第8話 覚醒の日

 目を覚ますと、ベッドに寝かされていた。


 いつもの仮眠室ではなかったが、ここはどこだろう。と詮索する間もなく猛烈な吐き気が襲ってきた。両手で口を押さえながら周囲を見渡すと、サイドチェストにアルミ製の洗面器が置かれているのが見えた。それを両手で抱えるように持ち、激しく嘔吐する。その瞬間、体が熱を持つのを感じた。

 一度では収まらず、二度三度と続いた。苦しさと不安で、自然と涙が溢れる。


 就職三ヶ月目で体調を崩したことが恐ろしかった。それも就業中に。昇進に影響があるだろうか、それどこか解雇だろうか。

 嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。ストレスのせいか吐き気がぶり返しそうになり、和也は何か違うことを考えようと、記憶を掻き回した。


 ――そうだ。あの時の妙な話は一体……。


 『第一世代』というの謎の単語、和也の体調不良を予測していたような喋り方。あれは何だったのだろうか……。

 そのことについて考えた時、あることを思い出してハッとした。


 ――まさか、神田助役が頻りに体調について訪ねていたのは……。


 扉がノックされ、和也は肩を震わせた。説教が始まるだろうか。と再び悪い想像が膨らみ、吐き気がした。

 扉がゆっくりと開かれる。入って来たのは椿だった。新しい洗面器と水の入ったグラスを持っている。


「目が覚めましたか? よかったです」


 椿はそう笑顔で言いながら、こちらへ歩いて来た。ベッド脇に置かれていた丸椅子に腰掛け、和也の抱えていた嘔吐物入りの洗面器を新品と取り替える。

 新しい洗面器には濡れタオルが入っており、椿はそれを手に取ると和也の汚れた口元を丁寧に拭った。


「すみません……」


「口を濯がれたほうがいいですよ。気持ち悪いでしょう?」


 椿はそう言って、水の入ったグラスを差し出した。和也はグラスを受け取り、口の中を丁寧に濯ぐ。水は椿に差し出された古い洗面器に吐き出した。

 吐き出された水は、洗面器の中の吐瀉物に溶け込んだ。


「すみません……仕事中に倒れるなんて、鉄道員として体調管理が出来ていませんでした」


 和也はベッドに腰掛けたまま、椿に深々と頭を下げた。本当は立ち上がって謝罪をしたかったが、立ち上がると倒れてしまいそうだった。


「謝る必要はありませんよ」


 咎める様子の無い優しい声に、和也は驚いて顔を上げた。椿は、端正な顔に柔らかい笑みを浮かべている。


「これは誰もが通る道です。気にされている方は一人もいません」


「……どういうことですか?」


 和也は、「超能力と関係があるということですか?」と尋ねようかと思った。しかし、椿に自身が駅員の超能力を目撃した話はしていない。

 話すべきか迷っていると、椿が椅子から立ち上がった。


「汗をかかれているでしょう? 着替えを持ってきますよ。それに、制服だと眠りにくいでしょうし」


「そうですね。すみません、お願いします」


 和也は、椿に言われて初めて制服のまま寝ていたことに気づいた。椿は、「少し待っていてください」と告げて、使用済みの洗面器と濡れタオルを持って部屋を出て行った。


 扉が閉まり足音が遠ざかるのを聞きながら、和也はため息をついた。


 ――俺の体に、一体何が起こっているのだろうか。


 薄っすらと汗の滲んでいる手のひらを眺める。外見には何の変化も無いが、もしかすると見えない変化が起こっているかもしれない。

 試しに、サイドチェストに置かれたグラスに手のひらを翳してみた。


 ――動け!


 だが、グラスは微動だにしない。当然だ。和也は、僅かにも期待して試してしまった自分が恥ずかしくなり、再びため息をついた。

 吐き出された息は、先程よりも少し熱かった。



***



「……何℃でしたか?」


 和也は、難しい表情で体温計を見つめる椿に問いかけた。


「三十八・八℃です。体調は変わらずですか?」


 椿は、そう訪ねながら和也の額に手のひらを当てる。自身の体温が高いせいか椿の手はとても冷たく感じ、和也はその心地よい冷たさに身を委ねた。


「はい。頭痛は少し治まりましたけど、体は熱いです。熱があるので当然ですけど……」


 椿が額から手を離した。冷えた額に、一気に熱が戻り始める。


「体は起こせますか?」


「はい。それは、何とか」


 和也は椿の介抱を受けながら、上半身を起こした。椿は椅子に腰掛けると、サイドチェストに置いていた出来たてのお粥を和也に差し出した。


「どうぞ。食べられる分だけで構いませんよ」


 和也は、差し出された白色の陶器製の器を手に取った。中に入っている温かい卵粥が、無いはずの食欲を唆る。


 体温を測定する前、和也は椿にお腹の空き具合を尋ねられていた。「お腹は空いているが食欲は余り無い」と答えると、椿は「何かお腹に入れたほうが良い」言い食事を作りに行ってくれたのだった。


「頂きます」


 和也は手を合わせてからスプーンでお粥を掬い、息をかけて冷やしてから口に入れた。

 お粥の温かさが口内に充満すると同時に、出汁の良い香りが鼻を抜ける。ふわふわの溶き卵が舌の上を滑り、出汁でコーティングされた白米は驚くほど柔らかかった。

 正直、今まで食べたお粥の中でトップレベルの美味しさだった。余りの美味しさにスプーンを持つ手が止まった。


「……美味しい」


「本当ですか? 良かったです」


 椿の照れくさそうな声を聞きながら、二口目を運ぶ。食欲が無かった筈なのに、お粥を口に運ぶ手が止まらない。和也は無心になって食べ続け、見事に完食した。


「ご馳走様でした!」


 再び手を合わせ、満腹感を感じながら空になった器を見つめた。もう一杯食べたかったが、今は発熱しており体調は万全ではない。もし気分が悪くなり戻してしまったら勿体無い。

 和也は欲張りたい気持ちを抑え、器を椿に返した。


「椿助役、お料理上手ですね! こんなに美味しいお粥は初めてです」


「ありがとうございます。喜んでいただけて何よりです」


 椿は、完璧な黄金比で作られた顔に笑みを湛えた。和也は、その美しい顔立ちに見とれていたことに気付き、慌てて視線を逸らした。


 正直、テレビに出演している俳優なんかより、数十倍は格好良く美しいと思う。女性がすれ違っただけで黄色い声を上げるのも納得だ。むしろ、よくパニックにならずに済んでいるなと思う。

 だからこそ、和也はが気になった。


 勤務初日と同じ様に、視線を左手の薬指に向ける。


「椿助役は……ご結婚とか、されていますか?」


 気に触ったらどうしよう。と考えながら恐る恐る質問する。椿は、小さく笑ってから答えた。


「していませんよ」


 意外な答えだった。何故? という疑問符しか頭に浮かばない。和也は思考を放棄しようとしている頭を無理やり動かし、質問を続けた。


「でも、凄く……その、モテますよね?」


「ええ。女性は、私のことが好みのようですね」


 どこか他人事のような言い方だった。顔が優れている人間だからこその余裕なのだろうか。和也には理解できない感覚だった。


「ご結婚を考えられたことは……?」


「ありませんよ」


 椿は即答し、椅子から立ち上がった。和也は、そのスラリとした長身を眺める。


「私は結婚など出来ません。皆さんとは違いますから」


「それは、どういう意味――」


「寝てください」


 椿が、和也の言葉を遮って言った。その顔からは笑みが消えていた。初めて見る椿の真剣な表情。怒らせてしまっただろうか。


「すみません。プライベートなことに首を突っ込んでしまいました……」


 和也が謝罪すると、椿は再び笑みを戻した。


「別に怒ってはいません。気になさらないでください」


 椿は部屋の扉まで歩いて行くと、ドアノブを掴んだまま和也を振り向いた。


「しっかりと寝て休まないと、鉄道員になれませんよ」


 そう告げ、椿は扉を開けて退室した。


 ――鉄道員になれない。ってどういう意味だ……。


 和也は、しばらくその意味について考えたが、発熱で疲労が溜まっているせいかそのまま眠ってしまった。



***



 この部屋には時計が無かった。そして、窓も無い。和也は今が何時なのか、ここで寝始めてから何日経ったのかも分からずに過ごしていた。

 唯一、この部屋に現在の時刻のヒントを与えてくれるものが電車の走行音だった。絶え間なく音が聞こえる時はラッシュ、少なくなったらお昼頃、聞こえなくなったら終電だ。

 また、休んでいるこの部屋は、以前神田に呼び出された時に入った廊下の奥にある部屋だということが分かった。

 そして、『療養室』という名前がついているということも。


 和也の身の回りの世話は助役が中心となって行っており、世話に非常に慣れているように見えた。誰も、和也が体調を崩したことを一切咎めること無く、献身的に世話をしてくれた。そのことに感謝しながらも、どこか奇妙に感じつつ和也は日々を過ごした。

 体調はなかなか良くならず、和也は自身の鉄道員としての将来を案じながら眠りについた。



***



 和也は、誰かの話し声で目を覚ました。瞼を開きそうになったが、急いで力を込め閉じた状態を維持した。聞こえてきた会話が奇妙だったからだ。


 ――このまま寝ているふりをしていよう。


 目が覚めていることが分かれば、話を止めてしまう。この現状について何か情報が欲しい。和也は起きていることがバレないようにしながら、聞こえてくる会話に神経を集中した。


「神田さんは……流石にここまでの発熱はしていないですよね?」


 ――優しげな声色……多分、椿助役の声だ。


「していないな。三十八・八℃なんて発熱は記録上二番目に高い」


 ――椿助役が「神田さん」と呼んでいたから、この声は神田助役で確定だ。


 和也は息を潜め、聞き耳を立てることを続けた。


「二番目……? ああ、一番は『将臣まさおみくん』ですか」


「彼の発熱は、三十九・八℃だった。熱に浮かされて、息も絶え絶えだったと聞いている」


「そうですか……。やはりキツいみたいですね、『第四世代』は」


 ――また『世代』だ。一体、何の世代を指しているんだろう。それに、将臣って誰だろうか。


「……神田さん、井上くんのご両親は本当にですか?」


「だと聞いている。父親は普通の会社員、母親は保育士だ」


「そうですか。奇妙ですね」


 ――その会話の方が奇妙だ。それにしても、俺の両親が何に関係しているのだろう? 例の世代だろうか。


「とにかく、今あれこれ考えても仕方がない。シンシサマも分からないと仰っているんだ」


 ――シンシサマ? 誰だそれは。神田さんが敬語を使っていることを考えると、助役よりも上の立場か? でも、神田さんは『主席助役』だ。この役職の上には駅長しかいない。


「そうですね。今は待ちましょうか、『覚醒の日』を……」


 ――覚醒の日? 今までで一番奇妙な単語が出た。


 和也は全身がゾクリと粟立つのを感じた。震えた息が漏れ、起きていることがバレたかと思いヒヤリとした。


「そろそろ戻ろう。井上の睡眠の邪魔をしては悪い」


「ええ。ゆっくり休んで頂かないと困りますからね」


 本当は起きているんです。と心のなかで謝罪しながら、和也は扉が閉められる音がするのを待った。

 扉が閉まる音が聞こえ、和也はホッとして全身の力を抜いた。眠っているフリは成功した。お陰で新情報が満載だ。


 『第四世代』、『将臣くん』、『シンシサマ』、『覚醒の日』。気になったのはこの四つだ。特に覚醒の日。これは本当に意味が分からない。一体、俺の何が覚醒するというんだ。


 次に椿さんが来た時に問いただそう。そう思ったが、それでは起きていたことがバレてしまう。

 和也は、悶々とした感情を抱えたままになってしまうことに気づき、寝たフリ作戦の実行を少し後悔した。

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