第31話 神について

 十六畳あまりの自宅リビングには、オーブンレンジから発せられるジリジリという音が響いていた。乃々華はその音をBGMに、食卓テーブルに広げられた夏休みの課題を進めていく。

 キッチンに立っているのは椿だ。懸命に課題に励む乃々華のために何かお菓子を作ってくれるらしい。乃々華は仄かに漂ってきた甘い香りに口元をほころばせた。

 クッキーだろうか? マフィンだろうか? などと考えながら、右手に持つ筆記用具を握り直して苦手な小論文の課題に向き直る。とは言っても、原稿用紙と向かい合ってから既に二十分近く経過しているが全く筆が進んでいない。書かれているのはタイトルだけだ。


 乃々華の通学する高校では毎年、夏休みの課題の中に小論文が入っている。テーマは学校側が決定し、前年度は『学問について』だったのだが、今年度は『神について』。高校生に書かせる論文にしては些か哲学的すぎるのでは? と乃々華はと思う。

 陸田家は無宗教であり周囲にも神を信仰している人間はいないが、乃々華には幼少期から意識し続けている一柱の神がいた。


 その神を初めて知ったのは、四歳の時。まだ生きていた母に読んでもらった絵本に登場した。その絵本は『両親を失った恵まれない女の子のもとに一柱の神様が現れ、女の子のお世話をしてくれる』というストーリーで、最後は女の子が伴侶と出会って幸せを手にし、役目を終えた神様は消えてしまう。救いはあるものの少し切ない話で、当時の乃々華はそれ程好きではなかった。


 母が死に、乃々華は寂しさを紛らわせるために絵本を読み漁った。物心ついた時から母と共に身の回りの世話をしてくれていた家政婦さんは居たが、やはり母の穴は埋められない。父は当時まだ駅長ではなく泊まり勤務を伴っていたため、夕食や就寝は家政婦さんと行っていた。

 読み漁る本の中には『例の神』が登場する絵本もあった。母の存命中には特に好きでもなかった神を求めるようになり、次第にその絵本ばかりを読むようになった。小学校の高学年頃には母を失った寂しさにも慣れ、絵本はクローゼットの奥に仕舞われることになったが、二年前の家政婦さんの退職に伴い再び絵本を引っ張り出すことになった。

 十年以上に渡って世話をしてくれていた彼女だが、実母の介護のため退職を余儀なくされた。母の時と似た喪失感が乃々華を救いのある甘い絵本の世界へと誘う。いつになったら神様はやって来るのか。と、年甲斐もなく幼児のような幻想を抱きながら眠りに落ちることを繰り返した。


 そんな生活を一年程続けた頃、唐突に椿がやって来た。父に連れられ、どこか不安げな表情で自宅玄関に立っていたのを覚えている。父は椿を連れてきた理由を多くは語らなかったが、乃々華は特に不信感を覚えなかった。父が信頼していたということもあるが、何より椿の姿に待ち焦がれていた『神』を見たのだ。

 ようやく来てくれた! と、危険な宗教に傾倒する信者のように見ず知らずの男性である椿を受け入れた。何事も器用にこなす椿の才能に触れ、ますます絵本の神と重ねた。


 乃々華は椿に対する感情を誰にも打ち明けたことはない。勿論、父にもだ。この年にもなって絵本と現実を混合している危ない人間だと思われたくない。自らの幼稚さは自分自身が一番分かっている。


「小論文は順調ですか?」


 椿から突然問いかけられ、過去に飛ばしていた意識を引きずり戻す。こちらを覗き込む椿の顔がすぐ側まで迫っており、乃々華は椅子から立ち上がってしまいそうな程驚いた。体を逸らし、椿から出来るだけ距離を取る。腰掛けている食卓の椅子が、ガタガタと喧しい音を立てた。


「驚かせてしまいましたね。失礼致しました」


 椿は顔に僅かな笑みを湛えたままキッチンへと踵を返した。身につけているデニム地のエプロンがひらりと揺れる。「反応が無いので寝ているのかと思いました」と付け加えられた言葉の途中でキッチンの蛇口が開けられたのか流水音が響いた。


「寝てなんていません! 内容を考えていたの」


 原稿用紙に顔を戻しながら反論する。その間も乃々華の心臓はパニックを起こしたように大暴れし、顔が強い熱を持っていた。思考を覗かれていたらどうしよう。との現実的にあり得ない不安が顔を覗かせるのは、椿のミステリアスさ故だろうか。

 椿は異様なまでの秘密主義だ。子供時代を尋ねても『大阪市都島みやこじま区で生まれた』としか教えてはくれず、両親の話やどのような子供だったか等の一切を語ってはくれない。教えてほしいという気持ちは強いのだが、何も分からないという神秘性が椿をより神たらしめており、乃々華は複雑な感情を抱いていた。

 一向に落ち着かない心臓の鼓動を聞きながら、原稿用紙に唯一書かれているタイトル文字に視線を向ける。


 『私にとっての神とは』


「……椿さんって、本当は神様なの?」


 原稿用紙に目を落としたまま、背後のカウンターキッチンで作業をする椿に問いかける。間髪入れずにシンクに調理器具を落とす音が鳴り響いた。大きな音に驚いてとっさに振り向くと、椿がシンクから金属製のボウルを拾い上げているのが見えた。俯いていて表情は見えないが、驚かせてしまったのは間違いない。


「ごめんなさい。急に変なことを聞いたりして……」


 椿は拾い上げたボウルをスポンジで洗いながら「大丈夫ですよ」と、いつもの優しげな口調で答える。ボウルに付いた洗剤の泡を洗い流してから椿は顔を上げた。その表情に嫌悪感や怒りの感情は現れてはいないが、強い戸惑いが見て取れた。


「一体、どうなさったのですか?」


 不思議そうに問いかけられ、乃々華は「神様について考えていた」と弁解した。間違ってはいないが正しいとも言えない。変な質問をするべきではなかった。と後悔が滲み始め、椿から視線が逸れる。

 机に向かい直そうとした時、足音が聞こえた。椿が背中のエプロンの結び目を解きながら歩み寄って来る。人形が歩いてきたのかと勘違いする程の美しさ、目を奪われたのは一度や二度ではない。


「神を一体どのように解釈すれば私が出てくるのですか?」


「それは……」


「それは?」


 椿がエプロンを脱ぎ、食卓に片手をつく姿勢で乃々華を見下ろした。白い腕に走る筋肉の筋が目に入り、乃々華の全身が熱を持つ。

 回答を急かされているような空気を感じ、乃々華は話すつもりなどなかった『絵本の神』の話を椿に打ち明けた。


 話を聞き終えた椿は、暫し沈黙の後に珍しく肩を震わせて笑い出した。口元に片手を運び「ククク……」と笑い声を漏らし、両目を細める。


「随分とロマンチストですね」


 乃々華は、椿の言葉に僅かながら自身を莫迦にする感情が含まれていることを感じ取った。何か反論をしたいところではあるが、ロマンチストであることは事実だ。間違っていないことに対してどんな反論が出来るというのか。


「お願い椿さん! 今の話は誰にも言わないで! お父さんにもよ、恥ずかしいから」


 乃々華が懇願し終えるのを待っていたかのように、オーブンレンジが電子音を鳴らして指定された時間が経過したことを伝えてきた。椿はその音に反応してキッチンにけ目を向けたが、すぐに乃々華へと視線を戻す。体を起こして軽く息をついた後、薄く官能的な唇の両端を持ち上げる。


「言いませんよ。私は秘密主義ですから」


 乃々華は、その発言に自身を誂うような意図があるように感じ急激に不安が大きくなった。確かに椿は『超』が付く秘密主義だが、今の話は椿自身に関わることではない。ただの同居人の恥ずかしい話だ。


「本当に言わないでいてくれる?」


 不安を解消するためにキッチンに向かう椿に向かって問いかけたが、当の椿はどこ吹く風で乃々華を見ようともしない。オーブンレンジの扉を開け「良い色です」と嬉しそうに独り言を零すのみだ。


「ねえ、話を聞いて! 椿さん!」


「聞いていますよ。ところで、その小論文に私のことを書くつもりではないですよね?」


「そんなわけがないでしょう! そんなことを書いたらクラス中から笑いものにされるわ」

 

 『私の家には絵本の神様が住んでいます』など、間違っても書けるわけがない。確実に変人としての扱いを卒業まで受けることになるだろう。それに、乃々華は椿の存在を友人や教師に話したことはない。父に口止めされているという理由が大きいが、この顔をクラスメイトに知られるわけにはいかないのだ。乃々華の高校は、中高一貫の女子校である。そのような環境に椿の情報を持ち込んだらどうなるか……想像もしたくない。


 真面目に取り合ってくれない椿に背を向け、今度こそ本文を! と原稿用紙に向き直るが、やはり良いアイディアは浮かばない。明日、近くの図書館にでも行って神話関係の本でも漁ろうか。と両手で頬杖を付いてぼんやりと考えた時、キッチンから強いチョコレートの香りが漂ってきた。振り向いた乃々華は、視界に飛び込んできた菓子に唖然とした。何も言葉を発せないまま椿の手によってテーブルに運ばれる菓子を目で追いかける。

 がテーブルの上に乗せられ、漸く乃々華は反応を返すことが出来た。


「ちょっと、椿さん! これ……」


 椿が焼いていたのは、直径が二十センチ程はありそうな大きなシフォンケーキだったようだ。チョコレートが練り込まれた茶色の生地の上に、更に濃厚なチョコレートソースがかけられている。甘いものが苦手な人間が見たら即座に気分が悪くなるであろうレベルの追いチョコレートだ。

 お菓子を作ってくれるのは非常に有り難いが、明らかに大きすぎる。どう見ても一人前ではない。これを一人で食べようものなら、今日一日――いや、明日の摂取カロリーすらオーバーしてしまうだろう。

 悶々と眼前のシフォンケーキを睨んでいると、椿が乃々華とシフォンケーキの間に白色の小皿を置き、フォークを差し出した。


「ご心配なく。私も食べますから」


 椿は嬉しそうな表情を浮かべたまま、乃々華の正面に着席した。「いただきます」と手を合わせ、ケーキナイフで美しい円形に焼かれたシフォンケーキを分断していく。乃々華もつられるようにフォークを持ち、一人分にカットされたシフォンケーキを小皿に運んだ。「美味しく出来ていますよ」という椿の声を聞きながら、フォークで一口サイズに崩し口に運ぶ。

 口に入れた瞬間に濃いカカオの香りが充満し、後から強い甘味が追いかけてくる。まさに甘味の暴力だ。普段なら食べ続けることが厳しいだろうが、課題で脳を疲弊させた今は丁度よい具合だった。


「美味しい」


「それは良かったです。少しでも心の休息になればいいのですが」


 椿も乃々華に続いて二口目を運ぶ。出来の良さを再確認するように数回小さく頷き、すぐさま三口目をフォークで切り出し始めた。

 この甘さを立て続けに口に入れられる椿は流石だな。と乃々華はシフォンケーキを口内で小さく噛み砕きながら思った。椿が甘党であることは知っているが、やはり『本物』だなと眼前の光景を眺めながら再認識する。

 中でも、椿はとりわけチョコレートが好きなようだ。だが、その理由を尋ねたことはない。聞きたくはあるのだが、きっと教えてはくれないだろう。という諦めの気持ちが先行してしまうのだ。

 何故なら、椿は秘密主義なのだから。

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