第9話 薔薇の花びら

 体が熱かった。

 吐き気は治まらず、脳味噌が頭蓋骨の中で揺れているような浮遊感がずっと続いている。体調を崩してから何日経ったのか。そんなことも考えられないくらい疲弊していた。


 ――いつまで続くのだろうか……。


 閉じていた目を少しだけ開き、白い天井を見つめる。相変わらず天井はグルグルと回転していた。高校生の時に貧血を起こした際と同じ症状。

 じっと見ていると更に気分が悪くなりそうだ。と再び目を閉じようとした時、和也は激しい嘔吐感を覚えた。

 胃の内容物が急速に上昇してきている。急いでと洗面器へと向かおうとするが、怠さで体に力が入りにくく起き上がることも一苦労だった。うかうかしているうちに内容物が頂上に到達してしまう。

 何とか上昇の勢いを抑えようとするが、いままでの嘔吐感とは違う。時間に余裕が無い。


 和也は必死に体を起こし、サイドテーブルに置かれた洗面器を倒れ込むようにして掴み、口元を洗面器の真上に位置させた。

 これで大丈夫。そう一安心した瞬間、勢いが一気に増した。喉を抉じ開けるようにして、何度経験しても慣れない嫌な酸味のある液体が通って行く。

 背中を丸め、何度も激しく嘔吐する。嘔吐している最中は、吐き出される吐瀉物を見ないように目を瞑るのが和也の幼少期からの癖だった。

 ようやく嘔吐は止まった。吐き気は、随分と弱くなったものの未だ健在だ。

 細く息を吐き、そっと目を開ける。


 眼前に飛び込んできた光景に、和也は絶句した。洗面器の中には確かに吐瀉物が入っていた。しかし、その大部分を占めていたのは






 大量の






 真っ赤な






 薔薇の花びらだった。






 ――なんだこれは!


 その異様さに、思わず情けない声が漏れる。とにかく吐き気の弱まっているうちに報告しよう。明らかに普通じゃない。

 洗面器をサイドチェスト置き、駅務室に続く扉に向かって一歩踏み出した瞬間、弱まっていた吐き気がぶり返した。慌てて口を抑える。洗面器まで戻ろうかと思ったが歩いただけで戻してしまいそうだった。

 せり上がる胃袋に耐えきれずその場に膝を付く。だが、その僅かな衝撃でかろうじて吐くことを抑えていた我慢の糸が切れた。


 喉の奥に異物感を感じると同時に、それらは一気に口内へと侵入してきた。


「かっ……は……」


 口を閉じることが出来ない。喉からは絶え間なく花びらが溢れ、胃液と唾液で塗れた状態で口の真下で構えられた和也の手のひらの上に落ちる。


 ――一体、何が起きているんだ……。


 手のひらに乗り切らない花びらが、糸を引いて床の上へと零れ落ちた。


 ――どうして、こんなことに……。


 理解し得ない状況と苦痛から、和也の両目に涙が溢れる。拭うことも出来ず、涙は薔薇の花びらの山に溶け込んだ。


 ――俺は薔薇の花なんて一度も……。


 ふと、紅茶の香りがした。


 その瞬間、和也の脳裏に白い詰め襟を着た人物が突然浮かんだ。まるで、ずっと思い出せなかった記憶を取り戻したかのように、突然。


「その花は持って帰っても構わないよ。摘んでしまったのは君が初めてだ」


 落ち着いていて品のある、歳をとった男性の声。微笑みながら話している。


 ――そうだ、あの時……。


 あの時、自分が手に持っていたのは……そこで摘み取ってしまったのは……白い花びらに鮮やかな紫色の雄しべのある――


 ――花!


「その花は大切に持っているんだよ。それは私の――」


 頭が割れるような激しい頭痛に襲われ、和也は意識を失った。

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