第32話 大阪環状線、大阪駅にて――

 和也は、欠伸を噛み締めながら更衣室の扉を開けた。「おはようございます」と挨拶をしながら目隠しの衝立から室内を覗き込むが、着替え中の者は誰も居なかった。

 自身に割り当てられたロッカーへと足を進め、ビジネスバックからロッカーの鍵を取り出す。戸を開けてハンガーに掛かった制服へ手を伸ばすが、手に取るだけの力が湧かず、目線が足元へと落ちた。


 ――実際の顔合わせの時、鉄輪さんに何と言われるだろうか……。


 あの後、和也はまっすぐ帰宅し、結局空中回廊に行くことは出来ず京都駅の中も殆ど歩くことが出来なかった。何故逃げたりしてしまったんだ。と後悔の気持ちを引き摺りながら自宅まで歩き、波のように一定間隔で襲って来る激しい羞恥心に悶えさせられながらも、なんとか眠りにつくことが出来た。

 しかし、睡眠時間は普段と比べてかなり削れてしまった。おかけで今も眠くて仕方がない。少しでも気を抜けば心地良い眠りの世界へと誘われそうだ。

 和也はぼんやりと思い頭を振り、目頭を強く抑えて眠気を飛ばすと、制服を取り出して着替えを開始した。


 ワイシャツのボタンを留め、スラックスのベルトを締める。三色あるネクタイの内、今日はどの色にしようと数秒考えて和也は青色を選んだ。

 運転士や車掌の属する乗務区では乗務区毎に週替わりで色を指定しているようだが、駅ではそのようなことはなく個人の自由である。


 鏡を見ながらネクタイのずれを手直ししていると、更衣室の扉から開いた。顔を向けた先に現れた三条と視線が交差する。


「おはようございます!」


「……おはよう」


 三条は相変わらず素っ気ない挨拶を返すと、黙ってロッカーを開けた。そのまま和也に目もくれず着替え始めるのかと思いきや、脱いだ黒色のシャツをロッカーに放り込みながら和也にチラリと目を向けた。


「しけた顔してんな」


「え?」


 突然の言葉に返答が出来ず、只固まってしまった。だが、三条は呆然とする和也を莫迦にすることなく淡々と言葉を紡ぐ。


「とうとう仕事が嫌になったか?」


「そんなことありませんよ! どうして、そう思うんですか?」


 三条に問いかけるが、彼は何も答えず再び無言で着替えを再開してしまった。脱いだチノパンをベルトを付けたままロッカーに突っ込み、引っ張り出した制服ワイシャツの袖に腕を通していく。


 和也は、何が言いたかったのだろう。と小さな不満を抱えたままロッカーの戸を閉め、更衣室を出ようと一歩踏み出した。


「お前って、見かけによらずタフだよな」


 突然、三条から褒め言葉を投げられ、思わず足が止まった。先程同様「え?」と気の抜けた返事が漏れ出したが、三条はやはりその間抜け声にも反応せず黙々と鉄道員への変身を続けていた。


「……褒めて頂き、ありがとうございます」


 和也が述べた感謝の意にも興味がないのか、三条は返事を返さない。いや、もしかしたら照れくさいのかも知れない。

 気難しい先輩から認められたという嬉しさはあるが、小恥ずかしさも入り混じった妙な気持ちだ。和也は笑ってしまいそうな気持ちを抑え、「お先に失礼します」と告げて更衣室を後にした。



***



 和也の今日の仕事はホーム立哨がメインだ。最初の立哨場所は五番ホーム。エスカレータで持ち場へと向かい、これから仕事明けを迎える先輩駅員と交代する。フライ旗とアナウンス用のマイクを受け取ると、和也は足を肩幅に開いてゆっくりと深呼吸をした。いつ緊急事態が発生するか分からないホーム立哨では、集中力が不可欠である。

 自動放送が流れ、列車がホームへと入線して来た。マイクのスイッチを入れ、すっかり手慣れたアナウンスを行う。


「この電車は、新快速『播州赤穂ばんしゅうあこう』行きです。停まります駅は『尼崎』『芦屋』『三宮』『神戸』――」


 アナウンスを行いながらも、ホームの端を歩く危険な乗客がいないか目配せする。

 乗客からはベテラン鉄道員と何ら変わらないように見えるだろうが、アナウンス中に突然質問されたりすると答えを返すことに時間が掛かってしまう。素早く頭を切り替えられないのだ。ここが、新人とベテランの大きな違いだろうか。と和也は思う。


 列車に列をなしていた乗客が続々と乗り込むのを見ながら、腕時計で停車時間を測る。この新快速は二分停車。現在一分経過……残り三十秒……十秒……。

 頭の中で残りの十秒を数えながら、ホームの様子を見る。駆け込みそうな乗客は居ないか、車内からはみ出ている荷物はないか。


 三……二……一……。十秒が経過し、和也は左手に持ったフライ旗を高く掲げた。戸締めよし! の合図。

 間もなく車掌によって扉が閉められ、ヒューというブレーキを緩解かんかいする音の後に列車はゆっくりと動き出した。和也は列車がホームから完全に離れるまでホームの監視を続ける。走行中の列車に近づく乗客がいるかもしれないからだ。

 幸いにもそのような危険な行動は見られず、ホームを抜けた列車のテールランプを一瞥した後、左右のホームと線路、そして架線の三つに異常が無いことを視認した。それが済めば素早く下り線のホームへ移る。休憩時間が来るまでは、まともに休む時間すらありはしない。だが、それも仕方がないと割り切っている。鉄道は止まらないのだから。


 一時間の休憩時間に昼食を食べ、和也は再び立哨業務に舞い戻った。空腹だった胃袋を駅ナカコンビニのヒレカツ弁当で膨らませ、万全の体制である。

 次の立哨場所は大阪環状線の発着する一、二番線。昼過ぎではあるものの、やはり人が多い。鉄道は通勤通学のための物ではなく、人々のさりげない日常も支えているのだと実感させられる風景だ。

 エスカレータを降りてから少しばかりホームを歩き、立哨の際の定位置に向かう。ホームの丁度中央で、列車の先頭から最後尾までしっかりと見ることが出来る場所だ。

 これから休憩時間を迎える先輩と、素早く交代を済ませる。


 一番線で一本、二番線で一本列車を発車させ、再び一番線へと戻る。和也の立ち位置に最も近い整列位置に、スーツケースを携え可愛く着飾った三人の女性達が並ぶ。UWJへ向かうのだろうか、友人達と嬉しそうに談笑している。楽しそうな彼女達に羨ましさを覚えながら、列車の進入方向に体を向けて到着を待つ。その和也の耳に、スピーカーからの自動放送が届いた。


《間もなく、一番のりばから、十二時四十三分発、大和路快速、奈良方面、加茂行が、八両で参ります。危ないですから――》


 マイクを口元に運び、列車種別や停車駅などの放送を始めようかとした時だった。

 和也の足元を、大型の蠢穢が猛スピードで走り抜けて行った。その後ろを中型、そして小型の蠢穢が追いかける。明らかに様子がおかしい。蠢穢の進行方向はホームの最後尾なのだが、特に異常は見当たらない。


 ――また、昨日のような疵泥の塊が落ちていたのだろうか?


 と考えながら再度放送を始めようとした瞬間、最後尾に出来ていた列の陰から何かが現れた。

 その姿に、和也は目を見張った。


 それは、全身からおびたたしい量の疵泥を分泌する一人の乗客だった。疵泥にコーティングされているかのような姿で性別や体格すら分からず、負の感情の塊がホームに立っているという酷く寒気のする光景だった。無数の蠢穢が絶えず垂れ流される質の良い疵泥を求めて蠅のように群がっている。

 あの乗客が何を考えているのか、これから何をしようとしているのか。言われなくても分かる。

 投身自殺だ。


 ――まずい!


 和也は即座に駆け出した。整列する周囲の乗客かの奇妙な眼差しが突き刺さる。疵泥にまみれている件の乗客は周囲に比べて僅かに線路寄りに立っているが、一般人の目から見れば特におかしな点も見られないだろう。乗客達は皆、異常に気が付きようがないのだ。


 《電車が参ります。ご注意ください》


 自動放送が終了し、接近メロディが鳴り始めた。間に合わない!

 和也は、柱に設置されている非常停止ボタンを強く押し込んだ。耳をつんざくような激しいブザー音がホーム全体に鳴り響く。直後にけたたましいブレーキ音と警笛、そして――


 鈍い衝突音と乗客達の悲鳴が連続した。


 ――間に合わなかった……。


 助けられなかった罪悪感と、乗客のざわめきが和也を焦らせる。何より初めての人身事故に体が強張り、息をするのがやっとだった。人々の賑やかな声に包まれていたホーム上は一変し、急ブレーキの摩擦によって発生した鉄の焼けるような臭いが辺りに充満している。

 列車はホームの中程まで入線した状態で停止していた。短急たんきゅう汽笛が五回、長緩ちょうかん汽笛が一回鳴らされる。その汽笛合図は『緊急事態の発生』を意味するものだと、和也は研修で習ったことを思い出した。


 事故発生時に取るべき行動は何だったかと考えを巡らせながら、早足で停止している列車へと近づく。不安そうに列車を見つめている乗客の間を抜け、ホームの下を覗き込んだ。だが、列車とホームに挟まれた僅かな空間からは何も確認できない。乗客達のざわめきが次第に大きくなる。


 非常ブザーと汽笛合図を受けて、他ホームや改札内で待機していた先輩駅員達がやって来た。何人かの背には、赤色のリュックが背負われている。あれは緊急事態発生時の対応セットだ。中には、確か手袋やビニール袋、火鋏が入っていたはずだ。と混乱する頭の片隅で思い出す。

 事故対応のために集まった者の中には、神田と長谷川の姿もあった。神田が立ち尽くす和也のもとに歩み寄る。背には対応セットの入ったリュック、手にヘルメットが二つ下げられている。


「災難だったな……。だが、慰めてやっている暇はない。今は一刻も早く列車を動かすぞ。ついて来い」


 ついて来いという言葉の意味が分からない程、和也はもう新米ではない。背筋がゾクリとし「はい」と大きい声を出したはずの返事は干上がっていた。

 神田からヘルメットを一つ受け取り、共に列車の先頭に向かって走る。この時、ホームの騒然さはピークとなっていた。至る所から「やばい」や「撥ねた」「見ちゃった」などの声が聞こえ、突き刺さるような視線を感じる。

 和也はそんな視線から逃れるようにして、初めて線路の上に降り立った。

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