第28話 将臣くん

「何だこれは!」


 それが、和也の自宅に入った神使の第一声だった。玄関扉を開けると目の前に引越し業者のダンボールが積み上がり、左に伸びる廊下兼台所にも通行を妨げない程度に複数個のダンボール。廊下の先の開け放しなっている扉から見えるリビングの床は、漫画本や電化製品の空き箱で埋められている。


「仕方がないじゃないですか……まだ引っ越してきて半年も経っていないんですよ。それに、片付けようと思っても仕事明けは疲れていますから――」


 和也が話し終える前に、神使が小走りでリビングへと侵入した。悲惨な状況のリビングを呆然と見渡した後、通路を塞いでいた空き箱を角で押し退けた。

 和也はその光景を横目に見ながら洗面所入り、洗顔料やシェーバーの替刃などでゴチャついた洗面台で手洗いを済ませる。


「三条といい、最近の若い男は整理整頓も出来んのか」


 リビングから飛んできた神使の小言を、蛇口を閉めながら聞く。


「へえ。三条さんの部屋も、余り綺麗ではないんですか?」


 濡れた両手を拭きながら神使に問いかける。仲間が増えたような喜びに駆られて自然と笑顔になってしまったが、リビングに戻った和也に向けられた神使の表情は想像以上に冷たかった。


「お前は人のことが言える立場か?」


「そう……ですね。すみません」


 神使は和也の謝罪に対して不満げな呟きを零すと、畳まれたまま放置されている洗濯物に占領されたソファを通り過ぎ、シングルベッドに飛び乗る。瞬間的に強い力が掛かり、ベッドがギシリと音を立てた。そのままベッドの上に伏せ、もう一度室内を眺める。


「この状況を知っていながら、よくも劣悪でないなどと言えたものだな……」


 神使は分かりやすく顔を顰めて不満を口にする。


「片付けようとは思っているんですよ。でも休みの日は疲れていて――」


「それは先程も聞いた! 言い訳ばかりするな!」


 神使にピシャリと言われ、和也は口を閉ざした。だが、和也自身に言い訳をしているつもりは全く無い。夜勤を伴う仕事の疲れというものは、丸一日休んでいても完全には取れない。慣れれば体力もついてきて余裕ができるのだろうが、それは今の和也には想像もできない領域だった。


「明日は非番だろう?」


「そうですが……」


 神使の問いかけに答えながら、不穏な空気を察知する。


「片付けろ、このような環境は衛生的にも良くない。病気にでも罹ったらどうするんだ」


――やっぱり。


 和也は周囲の状況に軽く目を向けると、片付けるために必要な労力を脳内で素早く試算し肩を落とした。今は午後一時。風呂や就寝の時間を言い訳に逃げることは暫く出来ないだろう。完璧に片付くまでやらされそうだ。


「嫌そうな顔をしおって……そこまで嫌か?」


 神使が呆れたように息を吐く。納得がいかないという苛立ちがあるのか、シーツを前足で数回叩きつけるように掻いた。


「少し、寝かせては貰えませんか?」


「軟弱者が。明けで旅行に行く者もいるというのに」


「それは慣れているからで……というか、その域はもう――」


 「化け物じゃないですか」と言いかけて、和也は口を噤んだ。鉄道員は皆駅神の子供だ。自身が仕える者の子を悪く言われて良い気分はしないだろう。

 明けで旅行に行くという猛者の話は和也も聞いたことがあった。駅で働いている立場を利用すれば、仕事終わりにそのまま旅行に出発することが出来る。まさにドアtoドアだ。しかし、それには常人離れした体力が必要であり、今の和也には到底不可能であるということは考えなくても分かる。


「『もう?』 もう、何だ?」


「いえ、何でもありません……。とにかく、少しだけ休ませてください。片付けは必ずしますから」


 和也からの二度目となる懇願に折れたのか、最初からそのつもりだったのかは分からないが、神使はゆっくりとした動作で体を起こしベッドを和也へと明け渡した。


「夕飯の前にも少し片付けさせるぞ。早く体力を戻せ」


 短い尻尾の生えたお尻を振りながら、神使がベッドから遠ざかる。和也は「ありがとうございます」と礼を述べると、素早く通勤着を脱いで床に落ちていた部屋着へと着替えを済ました。

 

 ――ようやく満足な睡眠が取れる。


 安堵の気持ちを湛えながら布団の中に潜り込む。布団の温かさと仕事の疲れが合わさり、急激に瞼が重くなる。遠くで神使が何かを言った声が聞こえたが理解できなかった。


 ――今回の仕事も疲れたな……。


 和也は意識を手放し、束の間の休息についた。


***


 和也は全身にのしかかる酷い疲れに抗えず、その場に座り込んだ。そんな和也を知り目に、神使が満足げな表情で部屋を見渡している。


 部屋は、見違えるほど綺麗になった。段ボールの類は全て解体された後一箇所に纏められ、放置されていた洗濯物は衣装ケースの中に。床に置かれていた漫画本やノート類はそれぞれ指定の場所に戻された。最後に埃でざらついた床を綺麗にするよう言われたが、時間的に掃除機を使用するのは迷惑になると説明して断った。その理由には神使も一定の理解を示したようで、特に反論してくることはなかった。


 現在時刻は十八時。叩き起こされたのが十六時半のため、一時間半程片付けをさせられていたことになる。仮眠で取り戻した体力は完全に使い果たされた。


「うむ。やれば出来るな、この状態を維持出来れば完璧だ」


「……努力はします」


 もはや返事をする力も集められなかった。泊まり勤務の疲れに空腹が重なり、まともに動けそうにない。最後にご飯を食べたのは今日の朝だ。食事内容はカップラーメン一個。駅の朝というのは時間が無く、お腹を一杯にすることなど不可能だ。寝不足と空腹というマイナス要素が二重にかかった状態で朝の過酷なラッシュアワーを捌いているなど、乗客は想像もしないだろう。


 和也は重い体を動かし、台所へと足を進めた。台所兼廊下に並べられている沢山の段ボールの前で足を止め、そのうちの一つの中を覗き込む。ここに置かれている段ボールの中身は皿やコップなどのキッチン用品だが、今覗いている段ボールの中身は野菜だ。一昨日に実家から送られてきた野菜で、ラインナップはキャベツ一玉、茄子二本、玉ねぎ三つ、人参三本。

 和也はそのうちの人参一本を、今日作るカレーに使用しようとしていた。段ボールの中を探って玉ねぎを一つ取り出し、その玉ねぎを片手に持ちながら人参を探し出そうとするが見つからない。


「……あれ?」


 他の野菜は入っているのだが、何故か人参だけが消え失せている。既に使用してしまった可能性を考えたが、それはすぐに否定された。この荷物が届いてからまだ一回しか自炊していない上、一度に人参を三本も使う料理など作っていないし知ってもいない。不思議に思いながら、和也が居なくなったベッドを我が物顔で占拠する神使に訪ねた。


「神使様、この段ボールの中に入っていた人参知りませんか? 今日、カレーを作ろうと思ってて――」


「人参なら食べたぞ」


「……は?」


 一体何を言っているのか理解できず、思考がオーバフローしたように停止した。数秒の間を置いて、再びゆっくりと回り出す。


「食べたって……勝手にですか?」


「きちんと食べて良いか聞いた! そして、お前は『うん』と言ったのだ!」


 まるで記憶が無い。どれだけ思い返しても、食べて良いか聞かれた記憶にも「うん」と答えた記憶にも辿り着けない。不機嫌そうな様子の神使を眺めながら考え込んでいると、ふと眠りに落ちる際に神使から何か声をかけられたことを辛うじて思い出した。まさか、その時に掛けてきた声が――


「神使様……まさかとは思いますが、私が寝る寸前に尋ねましたか?」


「ベッドに入って直ぐだったから、寸前では無かろう」


 和也は膝から崩れ落ちそうになった。神使が返事と思い込んだ「うん」という声は、恐らく神使の声に反応して反射的に出てしまった寝言だ。神使は『人は本当に疲れている時ベッドに入った瞬間に寝てしまう』という事実を知らないらしい。

 取り敢えず神使に「その答えは寝言であった」と話し、「今後は起きている時に尋ねてくれ」と念を押した。


「そうか、済まなかったな。以後気をつけよう」


 神使の表情は読み取りにくく、今も反省しているのかどうかが分かりにくい。人間ではないため、ポーカーフェイスの域を超えている。

 そもそも、神使が生の人参を食べるという事実に驚いた。これでは本物の鹿だ。まさか都会のど真ん中で獣害のを経験することになろうとは……と和也は肩を落とした。


「食べてしまった人参だが非常に美味かったぞ。実家の野菜だそうだが父上作か? 礼を言っておいてくれ」


「分かりました。流石に神使様が食べたとは言えないので、私が食べたことにして伝えます」


 「食べてないけど!」と上から目線の神使に対して心の中で毒付きながら、コンロ下の棚を開き鍋を取り出す。冷凍保存していた牛肉を電子レンジで解凍している間に、野菜を切っていく。実家産の玉ねぎと買い置きしていたじゃがいもがまな板の上に並ぶが、色味が似ていることも相まってどうにも物足りなさがある。


 ――今日は人参の代わりに茄子でも入れてみようか。


 和也はもう一度段ボールの中を覗き込み、茄子を一本取り出した。




 完成したカレーは非常に美味しかった。スパイスを使用して一から作成する訳でもないので当然と言えば当然なのだが。少し辛味のある中辛の味を堪能していると、食事風景をつまらなそうに眺めていた神使が口を開いた。


「近々、お前を京都駅に派遣することになるかもしれん」


「……京都ですか?」


「そうだ、戦闘能力の向上を図る目的での派遣になる。派遣と言っても月に数回向かう感じだ。完全に駅を移る訳ではない」


「戦闘能力……?」


 和也は小さく呟いた後、カレーを掬ったスプーンを口に運んだ。煮込まれ柔らかくなった茄子を奥歯で潰しながら、大阪駅での訓練では足りないのだろうか。と考えた。三条も椿もしっかりと指導をしてくれていると思うが……。


「京都駅には『第四世代』がいる。その者に指導頼むのだ」


「第四世代……えっと、つまり……空中を移動出来る力を持った世代のことですよね?」


 和也の問いに、神使は「そうだ」と頷いた。


「同じ能力レベルの者を指導者に置いた方が、教え易いし理解もし易いだろう」


「それは確かにそうかもしれませんが、椿さんも第四世代と同じ能力が扱えるのではないですか?」


 別に京都駅に派遣されたく無い訳ではないが、人間関係が出来上がった居心地の良い駅で指導を受けたい気持ちがあった。三条は理不尽な厳しさを持っているが間違ったことは言っていないし、椿は指導が優しく分かりやすい。件の第四世代も優しい人物かもしれないが、どうにも気が進まなかった。


「確かに椿の能力も第四世代に相当するが、力の強さが段違いだ。自分が簡単にできるからという理由で、駅神で無いお前に無茶を教え込もうとされると困るのでな」


「なるほど。椿さんの力の強さは何度も目にしていますから、その理由には納得です」


 和也は、今までに目にしてきた椿の力の強さが窺える出来事を思い返した。フライ旗の素早い形態変化は勿論のこと、瞬間移動のような高速での距離詰め。駅神に瞬間移動の能力があるとは聞いていない。つまり和也自身も持っている念力で、体をあれ程の高速で動かしているのだ。人と駅神という超えられない壁を感じる。


「その第四世代というのは、どんな方ですか?」


「名は『鉄輪かなわ将臣』。お前より六つ上の二十四歳だ。曽祖父は神戸駅の駅長、祖父は新幹線の初代運転士で後の京都駅長、父は元京都駅長で現新大阪駅長という鉄道一家だ」


「……凄いですね」


 予想以上の鉄道色っぷりに、そのような簡単な感想しか出て来なかった。この第四世代というのは、恐らく以前に聞き耳を立てた会話で出てきた『将臣くん』だろう。

鉄道員になることを遺伝子に刻み付けられた人物らしい。プレッシャーも相当のものだっただろうな……と和也の頭が勝手な想像をし始めたところで、神使が説明を再開した。


「将臣は、既に第四世代の力を完璧に使いこなしている。空中を自分の縄張りのように飛び回って戦う様は圧巻だ、一度見てみると良い」


「分かりました。自信はありませんが……使いこなせるようになるため努力します」


 和也は会話のせいで中断されていた夕食を再開した。まだ温かさの残るカレーを掬い、空腹を訴える胃袋に運んだ。

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