第26話 亡霊の追憶

 チョコレートケーキは、大変美味だった。ふわふわのスポンジが口の中で崩れ、挟まれていたチョコクリームが溶け出す。チョコレートが控えめでしつこさがないのも、和也好みの味だった。それは駅神も同じであるようで「これは上質だ」と、顔を綻ばせ幸せそうにケーキを口に運ぶ。


 それにしても、たましいだけの状態だというのに味や匂いが分かるのは不思議だな。と和也は思った。このケーキの甘さや紅茶の華やかさも違和感無く感じ取れる。

 しかし、ここで和也の頭に一つの疑問が生じた。それは何故霊を抜く必要があるのか? という疑問。蠢穢の討伐の際は体を眠らせて睡眠時間を確保するためだと理解できるが、今は特に睡眠が必要な状況でもない。

 そのことを駅神に尋ねると、彼は笑顔をたたえて言った。


「私は、ここを子供達が休める場にしたいのだ。過酷な鉄道員には休息が必要だ、今も夜勤明けで疲れているだろう?」


「はい。確かに疲れてはいますが……」


「きっと、ここを出て肉体が目覚めたときには疲れが随分と楽になっている筈だ」


 駅神は、残り僅かだった紅茶を一気に呷る。ソーサーに戻されたティーカップの底には小さな薔薇の蕾が残っていた。


「納得できたかね?」


「はい。お気遣いありがとうございます」


 駅神は「どういたしまして」嬉しそうに言い、紅茶のお代わりを自身のティーカップに注ぎ始めた。底に落ちていた薔薇の蕾が浮き上がり、琥珀色の紅茶の中でぐるりと回転する。和也もまだ半分ほど残っている紅茶に口をつけると、ケーキの最後の一口を頬張った。少しビターな味わいを堪能してから満足感とともに飲み込んだ。やはり、このケーキは絶品だ。


「このケーキ美味しいですね。何処で買われたんですか?」


「自宅近くのケーキ屋さんですよ」


 『自宅』。その言葉に、和也は大いなる疑問を持った。駅神が人と同じ様に暮らしているというのだろうか。一体どうやって? 戸籍は? 身分証は? 次々と湧き出した疑問に、和也は首を傾げる。駅神が、その表情の変化に気が付き解決に導く一言を発した。


「椿は、陸田くんと一緒に暮らしているよ」


「駅長と……なるほど」


 それならば問題は無いだろう。と納得しかけたところで再び疑問が湧き出した。駅長は家族に何と説明したのか。という疑問だ。「今日から部下が一緒に生活するよ」と言われて「はいそうですか」と納得できる人間は少ないはずだ。


「駅長のご家族は何も言われなかったんですか? 特に、奥さんとか……」


「陸田くんの妻は、もう十年前に亡くなっているよ。一緒に住んでいるのは娘だけだ。今は……十六歳とか言っていたかな?」


 駅神の返答に、和也は目を剥いた。


「十六歳! 椿さん、そんな年頃の娘さんと同居しているんですか!」


 和也は危険な香りしかしない暮らしに驚愕して声を上げたが、二柱の駅神は不思議そうに目を丸め


「いけませんか?」

「何か問題でもあるかね?」


 と、揃って声を上げた。その表情は、本当に何が問題なのか理解出来ていないものだった。和也は、そのような邪な考えを持っているのが自分だけだと気付いた途端に恥ずかしくなり、顔を伏せ、「何でもありません」と力無く零した。

 よく駅長も許可したものだな。と和也は心の中でぼやいてみる。母を亡くした娘が一人で寂しいだろうと考えたのだろうか? でも、いくら駅長の娘でも椿が駅神だとは知らない筈だ。この工芸品のように美しい姿に恋をしてしまう可能性も否めない。いつか間違いを犯すかも――


「何を考えられているのかは分かりませんが、あなたは私の生活事情を聞きたい訳ではないでしょう?」


「そうでした……すみません」


 和也は姿勢を正し、残りの紅茶を一気に飲み干した。邪な考えを頭から払い除けて椿の話を聞く体勢を整える。

 椿は紅茶を継ぎ足してくれた駅神に礼を言い、その注ぎたての紅茶を一口飲んでから口を開いた。


「納得出来なかったんですよ、自分の死が。何故こんな死に方をしなければならないのか……そのことを考えていたんです。ずっと」


 椿は静かに語りだした。遠くの、過去の記憶を手繰り寄せるように目を細める。

 椿は廃駅と同時に駅神としての使命を終え、結界の消滅とともに意識を失ったと話した。本来なら、そのまま永遠に目覚めることはないのだろう。しかし、何故か椿は意識を取り戻したという。


「その時、私の感情を支配していたのは猛烈な怒りでした。私は殺されたのか? 裏切られたのか? と……」


 椿がテーブルの上で、白く指の長い手を握る。当時に抱いた醜い感情が再び暴れだすのを、必死に抑え込んでいるようだった。


「意識が遠のいたり浮上したりを繰り返していたせいか、ハッキリとした記憶はありません。ただ、気が付くと大阪駅の祠の前に倒れていたんです」


 倒れている椿を発見したのは神田だという。間もなく意識を取り戻した椿は酷く狼狽した様子で「私の駅はどうなった!」と掴み掛かった。神田は椿の話を聞き、椿が『片町駅の駅神』ということを理解した。本来ならあり得ない現象だが、椿の纏う空気から本能的に理解したのだろう。きっと、この時の本能とは人間としての本能ではない。恐らく鉄道員としての本能――

 その後、神田は椿の存在を駅長に知らせ、管理職会議でその処遇を話し合った。結果、椿は大阪駅に留まることを許可された。だが、そもそも駅神を殺す方法は駅を廃止することのみだ。既に駅を失っている駅神を殺す方法など存在しない。許可、不許可に関わらず、椿は留まるしか無いのだ。


「その際に、私の駅が消えてから二十年も経過していると聞いて驚きました。それ程長い間、強い恨みや怒りに支配された状態で暗闇を漂っていた自分が哀れで……」


 その言葉の最後は弱々しく消えかかっていた。表情を歪め、強く手を握る。廃駅の事実を受け入れられない自身の往生際の悪さが心底気に入らない――そんな表情だった。


「駅長は、私を異動してきた職員と偽るように提言しましたが、神田さんが反対したんです。お陰で、皆に隠し事をせずに済んでいます」


 神田が椿を通常の職員として扱うことに反対したのは、椿がを愛してもらうことで、『怒りや恨み』という鎖を断ち切り成仏できると考えたからではないか。と和也は考察した。しかし、椿の存在を未だに許しているところを見ると、その鎖は断ち切れていないらしい。

 また、『椿』という名前は駅で暮らす上で便宜上付けられたもので、名付け親は駅長だと椿は語った。自身の依代であった花の名前という安直なものだが、とても気に入っているという。


「私を不気味だと気味悪がる人もいました。ですが、殆どの方が私を……この哀れな駅神を愛してくれたのです」


「椿さんは今、幸せですか?」


「勿論です」


 椿は晴れやかな顔を和也に向けた。成仏できない程の果てしない恨みを抱いているとは思えない、曇りのない表情。誰かから愛を受ける必要性は、人も神も変わらないようだ。自身の存在が肯定され、受け入れてくれる人を持つことが幸せへとつながるのだ。


 ――いつか、椿さんが全ての恨みや怒りから開放されて成仏できる日は来るだろうか。


 和也は結界内の美しい景色に視線を向けた。薔薇の花の香りとローズティーの香りが混ざり合い、多幸感を感じる香りとなる。和也は深く息を吸ってその香りを取り込んだ。吸い込んだ分だけゆっくりと息を吐き、視線をティーカップに移す。空のはずだったティーカップには新しい紅茶が注がれていた。駅神に礼を言い、温かい紅茶を口に含む。飲み込んだ瞬間に華やかな香りが鼻を抜けた。駅神の紅茶は何杯飲んでも飽きが来ない不思議な飲み物だ。


「それにしても……椿の件といい、京太郎は本当にこの駅に尽くしてくれる。よく出来た息子だ」


「ええ。お父様によく似て、才のある方です」


「お父様……? お二人は神田助役の父親をご存知なんですか?」


 神田は念力を扱える第二世代だということは知っているが、父親がどの様な人物なのかは聞いたことが無い。駅神が知っているということは、大阪駅に居たのだろうか。


「神田さんのお父様は、非常に腕の立つ方でした。大阪駅で覚醒されましたが、私の駅にも噂が来るほどでしたよ」


「第一世代にも関わらず戦闘能力が高くてな、恐ろしい速さで蠢穢をなぎ倒して回る様は圧巻だった」


 駅神は「普段の仕事も完璧に熟す男だった」と懐かしそうな声色で語っていたが、途端に目を潤ませた。


「とても良くできた息子で……愛していたのに、京介……」


 震えた声で言葉を紡ぐと、駅神は両手で顔を覆った。肩を上下させて泣き声を上げながら「京介、京介……」と頻りに呟いている。見かねた椿が席を立ち、その両肩に手を置いた。

 『京介』とは、恐らく神田の父親の名前だろう。彼に一体何があったというのだろうか。そのことを聞きたかったが、色々と尋ねて掘り返すのは駅神の傷を抉るような気がする。

 どう対応すべきか。と駅神を慰める椿を見ながら悩んでいると、駅神が嗚咽混じりに「話してやってくれ」と椿に語りかけた。椿は、その頼みに大きく頷き、和也に顔を向けた。


「神田さんのお父様……神田京介さんは、在来線や山陽新幹線の運転士を歴任された後、京都駅に助役として異動されたんです」


 椿は、駅神の背を擦りながら続ける。


「ですが、異動から三年後に亡くなられました」


「亡くなった……! どうして……」


 和也の動揺した声に答えたのは駅神だった。過呼吸気味に荒く呼吸し、真っ赤に充血した目で和也を見つめる。


「貨物列車に轢かれたんだ。乗客に突き落とされてな」


 轢死。その死因は全く予想外だった。てっきり、病死や勤務時間外の事故死とばかり思っていた。和也は衝撃的な死因に言葉を返せず、ただ再び嗚咽を漏らし始めた駅神を見つめることしか出来ない。

 椿は、駅神を慰めるという行為を挟みながら、少しずつ京介の死について語ってくれた。


 京介は、死亡当日の終電間近に泥酔者二人の喧嘩を止めに向かった。ただその時期は忘年会シーズンで、いつも駅で泥酔する層だけでなく慣れない酒を呑み酷く酔った若者や、アルコール中毒の症状を見せる者も現れるなどかなりの混沌を極めていたらしい。そのために人手が足りず、危険性の高い『泥酔者の喧嘩対応』という作業を一人でやらざるを負えなかったのだろう。


「想像でしかありませんが、恐らく掴み合いの喧嘩を止めようとして逆上されたんでしょう。酷い話です」


 突き落とした男性二人はその場で確保されたが、酔っていて何も覚えていないと話したそうだ。終電間近で目撃者も居らず、当時はまだ監視カメラの数が少なく現場は死角だった。責任能力という存在が壁となり、犯人に重大な罪は課せられなかったそうだ。


「死因が轢死でしたから、神田さんとお母様は、お父様の顔を見ることも出来ずにお別れされました。悔しかったことと思います」


 椿は目を伏せ、悲しみを堪えるように唇を噛む。和也は、過去にお風呂で神田から言われた言葉を思い出していた。


 ――まず自分の身を守ることを優先しろ。それで何か言われたら、俺が守ってやる。


 そう語っていた時の少し影のある表情――父親のことを考えていたのだろうか。頼れる上司の裏側は、強い悲しみで満たされていた。

 駅神が洟をすすりながら顔を上げた。手の甲で何度も涙を拭い、さらに充血度合いの増した目を和也に向ける。


「私は、もう二度と我が子を失いたくない。どうか気をつけてくれ……鉄道員の仕事は君が思っている以上に危険なんだ」


「はい。絶対に駅神様を悲しませたりはしません」


 和也は、その言葉を駅神と自分自身に向けて発した。血は繋がっていないが自分を愛してくれている父の悲しむ顔など見たくない。そう思うと同時に、自身が心身ともに駅神の息子になれたのだという実感を得た。

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