クレマチスの動輪

ポエム

第1話 超能力

「いい? 和也。切符は、絶対に落としたら駄目よ!」


「分かってるよ。お母さん」


 『井上和也』は、そう溜息混じりに言った。白い息が二月の寒空に吐き出され一瞬のうちに消えていく。


 母は心配性過ぎる。と和也は感じていた。この忠告はもう三度目であり、いい加減聞き飽きた。これから遊びに行く祖父母の家は、ここから二十分程の場所にある。一度だけ乗り換えをするが、それも向かいのホームであり小学一年生の自分でも迷わずに辿り着けるルートだ。


「一人でも大丈夫だよ。何度もお母さんと乗ったもん」


「本当に? 分からなくなったら駅員さんに聞くのよ」


 母の心配の余りに死んでしまいそうな表情を見ていると、乗るのを止めてしまおうかという気分になるが、一度決めたことはやり遂げたい性格だった。


「切符は落とさないし、分からなくなったらちゃんと聞くよ。行って来ます」


 早口で捲し立てるように言うと、和也は母に背を向けてホームに繋がる下り階段へと足早に向かった。


「気を付けてね」


 母の身を案じる言葉が少し遠く聞こえたが、振り返ることなく黙々と階段を登る。しかし、もう少しでホームという場所で歩みに力が無くなった。残された段数はあと三段。

 先程まで溢れていた自信が弱まっているのだ。常に一緒にいた母と離れたことで一気に不安が顔を出し、何か間違っているのではないか? という根拠のない強い不安が心の中で急速に広がり始めている。


 無事にたどり着けるだろうか……? 切符を無くしたりしないだろうか……? 挑戦の邪魔をするそんな弱気な考えばかりが頭に浮かび、反射的に後ろの母を振り返りそうになったが幼いながらも芽生えていたプライドがそれを許さなかった。


 ――必ずやり遂げてみせる!


 和也は気持ちを奮い立たせて止まりかけていた足を動かすと、一歩二歩と階段を降りた。




 ホームに電車は停車していなかった。母と話している間に発車してしまったのだろうか。天井から吊り下がる小さな発車表示版を見上げ次の電車を確認する。


「次は十時十五分……」


 独り言のように呟いた後、左腕に嵌めている腕時計に目を落とした。母に買ってもらったばかりの新幹線の腕時計。

 現在の時刻は、十時丁度。


 ――大丈夫。きっと辿り着ける。


 再び顔を見せかけた不安を、自身にそう語りかけることで押さえ込んだ。今日は腕時計だけでなくお気に入りのリュックサックまで背負っている。気分が下がる理由など考えられない格好だ。この挑戦だって成功するに決まっている。


 ――電車が来るまで座っていよう。


 和也はホームのベンチに向かうと、すっかり色褪せたプラスチック製のベンチに腰を下ろした。その姿勢のまま二面三線の広いホームをゆっくりと見渡す。電車が発車したばかりのせいか、ホームには人の姿がなかった。いや、もしかすると田舎だからかもしれない。側にやって来るのは鳩ばかり。首を揺らしながらふらふらと歩き回る鳩を眺めながら、電車を待つ。


 五分ほど経過しただろうか。ふらついていた鳩も何処かへと去って行き、和也はぼんやりと向かいのホームを眺めていた。相変わらず人は来ず、鳥の鳴き声だけが響いている。やはり田舎だ。


 欠伸を噛み締めていると向かいのホームに駅員が現れた。黒い制服を着た男性で比較的若いように感じられるが、真正面ではないため顔までは分からない。恐らく向こうからも和也はよく見えていないだろうと思われた。

 駅員はホーム先端に立つと、左右を確認してから線路を覗き込んだ。その姿勢のまま手を伸ばす。遠目のためよく見えないが手を伸ばした先にあるのは恐らく傘だ。


 ――あれじゃあ、届かないに決まってるよ。


 和也は内心、どこか馬鹿にしたように拾おうとする駅員を見ていた。

 だが次の瞬間、度肝を抜かれた。真下にあった傘が、ゆっくりと浮き上がり始めたのだ。


 ――何で? どうして?


 想定外の光景に和也は思わずベンチから立ち上がった。すぐそこで起きている摩訶不思議な現象に目を凝らす。

 傘は止まることなく浮上を続け、やがて駅員の手の中に収まった。を終えた駅員は何事もなかったかのように体を起こし、階段を上ってホームから去って行った。


 理解の範疇を超えた出来事を目の当たりにして、和也は動くことができなくなっていた。手足の動かし方を忘れてしまったかのように立ちすくんでいたが、防寒具に覆われていない首筋を北風に冷やされたことで我に返った。


 ――きっと、あれは超能力だ!


 一気に激しい興奮が全身を駆け巡る。とっさに和也の脳裏に浮かんだのは小学校の図書館で読んだ超能力の本だった。物を触れずに動かしたり瞬間移動したりする力は本当に存在した! その事実に堪らなく心が踊った。


 興奮を押さえきれない和也の目の前に、乗車する電車が入線する。冷たい風が巻き起こされたが、不思議と先程のような冷たさは感じなかった。乗車して席に座っても、どこか違う世界にいるような気分は変わらない。

 いつもなら祖父母と何をして遊ぼうかと考えるのだが、今日はそんなことを考える余裕などなかった。未だに心臓がドクドクと激しく鳴り、流れる景色を楽しむ余裕すら無い。


 ――隠しているだけで、超能力を使える人は沢山存在するのではないだろうか?


 ふと、そのような考えが浮かんだ。思わず車内を見渡す。本を読んでいる男性、楽しそうに話をしている老夫婦、赤ちゃんを抱いた若い女性。何も変わったところなどないように見えるが、人の見ていないところでは超能力を使っているのかもしれない。

 和也は自らの小さな手のひらを眺めた。


 ――自分も、いつか超能力に目覚めることは出来るだろうか?


 もし目覚めることが出来たら何をしようか……? 力を得た自分を想像しながら車窓を眺める。


 当然、和也は祖父母の家に到着して直ぐにその話をしたのだが、祖父母は面白半分に聞いていただけで信じてはくれなかった。

 再び超能力を使う場面に遭遇できないかと思いながら日々を過ごしたが、家から駅までは車が必要な距離であり、次第にその出来事自体を忘れてしまった。


 思い出したのは、高校三年生の就職活動の最中だった。

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