒り狂い、走行し始めた車両にハンドバッグを投げつけようとしている。

 和也は慌てて再び腕を抑えた。万が一、車両や架線に損傷が起きたら非常事態となり抑止が掛かる。こんな通勤ラッシュの真っ只中で列車を止めたとなったら、遅れによる影響は計り知れない。ホームに人が溢れ、入場規制が出るだろう。


「離せ! おい、電車止めろよ! 止めろ!」


「駄目ですよ! そんなこと出来ません!」


 女性は暴れ回っており、和也の静止する声も聞こうとしない。本当は羽交い締めにして抑え込みたかったが、相手が女性のために出来なかった。この調子のまま、体を触られた! 等と騒がれたら止めようがない。

 だが、怒りに我を忘れている彼女を加減した力では抑えられなかった。女性は、再び腕を振り払い逃走を決める。和也は半分呆れながらも逃げ出した女性の後を追う。そして、女性の向かう先に『非常停止ボタン』があることに気づき、追いかける足を早めた。


 女性の腕を掴み、その歩みを止める。


「それは、緊急事態に押すものです! 今じゃありません!」


「どう考えても、今は緊急事態だろ! 止めるんだよ!」


 女性にとっては緊急事態らしいが、周りからしたら何てことの無い帰宅ラッシュだ。いつもより少々煩いが、こんな痴話喧嘩程度で列車を止められたら敵わない。


「いい加減に離せよ!」


 女性がハンドバッグを和也の顔に向かって振りかざした。和也は、ハンドバッグを持っている腕を掴めば良かった。と後悔したが、慌てていてそこまで判断する余裕は持ち合わせていなかった。

 鈍器としても使用できます。そう商品説明欄に書かれていても不思議ではないハンドバッグが和也の顔面に迫った時、その腕が勢いよく後ろに引かれた。


「ホームは騒ぐ場所ではありません」


 神田が女性の腕を強く掴みながら言った。


「離せよ! 痛い! 離せ!」


 女性は相変わらず吠えているが、神田の容赦ない力の入れ方と身長差のせいで、子供が暴れているようにしか見えない。


「神田助役、ありがとうございます」


「良く止めた。だが、出来れば揃えておいて欲しかったがな」


 神田は言葉の後半を苛立ち紛れに言うと、女性を掴んだまま引きずるようにして駅務室へ向って歩き出した。

 和也は「しばらくホームを頼む」という神田の言葉に「はい」と返事を返し、所定の位置に早足で戻った。




 環状線のホームを歩きながら、和也は先程の奇妙な現象を思い返していた。正面からハッキリと捉えた。見間違いではない。


 ――女性の腕が後ろに引かれた時、神田助役はまだ腕を掴んでいなかった。


 まるで女性の腕が、神田の手に引き寄せられるようだった。


 ――あの日の傘と同じだ。


 心臓が小さく跳ねる。神田に言われた「まだ早い」という言葉が脳内で反響した。



***



 痴話喧嘩騒動のお陰で、体には嫌な疲れが溜まっていた。そしてお約束のように酔客の世話。和也はまだ未成年だが、だらしの無い酔客の姿を見る度に「絶対に酒等飲むものか!」と強く決意してしまう。

 トイレの個室内や階段の裏側等、確認漏れが無いよう見回りを行い和也は足早に浴室に向かった。


 疲れが取れる温度に設定されているかのような適温の湯船に浸かり長く息を吐く。これが、仕事で一番癒される瞬間だった。

 和也が絶好の癒しを堪能していると、隣に誰かが入浴して来た。湯船に張られたお湯が大きく波打つ。


「お疲れ」


 声をかけられたため、和也は顔を向ける。入浴してきたのは神田だった。驚きつつも、「お疲れさまです!」と挨拶を返す。


「今日は大変だったな。でも飲み会の多いシーズンだと、あんなのは日常茶飯事だ。今のうちに慣れておけ」


「はい。頑張ります……」


 あのレベルが日常茶飯事とは……。地獄という言葉でも表現できない程の有様なのだろう。

 今までの酔客は酔って気分が良くなった人達ばかりだったが、それは運が良かっただけで迷惑客に変貌する人達が大多数だ。実際に、酔客に殴られた経験があると話す先輩も大勢いた。自分なりに適切な対処方法を探っていかないと。


「それと、今日の喧嘩の対応は七十点ってところだな。男の方もセットで連れて来るべきだった」


「はい。それは自分の不注意です。列車が入線した時点で警戒すべきでした」


 慣れた動作で駆け込み乗車を決め、まんまと逃走した男のことを思い出すと悔しくなる。何としても捕まえておきたかった……。


「だが、井上自身に被害が無かったことは満点だ。今回のような場合は、まず自分の身を守ることを優先しろ」


 意外だった。神田は如何にも鉄道員といった人物だ。「どんなことがあっても遅れを出すな」、そう言うと思っていた。

 和也は、神田に一つ質問をすることにした。


「……自分の身を優先すると、列車に遅れが発生してしまう。という場合はどう判断すればいいですか?」


 神田は天井を見上げて、息をついた。首筋の水滴が流れ、湯船に溶け込んだ。


「遅れさせればいい。それで何か言われたら、俺が守ってやる」


 和也は、天井を見つめたまま呟くように言った神田から目が離せなかった。年相応に皺の刻まれたその横顔に、一瞬影が差したような気がした。




 和也は毎日、『人々の日常』を守るために奔走した。

 通勤ラッシュの人波に忙殺され、時には喧嘩を止め、時には「ママだけが電車に乗って行った」と号泣する迷子を保護した。

 仕事内容は変わらない。だが、それは人々が日々を順調に送れている、和也が日常を守れているという証明だった。

 そのことに小さな達成感を感じていた頃、和也の日常は一変した。


 それは、ホーム立哨を始めてから二週間目の夜だった。


***


 ホーム立哨で使用するフライ旗は、夜間は暗く見えにくくなってしまう。そのため夜には『合図灯』を使用する。合図灯は、駅務室の棚に置かれた充電器にセットされた状態で収納されている。

 夜の立哨が始まる時間になり休憩を終えた和也は合図灯を取ろうと手を伸ばした。

 その瞬間、体が浮き上がるような感覚がし、平衡感覚が消失した。視界がぐるりと回転し、立っていられなくなる。


 ――倒れる!


 そう感じる同時に、意識を失った。




 ザワザワとした人の声で、和也の意識がゆっくりと浮上した。背中には、冷たく硬い床の感触。どうやら倒れてしまっているらしい。

 意識は戻っているが、頭がぼんやりとしているせいか目が開けられない。暗闇の中で声だけが聞こえた。


「来ましたか……。早いですね」


 ――早い? 何の話だろうか。


「私の時と同じ位だ。第一世代にしては、まあ……早いか」


 ――第一世代? 私の時? さっきから何の話をしているんだ。


 体がふわりと浮き上がる。誰かに抱え上げられたようだ。和也は懸命に瞼に力を込め、薄っすらとだけ目を開けることが出来た。瞳に写る景色はぼやけている。

 目の前にあったのは名札だった。見慣れた、制服に付けるプラスチック製の名札。だが、文字は読み取れない。

 ピントを合わせようと何度も繰り返していると、一瞬だけ文字をハッキリと捉えることが出来た。


『大阪駅 椿』


 瞼が重くなり、和也の視界は再び封じられた。


「さあ、これからが正念場ですよ。頑張りましょう」


 暗闇の中で、和也に語りかけるように囁く声が聞こえた。和也を抱えた人物は、ゆっくり歩き始めた。扉の開く音がする。


 ――どこに行くのだろう。正念場とは一体、何のこ……と……。


 和也は聞こえてきた言葉の意味について考えていたかったが、規則正しい振動と暗闇のせいで意識はゆっくりと飛散していった。

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