第27話 乃々華

 和也の意識はゆっくりと浮上した。寝起きのように浮遊感が漂う体を起こし周囲を見渡す。目に映る景色に、特に異常は見られなかった。木製の祠、コンクリートの壁と床、金属製のベンチ。

 そのベンチに座る椿は先に意識を取り戻していたようで、和也を心配そうに見つめていた。


「戻ってきましたか?」


 椿の問いかけに頷きを返しながら、これまた寝起きのように重い瞼を擦る。つい欠伸が漏れて、和也は大きく伸びをした。


「体はしっかりと休めたみたいですね。やはりたましいを抜くことは一石二鳥です、楽しいお話と居眠りが同時に出来る」

 

 椿は満足げに語り、大きな金属の扉を開けた。甲高い金属音が廊下に反響する。和也はベンチから体を起こすと、椿の後に続いて結界のから退出した。

 湿度の高い仄暗い地下通路を革靴の靴音を響かせながら戻る。疲れが取れた影響からか足取りが幾分か軽かった。最初、この地下通路は和也の目に些か不気味に映っていたものだが、駅神の祠の存在を認識した今は不思議と神聖な空間に見えた。地下水の流れる水音ですら神々しく聞こえてくる。

 駅務室へと向かう道すがら、和也は椿に質問した。


「椿さんの……じゃない、駅長のご自宅ってどちらにあるんですか? 大阪市内ですか?」


「そうですよ。福島です」


「え! 福島!」


 余りの驚きに予定以上の声が出てしまった。和也の声は、何度も反響しながら広い地下通路に広がっていく。不思議そうに目を丸くする椿に、和也は肩をすくめて「すみません……」と謝罪した。


「僕も、家が福島なんです。同じだったので驚いて」


「へえ。じゃあ、今日は一緒に帰りましょうか」


 椿の提案に再び大声を上げそうになったが、偶にはこんな日があっても良いかな。と、和也はその提案を了承したのだった。


***


 和也は、自らに割り当てられたロッカーの扉を開けた。扉の内側に備え付けられた鏡が、泊まり勤務で少し窶れた自身の顔を映し出す。ロッカーの中には、昨日の朝に着て来たサックスブルーのワイシャツと黒色のスラックス、そしてビジネスバックが仕舞われている。


 和也はネクタイに指を掛けながら、更衣室の床に当然のような顔で座り込む神使に問いかけた。


「鉄道員の力は、制服を脱いでも継続しますよね?」


「継続はするが、能力は使えなくなる。制服を着ていないお前は、念力の使用もフライ旗の武器化も出来ない状態だからな」


「なるほど……分かりました」


 念力を使用することで日々の暮らしが少し楽になるだろうか。等と考えていたが、そんなに上手い話は無いようだ。和也の心に僅かながら、残念だな。という感情が芽生えた。その瞬間、神使が不機嫌そうに鼻息を鳴らすのが聞こえた。


「何だその表情は! 駅神様の力は便利な道具などではないぞ!」


 どうやら和也の感情は表情にも表れていたようだ。神使が殺気立った顔で立ち上がり、「罰当たりが!」と叫びながら自慢の角を和也の腰に叩きつけてきた。


「痛い! 痛い! 誤解です、そんなこと考えていませんよ!」


 このまま叩かれ続けていては三条のように腰痛を抱える体になってしまう! 和也は必死に否定する言葉を並べて場を切り抜けた。神使はやや不服そうな表情をしながらも攻撃を止めてくれた。和也は安堵の息を吐きながらネクタイを解き、シャツを脱いだ。ベルトを解いてスラックスを脱ぎ、通勤着へと着替える。

 そして、再び神使へと視線を向けた。


「ところで神使様……さっきの話は本気ですか?」


 先程の暴れっぷりが嘘のように呑気に欠伸をしている神使にそう問いかける。神使とは地下通路を出たところで出会った。その際、神使は和也に対しとある言葉を口にした。その言葉は、耳を疑うものだった。


 『これから、お前の家に行く』


「本気に決まっているだろう。家族の生活状況を駅神様にお伝えするのも、私の仕事の内だ」


「駅神様に報告するんですか! それはいくらなんでも――」


 和也は驚いて体ごとを神使の方に向けた。動揺し、ズボンにベルトを通す手が止まる。


「何故駄目なんだ? 私に見せられないほどの劣悪な生活環境なのか? それは鉄道員として宜しくない」


「劣悪という訳ではないですが……」


 和也は仕事に出る前の家の状況を脳内に描いた。引越し業者のダンボールがまだ完全には無くならず、畳っぱなしの洗濯物が買ったばかりのソファを占拠している。朝食に使用した茶碗等はシンクに放置したまま出勤してきた。和也は自身の放った「劣悪という訳ではない」という言葉を撤回するべきかと考えた。


「駅神様はお前達の生活を心から案じている。子供の心配をしない親など居らぬ」


神使は「そのために知らせるのだ」と言い、再びその場に座り込んだ。


 ――子供の心配をしない親など居らぬ……か。


 先程、和也は結界の中で駅神を『血は繋がっていないが自分を愛してくれている存在』と感じたが、自身の体には駅神の力が流れている。これはもう、血が繋がっていると言っても過言ではないと言えるのではないだろうか。

 和也は三人目になる親の存在を噛み締めまがら、着替えを再開した。




 和也は更衣室を出ると、駅ビルを繋ぐ連絡通路のベンチに腰掛けた。和也の足元に神使も体を伏せる。椿から待ち合わせ場所について細かい指定は無く、「改札の近くで待っていて下さい」の一言だけだった。助役の更衣室は和也達一般職員とは分けられており、一緒に着替えることはない。助役室の更に奥にあるらしいが、当然和也は入ったことはない。


 椿を待ちながら、すっかり様変わりした改札内を見渡す。小さな蠢穢が和也の視線の先、柱の根元で蠢いていた。そこに溜まった疵泥を貪っているらしい。ネズミに似た外見だか、頭が不釣り合いな程大きい。どうにも、蠢穢は人間に嫌悪感を味合わせるために進化したのではないかとすら思う。

 醜い蠢穢から視線を逸らして悪態をつく。じっと見続けていると体がムズムズとしてきそうだった。その逸らした視線の先にはデジタルサイネージがあり、丁度SKIPの広告が表示されていた。『驚きの便利さで軽快なお出かけを』というキャッチコピーと共にイメージキャラクターのロクちゃんが描かれており、ロクちゃんから伸びた吹き出しには『使うシカない!』と書かれている。

 和也は視線を下げ、足元で寝そべる神使を見つめた。その姿が、二足歩行のデフォルトメした姿で描かれているロクちゃんと重なる。

 ――まさか、SKIPのイメージキャラクターが鹿なのって……!


「お待たせしました」


「わっ!」


 突然かけられた声に、和也の喉から声が漏れる。いつの間にか正面には椿が立っており、神使を眺める和也を見下ろしていた。

 椿も和也と同じくスーツ姿だったが、一目見て仕立ての良いものだと分かった。真っ白な半袖ワイシャツにはシワ一つ無く、しっかりと糊が効いている。スラックスは明らかに高級な生地で作られており、これにも一切のシワが見られない。体型にぴったりと合っていることからオーダーメイド品かと思われた。背負っている深い茶色のビジネスリュックは本革特有の光沢を放っており、元々お洒落な造形ながらも椿が身につけることによって更なる魅力が引き出されていた。


「どうされました? じっと神使様を眺めて」


「実は――」


 和也は、椿に自らが感じた疑問と予想する答えを告げた。椿は「その通りですよ」と笑顔で言った。


「歩きながら話しましょう」


 椿は長身の体を翻し改札へと向かう。和也もその後を追い、社員用SKIPを翳して駅構内へと侵入した。


「ご想像通り、ロクちゃんのモデルは神使様です。各NRグループのキャラクターはご存知ですよね?」


「はい。入社の際にNRについては学んでいますから」


 NRグループは六つの旅客鉄道会社と一つの貨物鉄道会社から構成されており、そのうち五つの旅客鉄道会社が自社独自のICカードを導入している。イメージキャラクターの姿は最も北を管轄する『NR北海』から順に、『キツネ』『ネコ』『ニワトリ』『シカ』『テン』となっている。


「どれも神使様の特徴を良く表したキャラクター達ですよ。特にNR関東の『志麻さん』なんてそっくりです」


 椿は「自身ありげな目元が似ていますね」と、小さく笑いながら話した。

 NR関東は、関東と東北を管轄に持つNRグループだ。首都圏に路線を持つことからグループ内で一番の売上を叩き出しており、ICカード乗車券という存在を生み出して普及させた会社でもある。志麻さんは、そんな業界初のICカード乗車券『WHISKウィスク』の人気を牽引していると言っても過言ではない大人気キャラクターだ。東京駅には専門のショップまで設けられているという贅沢っぷり。縞の三毛猫という外見が名前の由来だとホームページに書かれていた気がする。


「それにしても、神使様って各グループに存在するんですね」


「勿論です。神使様は各地の管理局毎に生み出されました。北海道、東京、名古屋、大阪、四国、九州……総勢、六柱の神使様がいるんですよ」


 その区割りはNR各社の管轄と一致しているが、民営化が行われる遥か昔から存在する分け方なのだという。椿は神使の役割についても分かりやすく説明してくれた。

 神使は各区の中で最も力を持つ駅神によって生み出された存在であり、北海道から順に『札幌駅』『東京駅』『名古屋駅』『大阪駅』『高松駅』『門司港駅』の駅神が神使の生みの親だ。神使の仕事は多岐に渡り、各地で働く鉄道員の心身状態の観察から駅神同士の情報交換の手助け、全駅神の総本山である東京駅の駅神への定期連絡など様々だ。和也がこれから受ける洗礼は『鉄道員の心身状態の観察』に当たる。大切な仕事である以上、蔑ろには出来ない。


「志麻さんとやらを始めて見た時は驚いたぞ。まさか、『神使を商品の看板にする』などという発想が出てくるとは予想だにしていなかったからな」


 和也達と共に歩く神使が言う。


「気の毒に。と感じていたら、いつの間にか私も看板にされてしまった……。まったく、呆れて物も言えない」


「それだけ愛されているんですよ」


 椿が隙かさずフォローするが、神使は椿に一瞬視線を向けただけで拗ねるようにそっぽを向いてしまった。

 大阪環状線の内回り列車が入線する一番線に、椿と神使に挟まれるように立つ。周囲の状況が一人の帰宅時と少し違うことに、和也はコンコースを歩いている時から気付いていた。とにかく視線を感じる。その視線の先に自分の姿が無いことは分かっているが、それでも緊張するものだ。色めき立った空気感を肌で感じる。

 近くを通った若い男性三人組の内の一人が驚いて二度見する姿が、和也の視界の端に映る。「すっげーイケメン」と呟く声が微かに耳に届いた。


「椿さん、いつも帰りはこんな感じ何ですか?」


 涼しい顔で隣に立つ椿に問いかける。「そうですよ」と認める椿の表情に困っている様子は見られず、寧ろ楽しんでいる感じすら見られた。和也は、自身が椿と違う世界に居るのだなと実感した。それは、人と駅神という立場も含めた二重の意味で。

 間もなく入線して来た列車に乗り込む。乗車したのは前から三両目。福島駅で最も改札に続く階段に近い車両だ。昼過ぎという時間帯もあってか、車内に余り人は乗っていなかった。だが、降りるのは一駅先であり、乗車時間は一分程。そのため、二人共座席には座らなかった。

 福島駅に到着し揃って下車する。福島駅は一面二線の島式ホームを有する高架駅で、大阪駅の隣という立地にも関わらず、どこか下町風情のある駅だ。ホームからの景色には、やや古びた雑居ビルが目立つが、タワーマンションや大阪駅周辺の高層ビルも見ることが出来る。

 売店等も無い、余り広いとは言えないホームの階段を降りて改札口に向かう。社員用SKIPを改札機にかざして駅を出た時、後ろから少女の声がした。


「椿さん!」


 和也と椿、そして神使が足を止めて振り向く。十五、六歳と思しき少女が、改札を抜けて駆けて来るのが見えた。長い黒髪が風に靡いている。少女は、スカーフの無い真っ白なセーラー服に紺色のスカートという制服姿。腕には紺色の制鞄に加え、可愛らしい少女のアップリケが縫い付けられたデニム地のバッグを掛けている。

 和也達の元に駆け寄ると、その丸く大きな瞳を三日月型に変化させて嬉しそうに笑った。


「お帰りなさい。終業式は如何でしたか?」


 椿の問いかけに「楽しかったよ」と少女は答えた。身長は一五〇センチ後半位だろうか、椿の顔を見上げる体勢は辛そうに見える。「友達が、夏休みにカナダに留学するみたいなの」と少々寂しそうな面持ちで付け加えた後、少女は視線を和也の方へと移動させた。


「駅の方?」


 僅かに首を傾げながら尋ねる姿に、和也はドキリとした。少し日に焼けた肌に柔らかそうな艶のある唇、絹のようにさらりとした黒髪は男を釘付けにする美しさだ。相手は恐らく高校生だが、高卒の自分とはかなり年が近い。その事実も相まって、和也は少女の妖艶な風貌に生唾を飲み込んだ。


「はい。大阪駅の井上和也といいます」


 上ずった声で自己紹介をする。これでは、緊張していることが丸分かりだ。和也は顔面が焼けるように熱を持つのを感じ、恥ずかしさの余り消えてしまいたくなった。


「初めまして。『陸田乃々華ののか』といいます。父がお世話になっております」


 丁寧に腰を折って挨拶する乃々華の苗字に、和也は「おや?」と思った。


「陸田? 父がお世話にって……まさか、駅長の娘さんですか?」


 和也の投げかけた質問に、乃々華は頷きで答えた。


「これは、どうも……初めまして」


 乃々華は、和也のぎこちない返事に対しても柔らかな笑みを絶やさず、奥床しい印象を和也の心に植え付けた。神使が「手を出すなよ」と釘を差してきたが、言われなくても駅長の娘に手を出す度胸など持ち合わせていない。


「井上さんも福島に住まれているんですね。近くですか?」


「はい。駅から十分程のマンションです」


 和也は答えを返しながら、駅近のマンションに居を構えていることを初めて後悔した。家が遠ければ乃々華と少しだけでも長く歩けたかもしれないのに――

 しかし、乃々華が和也と分かれるのは想像よりも大分早かった。乃々華と椿が足を止めたのは、駅を出てから二つ目の十字路だった。駅からの所要時間は約四分。


「私達は、こっちですので」


 その言葉に和也は落胆した。その落胆っぷりが表情に出さないよう気をつけながら「そうなんですね」と返事をする。


「すぐ近くなんですか?」


 和也の問に、乃々華は「あそこです」と一つの建物を指差した。それは、全面がガラスで覆われているようなデザインのタワーマンションだった。そのマンションは和也がいつも福島駅のホームから見ている景色の一部で、一体どのような人間が住んでいるのだろうか。と見るたびに考えを耽らせていた建物だ。明らかに超が付く高級マンションだが、乃々華に自慢げな表情は一切見られない。彼女にとってはごく普通の受け答えなのだろう。


「それでは失礼します」


 乃々華は再び丁寧に腰を折り、椿と共にマンションへと歩き去って行った。

 二人と別れ、和也は自宅マンションへと足を進めた。その際も、頭の中には乃々華の笑顔が浮かび続けていた。顔面は、まだ熱い。足早にマンションに入り、エレベータに乗り込む。扉が閉まると同時に、和也は両手で顔を押さえて「あー」と間延びした声を上げた。心拍数は高いままだが、緊張とは違う懐かしい鼓動の速さ。幼稚園時代の初恋の記憶が脳裏を過ぎる。


「乃々華嬢は可愛らしいからな。まあ、年も近いから無理もないだろう。だが、絶対に手は出すな」


 神使は和也の状態に一定の理解は示したが、威圧感を含んだ声での警告もしてきた。警告は二度目。それ程、自分は手が早い男のように思われているのだろうか。和也は僅かながらに、心外だ。と感じながらも「分かってますよ」と両手で顔を覆ったまま返事をする。

 和也は両手のひらに顔の熱を感じながらエレベータの壁にもたれ掛かると、顔と同じくらいに熱い息を吐いた。

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