第25話 地下の祠

 自動起床装置が作動し、和也は慌てて体を起こした。そして、その勢いのまま今まで自分が寝ていたベッドを振り返る。


 誰も寝ていない。


 ほっと安堵の息が漏れた。二度と体に戻れないかもしれないと考えていたが、無事にたましいは戻ったようだ。

 和也はベッドを軽く整えながら、蠢穢と戦ったことが夢なのではないと考えた。駅神の結界に包まれ、ガーデンのような空間に変貌した駅構内で武器を振るうという奇妙な記憶。

 触手を備えた異様な姿の蠢穢を叩き切った時の感触が一瞬手に蘇り心拍が乱れた。


 ある程度の蠢穢の討伐が終了した頃、神使に「時間だ」と告げられ、時空の広場に集合するよう言われた。時空の広場に職員全員が集まると、駅神が皆に労いの言葉を掛けた。「皆のお陰で今日も駅が守られた」……そのようなことを言われたような気がする。

 その言葉に少し照れくさを感じていると突然意識が遠のき、自動起床装置に叩き起こされたという流れだ。


 ――そろそろ、この奇妙な仕事にも慣れないといけないな。


 和也は、ベッドサイドに乗せられた下着等が入った『お泊りセット』のトートバッグに手を入れた。中から歯磨きセットとフェイスタオルを取り出し、仮眠室を出る。


 お世辞にも広いとは言えない共用の洗面所で、歯を磨き顔を洗う。タオルで顔を拭き、鏡で自らの顔を見た。疲れているのか、どこか覇気の無い表情。

 隣の洗面台に立つ三条と、鏡越しに視線が交差した。


「次に腰を抜かすようなことがあったら、俺はもう知らないからな」


「……はい」


 三条は洗顔で濡れた顔をフェイスタオルで荒々しく拭き取ると、顔も合わせたくないと言わんばかりに去って行った。和也は漏れそうになるため息を飲み込み、もう一度鏡に映る覇気の無い自身の顔を見つめる。


「朝っぱらから何ですか……?」


 三条の不機嫌な声が聞こえた。それはこっちの台詞だ。と思いながら顔を向ける。視界に映ったのは、洗面台を出て直ぐの廊下で向かい合う三条と椿の姿だった。

 椿はすでに制服姿だったが、「もしかすると眠っていないのでは?」と和也は訝しむ。夢とも現実とも付かぬ空間で、神田に言われた言葉のせいだった。


 ――椿は、一九九七年に廃止された『片町駅』の駅神だ。


「三条さん、優しくなりましたよね」


「何がですか……?」


「次に。ということは、今回は見逃してあげるということでしょう?」


 椿は微笑みながら話す。その言葉は三条の核心を突いていたのか、三条は非常に苛立った様子を見せた。大きく舌打ちをした上に「うるせえな」と吐き捨ててその場を去る。

 どう考えても助役に対する言葉遣いではないが、椿は注意する素振りも見せなかった。

 もう諦めているのか、それとも――


 三条を追っていた椿の視線が、和也に向いた。


 息が詰まった。椿の、作り物のような端正な顔が和也を見つめている。その長身の体を取り巻く人ならざる者の空気。それが駅神の纏っていた空気と非常に似通っていたことに、今更になって気付いた。

 椿のことを「不気味」と語った三条の心情がようやく理解出来、和也は寒気がした。


「……おはようございます」


 和也は、一言挨拶だけをして仮眠室に戻ろうとした。何も知らなければ世間話の一つくらいしただろう。椿が過去に死んだ筈の駅神だと知っただけで、どうしてこうも態度が変わってしまうのか、和也自身も分からなかった。

 ただ、死者と対面しているような言いしれない恐怖を感じるのだ。

 とりあえずここを切り抜けなければ。と、椿の隣を通り過ぎそうとした瞬間――


「……私が怖いですか?」


 椿が、和也に向かって囁いた。驚き、その場で立ち止まる。椿はいつもの爽やかな笑顔を浮かべていたが、今の和也にはとても薄気味悪く映った。


「私が何者か、誰かから聞きましたか?」


 落ち着いた声色。正体を知られることに対して何の恐怖も感じていないようだった。


「聞きました……神田さんに」


「そうですか。まあ、知られたところで何の不利益もありませんが……」


 椿は小さく笑い、右手に持った制帽を弄ぶ。

 その制帽の金色の一本線――助役という役職は、駅神という存在に敬意を評して授けられた位なのだろうか。

 例え亡霊であっても駅神は鉄道員にとって敬わなければならない存在なのだろう。


 和也のぼんやりとした視線は、制帽に吸われていた。複雑な感情が入り乱れる脳内は、何が言って良いことなのか。はたまた悪いことなのか。という簡単な判断も出来なくなっているようで、和也自身が意図していない問いかけが飛び出した。


「椿さんは……どうして、消えていないんですか……?」


 和也は自身の口から出た質問にドキリとしたが、その問に椿は直ぐに言葉を返さなかった。

 何かを思い出したのか、一瞬、僅かに目を伏せる。


「随分と突っ込んだことを聞きますね」


「すみません。答えたくないなら、答えなくても――」


「後で教えてあげますよ。今は、時間がありませんから……」


 椿はそう言って、廊下の壁にかけられた時計に目を向けた。和也も、つられて視線を送る。


「遅刻しますよ」


 そう警告する椿の声が耳に届くのと、和也が時計の時間を把握するのはほぼ同時だった。

 八時四十分。


 ――やばい!


 和也は、椿に言葉を返す余裕もなく仮眠室に駆け戻った。朝礼の開始まで、後二十分。

 鉄道会社は時間厳守。遅刻するなど以ての外だ。一度の遅刻で今後の昇進の一切が消えることもあり得る。

 仮眠室の壁に掛けられた制服を引ったくるように手に取り、今までで最も速い速度で着替える。シャツを頭から被り、躓きそうになりながらスラックスを履いた。

 歯ブラシとフェイスタオルをトートバッグに入れて腕に掛けて、仮眠室を飛び出した。ネクタイを締めながら、廊下をスリッパが脱げないように慎重に走る。


 幸いにも、エレベータは直ぐにやって来た。飛び乗って三階のボタンを押し、到着と同時に飛び出す。朝礼が近い時間ということもあって少し張り詰めた空気の駅務室を駆け抜けて、駅構内に出る。

 乗客達の間を縫うように走り、ロッカーへと辿り着いた。自身に割り当てられたロッカーの鍵を開け、中にトートバッグを放り込み急いで閉める。


 そのタイミングで和也は腕時計を確認した。後、十分。

 後は来た道を戻るだけだ。と自らを落ち着かせて、再び足を動かす。駅務室に滑り込んだ時、腕時計は八時五十五分を指していた。


 ――危なかった……。


 息を切らせながら、腕時計から顔を上げる。渋い顔をした神田と視線が交差した。和也は急いで息を整え、真剣な表情を作った。


「まあ……遅刻ではないな」


 神田は、自身の腕時計と和也の顔を交互に見遣り、呆れたように口にした。その隣に立つ椿が申し訳無さそうに肩をすくめるのが見える。

 和也は二人に苦笑いを返し、小走りで朝礼を受けるために並んでいる職員の中に混じった。



***



 泊まり勤務で疲弊した体を通勤ラッシュの対応でさらに削り、和也はクタクタになった体を引き摺って駅務室に戻った。真っ直ぐ家に帰って寝よう。明日は休みだ。と仕事のことが頭から抜け落ち始めた時、三条が声を掛けてきた。


「井上、椿さんが話があるってさ」


「話?」


 何の話だろうと思いかけた瞬間、椿から朝に言われた「後で教えてあげますよ」という言葉を思い出した。

 つまり、これから椿が話すのは、何故消えないのか。という問いに対する答え。


 泊まり勤務を終え、和也の体には疲労がこれでもかと溜まっていた。しかし、椿の口にする答えへの興味が、早く返って休みたいという欲求に勝る。


「地下二階で待ってるってさ」


 三条は椿に伝言を頼まれたことが酷く気に入らないのか、終始表情を歪めていた。和也はそんな三条に礼を言うと、足早に椿の元へと向かった。




 エレベータで地下二階へ降りる。仕事終わりに更衣室へと直行しないのは初めてであり、少し妙な感覚だった。

 扉が開くと椿がエレベータホールの壁に寄りかかって立っているのが目に入った。和也に気付き、微笑みを返す。


「お疲れ様です。急にお呼び立てしてすみませんね」


「いえ……。椿さんからは、まだ答えが聞けていませんから」


 和也の言葉に、椿は何とも嬉しそうに笑った。自身へ興味を持ってもらえることが嬉しいのだろうか。


「では、行きましょうか」


「何処に行くんですか? この場所でも誰も来ませんが……」


「ここではお茶が出来ませんからね。もう予約をとってあります」


 椿はそう言って、体を起こす。寄りかかっていた部分は壁ではなく扉だった。壁と同じ色で塗られているせいで同化しているが、ノブがある。

 そのノブを回して、椿が扉を引き開ける。

 扉の先は、コンクリート製の階段だった。ゴウと空気の通る音が遥か下の方から聞こえてくる。


「かなり急な階段ですから、足を踏み外さないようにしてください」


 椿の後に続き、和也はその階段を降りた。言われた通りかなり急斜面で、気を抜くと転げ落ちそうな程だった。照明も、疎らに設置された蛍光灯のみという頼り無さ。

 慎重に階段を下っていくと、ジメジメとした湿気が体に纏わり付く感覚がした。


「もうすぐですよ。慌てないでください」


 椿の優しげな声が聞こえた。足を滑らせそうになるため、正面を見ることが出来ない。

 階段を降り切った先は、同じくコンクリート製の巨大な地下通路だった。階段は非常口のように通路の壁にポカンと空いている。


「大阪駅の地下ですよ。凄いでしょう?」


 椿は何処か誇らしげな表情で言った。それは、元駅神という自身の立場がそうさせるのだろうか。大阪駅という同胞の体を褒め称えたい感情。


「凄いですね。こんな空間があったなんて……」


 和也は感嘆の声を上げながら、地下通路を見渡した。椿の言う通り、凄い空間だった。幅は五、六メートルだろうか、これ程広い地下通路が大阪駅の地下に存在するとは思ってもいなかった。

 ただ、照明は設置されているが薄暗く、排気ダクトの音なのか空気の流れる音が唸り声のように響いている。天井には電気設備のケーブルやダクトが張り巡らされ、怪しい実験施設に続いていそうな空間だった。


 ここで、和也の中に一つの疑問が生じた。先程椿が話した「ここではお茶が出来ませんからね」という言葉だ。どう考えても、ここでもお茶は出来ないだろう。

 つまり、彼が和也を案内する場所は、ここよりも更に先。


「こっちですよ」


 椿は、地下通路を見回す和也に一言声を掛け、後を付いて来るよう促した。和也はどこか少年の心を擽られる空間を眺めながら、椿の後ろを歩く。その時、ふと、奇妙な物体を見つけた。

 真っ白な羽毛のような塊。昔、この様な毛羽立った毛虫を見たことがあるな。と懐かしさを覚えながら顔を近づける。

 椿は、後をつけて来ない和也に気付き、足を止めて振り返った。


「椿さん、これ……何ですか?」


 和也は、その羽毛のような塊を指差して尋ねる。


「それは『カビ』ですよ。ここは地下水が流れていて湿度が高いですから」


 『カビ』と聞いて、和也は弾かれるように顔を遠ざけた。慌てて咳き込み、至近距離で吸い込んでしまった空気を排出する。「大丈夫ですか?」と心配する椿に咳き込みながら頷きだけを返した。

 数回咳き込むと、気持ちにも落ち着きが出てきた。椿と共に移動を再開する。先程「地下水が流れている」と言われたが、確かに耳を澄ますとチョロチョロと水の流れる音が聞こえた。


 大阪駅の立地する地域――所謂『梅田』と呼ばれる場所は、大昔は湿地だった。

 それを埋め立てたことから『埋めた』となり、やがて『梅田』と呼ばれるようになったのだ。そんな場所に地下空間を作るとなれば地下水との戦いは必須だろう。きっとこの空間を作る際にも想像を超えるような攻防戦が繰り広げられたに違いない。


 過去の技術者の努力に思いを馳せていると、通路の壁にそんな過去の遺産らしきものを発見し、和也は再び足を止めた。壁には消火栓や使われなくなった業務用設備等が置かれていたが、その遺産は一際異質な雰囲気を醸し出していた。


 それはポンプのようだった。バルブとメーターらしき計器が幾つか取り付けられており、繋げられている塩ビパイプが新しいせいか本体が異様に古びて見える。

 そして、そのポンプの背後の壁には、赤い文字で直接こう書かれていた。


『昭和丗四さんじゅうよ月貳十』


 最後は『貳十日』だったのだろうか? 丁度、十の次の文字の上に配電盤が設置されており、見えなくなってしまっている。


「それは地下水を組み上げるポンプです」


 不思議そうにポンプを眺める和也に、椿が告げた。


「まだ現役なんですよ、凄いですよね。ずっと……この駅を地下水から守るために尽力しているんです」


 椿は、まるで自身の子供を見るような優しい視線でポンプを見つめていた。


 ――彼が駅神だった頃、職員に向けられていた視線は、これと同じものだったのだろうか。


 椿のは、今何処で何をしているのだろうか? 駅神が亡霊になっていることを知っているのだろうか?

 和也の頭に生じ始めた疑問は、椿の発した「行きましょう」という声で遮られた。「はい」と短い返事を返し、和也はもう一度ポンプに視線を送る。

 自身よりも年上のこの遺産は、人間ではないが自分達と同じ様に駅を守る仕事を黙々とこなしている、立派な『鉄道員』なのだ。




 椿が「ここです」と言って指し示したのは、地下通路の突き当りに位置する金属製の扉だった。扉の上部の梁には注連縄が付けられており、中で何かを祀っていると思しき扉だ。

 駅、注連縄、祀る――この言葉の並びで想像がつくのは駅神だ。そして、椿の言った「お茶をする」という言葉。これで想像出来ないほど和也の頭は悪くない。


「もしかして……駅神様の空間でお茶するんですか?」


「勿論。あそこが一番落ち着けますからね」


 椿は、そう答えてニコリと笑った。

 駅神の空間を喫茶店のように扱って良いものなのか。と感じたが、椿も駅神だ。自分の空間をそう扱われて苦ではなかった……若しくは嬉しかったから大阪駅の駅神もそうに違いない。と考えているのだろう。

 だが、ここで再び疑問。


「ここから、どのようにして駅神の空間に入るんですか?」


 和也の疑問に、椿は扉を開けるという動作で答えた。扉の先には、木製の神棚に似た祠があった。その前には、金属製のベンチが二脚。


「ベンチに座って、駅神様に今から訪問するという意志を伝えてください」


 椿はそう説明すると扉を締め、先にベンチに腰掛けた。ベンチの背にもたれたまま目を閉じて俯く。数秒の後、椿の体が力無く倒れた。

 まるで眠りに落ちたような体の崩れ方だった。


「……椿さん?」


 和也は椿の肩を軽く叩いて呼びかけてみるが、反応は無い。


 きっと昨日の和也なら意識を失った椿を見て慌てふためいたことだろう。だが今は違う。霊が抜けて眠っている自身の体を目撃したのだから。


 和也は椿と同じ様にベンチに座り、目を閉じた。


 ――駅神様、これからそちらにお伺いします。


 そう念じ、体に起こるであろう異変を待つ。


 ……頭がクラっとした。車酔いのような脳が揺れる感覚。和也はひたすらに身を任せて、駅神からの歓迎の意志を受け入れた。




 頭のクラつきが治まり、和也は目を開けた。眼前に広がるのは、美しいローズガーデン。薔薇の花の香りが鼻孔をつく。辺りを見回し、様々な色の薔薇で構成されたトピアリーやタワーを眺める。

 本当に、心が洗われるような空間だ。


 和也が座っているベンチは、金属製のものから白色の木製ベンチに変わっていた。このベンチと、地下通路のベンチが繋がっているのだろう。


「ここが、正規の入り口なんですよ」


 椿の声が聞こえ、和也は顔を上げた。


「覚醒した時に使用した入り口は、営業中には使えませんからね」


 確かに椿の言う通りだ。駅営業中の時空の広場というのは、常に人で溢れている。職員が訪れるだけでも目立つのに忽然と姿を消したとなるとパニックになるだろう。


「さあ、お茶をいただきましょう。今日は、私がお菓子を用意しましたからね」


 椿は嬉しそうな笑みを浮かべると、待ちきれんとばかりに足早に駅神の元へと向かった。

 和也もベンチから立ち上がり、その後を追った。




 駅神は自身ので出来たての紅茶をカップに注いでいた。


「やあ、待っていたよ。座り給え」


 駅神は細かい皺の刻まれた顔に笑顔を浮かべて言った。和也は駅神の言葉に甘えて一足先に席に着く。椿も和也の隣の席に腰を下ろす。今日は覚醒時と違い椅子の数が三つだった。訪問の意志を伝えていたのだから当然だろう。

 テーブルの上にはカップが三つとチョコレートケーキが同じく三つ置かれていた。椿が用意したお菓子というのは、このチョコレートケーキのことだろう。


「ケーキ、美味しそうですね。ありがとうございます」


「私、チョコレートが大好きなんですよ」


「へえ! 何か意外です」


 和也の言葉に椿は「そうですか?」と笑い、視線をチョコレートケーキに向けた。


「大切な息子を思い出して……何だか心が暖かくなるんです」


 そう語る椿の表情は、駅神としての慈愛に溢れていた。

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