第22話 矜持
拡張された大阪駅は、駅神の結界内部と同等の変化を示していた。依代である薔薇の花が咲き乱れており、柵は木製の物に、床は石造りに変化している。
そして、駅を覆い尽くしていた疵泥の一切が消滅していた。
「今、大阪駅は駅神様の力に満ちている。疵泥が消滅したのはその影響だ、説明受けただろ?」
「はい。覚醒した時に、駅神様から」
和也は、教わったことを思い出しながら言葉を返した。心做しか、空気まで浄化されているようにすら思える。それほど、疵泥の与える視覚的影響は甚大だった。
石造りのクラシカルな床を踏み、木製のプランターに変化した自動改札機を横目に見ながら進む。プランターには、様々な色味のミニバラが丁寧に植えられていた。
振り返ると駅務室までがお洒落なログハウス風の小屋に変化しているのが見えた。
「餌が無くなったから奴らが騒ぎ出すぞ。しっかり武器握っていろ」
三条が、駅を唖然とした表情で見渡す和也に言葉を投げる。和也は三条に視線を移し「はい」と頷いた。声が、静まり返った駅構内によく響く。
三条の隣を歩きながら、慎重に蠢穢を探す。完全に腰が引けている和也と違い、三条は普段と変わらぬ足取りを保っていた。
そんな三条は、時折立ち止まっては革靴の底で何かを磨り潰すような動作を行っている。何をしているのかと、その足元を見る。尋ねるまでもなく、その行動の真意を理解出来た。石造りの床には、五センチ程はあろうかという大きなアリや黒一色のムカデが這っていた。三条はそれらを始末しているのだ。磨り潰された蠢穢は砂のように崩れ消滅した。武器を使わずとも始末できたのは、鉄道員の体に流れる駅神の力のお陰か。
「成熟した蠢穢だけが脅威じゃない。小さな蠢穢も見逃さないように、広範囲を確認しろ」
和也はそう三条から言われたが、自然と蠢穢が飛び出してきそうな物陰ばかりに目が行ってしまう。あらゆる物陰から蠢穢に見つめられている気がして、駅神の力に満ちたこの空間を美しいと感じる余裕すら持てなかった。
「二番線に飛んだぞ! 回り込め!」という声がどこからか聞こえてきた。分かってはいたが、もう戦闘は始まっているのだ! と改めて理解させられる。
三条の指導を受けながら小さな疵泥を潰し歩き、六番線ホームへと向かうエスカレータの前で昼間に見かけたスライム状の蠢穢をハルバードで斬りつけ始末した。蠢穢を斬りつけた感触は、土に鍬を振り下ろした時の感触に似ていた。実家の畑仕事の手伝いでよく行った作業を思い出す、ザクリといった感触。
停止したエスカレータを三条が降り始めようとした時、何かに気が付いた様子で素早く顔を左に向けた。視線の先にあるのはトイレだ。三条は「何かが動いた」と言いながら、足をトイレへ向けた。和也も、その後に続く。
トイレには直ぐに到着した。入口付近には何も異常は見受けられない。だとすればトイレの中か――
「二手に分かれて確認するぞ、井上は男子トイレを見てこい。個室が少ないから楽だろ?」
「え! ……でも――」
三条は一方的に決めつけると、和也の意見も聞かずに女子トイレに入って行った。
「一人かよ……」
そんな声が力無く漏れた。大人しくなっていた心臓が再び鼓動を激しくし始める。
和也はフライ旗がハルバードの形態をとっていることを再度確認すると、男子トイレに足を踏み入れた。
蠢穢が、直ぐに和也の視界に映った。奴だった。バッタに似た下半身……人間のような上半身……。トイレを非常にゆっくりとした動作で奥に向かって進んでいる。
和也は息を殺して、その気味の悪い後ろ姿に近づいた。
そろそろ攻撃範囲に入っただろう。とハルバードを構え、蠢穢に狙いを定める。肺の中の息を吐ききり、強く息を吸うのと同時にハルバードを振るった。
しかし、和也に武器を振るって誰かを直接斬りつけた経験など無い。訓練とは違う雰囲気に自然と力が弱まる。その人間のような背中に武器を振り下ろすことに、一瞬躊躇してしまった。
それがいけなかった。
ハルバードの鋭い先端は蠢穢の背中の中心に突き刺さったが、その刺さりは甘く蠢穢の討伐には至らなかった。異変を感じた蠢穢がすぐさま振り返る。真黒に塗りつぶされた顔に浮き上がった目が、和也を捉える。
弧を描いた口が、和也のトラウマを蘇らせた。
「ひっ……」
覇気のない声が漏れた。力が抜け、ハルバードから手が離れる。ハルバードは甲高い音を響かせてトイレの床を転がり、フライ旗の形態に戻った。
蠢穢がバッタの足で床を踏みしめながら和也へと近づく。昆虫の足が床と擦れ合って、カサカサと嫌悪感を刺激する乾いた音が鳴る。蠢穢は、武器を失った愚かな鉄道員を至近距離から舐め回すように眺めながら、気味の悪い呻き声を上げていた。
白い歯の並ぶ口が開かれた。涎のような粘り気のある液体が歯と歯の間に太い糸を引く。蠢穢の吐息の臭いと恐怖が混ざり合い、和也は猛烈な吐き気を催した。
突如、蠢穢が笑い声を上げた。耳が痛みそうな金切り声、気の狂った女性のような声だ。幸せそうに目を細め、大きく口を開けて笑い続ける。
蠢穢は暫く笑い続けると逃走を図ろうとトイレの出入り口に向かって歩き出した。その間もまだ笑い続けており、顔は和也の方向を向き続けている。
その蠢穢のニヤケ顔を、突如として赤と緑の双剣が貫いた。笑い声がピタリと止む。
蠢穢は自身に刺さった双剣を除去しようと手を伸ばしたが、双剣はその手ごと引き裂いた。残った体が激しく動き回っているが、目を失ったためか動きはぎこちない。小便器の並ぶ通路に向かってふらつきながら進みだそうとしたところを双剣によって斬り伏せられ、幾つものパーツに分割された。
蠢穢の破壊された頭や体は直ぐに砂のように崩れていき、やがて失われた。
蠢穢が消滅して初めて、和也は自身が殆ど息をしていなかったことに気付いた。腰を抜かしたように床に座り込んだ途端、肺が慌ただしく酸素を取り込み始める。膝が震えて立ち上がれず、落としたフライ旗も拾い上げられない惨めさに腹が立った。
「何やってんだ!」
三条の怒号が飛んだ。突然の大声に和也の肩が震える。三条は和也が顔を上げると同時に胸ぐらを乱暴に掴み、強制的に立ち上がらせた。その顔は、今までで最も怒りの感情に満ちている。
「お前、武器も持たずに何座り込んでんだ!」
「……す、すみません」
「すみませんじゃねーんだよ! お前、自分の職業が何か言ってみろ!」
「鉄……道員……です」
「鉄道員は蠢穢相手に腰抜かしたりしねーんだよ! お前やる気あんのかよ!」
三条は、喉が潰れるのではと思うほどの声量で和也を罵倒し、突き飛ばした。和也は受け身を取ることも出来ず、床に倒れ込む。
「そこでずっと座ってろ! 根性無しが!」
三条は、そう吐き捨ててトイレを飛び出して行った。激しい足音が遠ざかる。和也は立ち上がることが出来なかった。脈と呼吸は乱れたままで、冷や汗も止まらない。
三条の罵倒に対して、和也は何も反論することが出来なかった。自身が蠢穢の襲撃に失敗し、剰え武器を落とし腰も抜かす失態を犯したのは紛れもない事実。
「やる気があるのか?」と問われたが、今の状況では自信を持って「ある」とは答えられそうになかった。
――自分には、やはり荷が重いのだろうか……。
和也は、虚しく床に転がっているフライ旗を見つめた。耳を澄ますと、何かを叫ぶ声や金属音、さらには銃声のような乾いた音までが時折聞こえてくる。他の職員達は蠢穢の恐怖に抗い必死に戦っているのに、自信の情けなさは何なのだろう。
――自分に、この仕事は合わなかったのだ。
第四世代に相当する力を持っていても、仕事内容が合わなければ意味が無い。そもそも、その力も自身の力ではなく駅神の力だ。偶然、結界内への侵入を許されて、偶然、駅神に気に入られただけ。花を手に入れたのも偶然。
無駄に使えもしない力を手に入れた、ただのビビリで役に立たない男だ。
――力も使いこなせない初心者が自惚れてるんじゃねえぞ。
訓練の際に三条から言われた言葉が蘇る。確かに自分は自惚れていた、他人と違う自分に可能性を感じていた。自分が他の職員の分まで蠢穢を退治するんだ! と、強がっていた部分が心のどこかにあった。
だが、実際はこの状況。蠢穢の一匹すら始末できずに完全に足手纏になっている。
現実の厳しさに乾いた笑いが漏れたその時、出入り口に誰かの気配を感じた。
三条だろうか? 何も声を掛けてこないということは、相当怒っているか呆れているかのどちらかだ。きっと、未だに腰が抜けたままの役立たずな新人に、掛ける言葉も見つからないのだろう。
和也は、何もかもどうでもよくなった視線を出入り口に向けた。
大きな蠢穢と目が合った。
「…………あっ……」
吐息とともに、小さな声が零れる。蠢穢は三条が切り刻んだバッタの蠢穢よりも一回り程大きく、酷く爛れた赤茶色の皮膚を持つ肉塊のような姿だった。歪な球体である体の中央には真黒な穴が空いていて、眼球などは見えないが何故かその穴から強い視線を感じる。
先端が幾つにも枝分かれした触手を全身に生やしており、それを使って床を這うようにして移動していた。
和也は立ち上がろうとしたが、やはり上手く力が入らない。仕方なく、お尻を滑らせて蠢穢から距離を取った。蠢穢は和也から視線を外さず、触手を蠢かせながら様子を窺っている。
――鉄道員は蠢穢相手に腰抜かしたりしねーんだよ!
三条の叫んだ言葉が脳内で響き渡った。その通りだと思う。鉄道員は駅と乗客の安全を蠢穢から守るために、特別に駅神の力を与えられた存在だ。自分達しか蠢穢に対抗できないというのに腰など抜かしていられない。皆がその職務に強い矜持を持ち日々戦っている。
――矜持……?
その単語に、和也の胸が波打った。同時に、三条から「まだ矜持が足りない」と言われたことを思い出す。そうだ。あの時……そう言われた時、恥ずかしいだけでなく悔しかった。自身の中にまだ矜持が芽生えきっていないことが悔しかった!
――俺の心は、まだ鉄道員を続けたがっている! こんなところで諦めてたまるか!
和也は、視界の端に映っているフライ旗に手を伸ばした。フライ旗は床の上からふわりと浮き上がると、猛スピードで和也の手の中に収まった。
素早くハルバードに形態変化させ、跳ねるように立ち上がる。そして、蠢穢の奇っ怪な体を手加減せずに叩き切った。生肉を叩いた時のような湿った音とともに、蠢穢が二つに切断される。上半分が床の上に転がり、断面から崩れていった。下半分はまだ触手が蠢いているが、さらに半分にしてやれば倒せるだろう。和也は、今度こそ息の根を止めてやろうと再度ハルバードを構える。
その時、蠢穢の触手が和也目掛けて飛んできた。
「あ……」
声は出るが体は動かなかった。スローモーションのように迫りくる触手をただ黙って見つめる。
感情に任せて突っ走ってしまった自分の愚かさを後悔しながら触手の直撃を覚悟した時、トイレ内に銃声が響き渡った。蠢穢は銃弾を受けた反動で跳ね跳び、銃創から赤黒い液体を垂れ流しながら床の上を転がる。
奇跡的に回避したものの、危機的状況は間近にまで迫っていた。和也の中で恐怖感と安堵感が混ざり合い、全身から力が抜ける。
「大丈夫か?」
そう声を掛けられ、肩に手が乗せられた。顔を見なくても声の主が誰なのかは分かる。仕事を始める直前に「緊張するか?」と気遣う言葉を掛けてくれた、頼れる上司――
「神田さん……ありがとうございました」
神田は口元を僅かに緩めると「無事で良かった」と安堵の息を吐いた。そして「よくやったな。完璧だ」と嬉しそうに口にしながら、和也の頭を撫で回す。
和也は、父親に褒められた時の照れくさい感情を思い出し、口元が緩んだ。
「別の蠢穢に気を取られて逃してしまってな……。申し訳ない」
神田は、そう申し訳無さそうに話し、頭を掻いた。
「立てるか?」と神田に問われ、和也は体を起こした。少しふらつく和也を神田が手助けする。和也は壁にもたれ掛かり、深く息を吐いた。まだ緊張が抜けない、立っていることも精一杯だった。
「少し休むか?」
「いえ、大丈夫です! もう慣れましたから」
その言葉は真意だった。今まで非常に強い恐れを蠢穢に対して抱いていたのに、一体倒した途端にそれが晴れた。自身の中の「自分に蠢穢は倒せない」「敵う訳がない」という感情までが、蠢穢とともに打ち倒されたのだろう。
今は恐怖に支配されていた箇所に、強い自信が漲っていた。
――自分は、ただのビビリで役に立たない男ではない!
和也は、相棒のハルバードを清々しい気持ちで見つめた。
和也は神田ともにトイレを出て、構内の蠢穢の始末を続けた。もう、成熟した蠢穢を見ても動揺することはなかった。ハルバードを振るい、その気味が悪く穢らしい体を切り裂く。
とは言え、助役の神田は薙刀をプロのような手捌きで扱い、まだ武器に振り回されている和也とは大きな壁があった。例え自信が漲っても、まだ技術面での壁は厚い。そう思わせる動きだった。
そんな戦闘の最中、神田は空を飛ぶ蠢穢に対して、銀色のリボルバーを使用した。尋ねた所、この銃は『忍び錠』を形態変化させたものであると教えてくれた。
忍び錠とは、車両の運転席の扉を開けるための鍵で、乗務員としての登用が決定した際に駅神から頂くもう一つの力なのだとか。
「面白い特徴があってな……空薬莢で使用者の出身駅が分かるんだよ」
戦闘が一段落した時、神田が笑みを浮かべながら豆知識を教えてくれた。神田がリボルバーのシリンダーを開き、逆さまにして空薬莢を手のひらの上に落とす。
落ちてきたのは和也の想像していた空薬莢ではなく、『小さなバラの蕾』だった。
蕾は数秒の後、急速に枯れ果てて消滅した。
「バラの花なのは、俺が大阪駅の出身だからだ。鉄道員としての力を得た駅の依代の蕾が空薬莢になるわけだ」
神田は「面白いだろ?」と白い歯を見せて笑った。
「因みに、薬莢はシリンダーを閉じるといつの間にか装填されてる。装填される瞬間を覗いてみたいものだがな……」
神田はそう言いながらシリンダーを閉じ、リボルバーをくるりと回転させる。リボルバーは白い光に包まれ、忍び錠の形態に戻った。
「さあ、もうひと踏ん張りだ。まだ頑張れるか?」
神田の問いかけに「はい!」と答えようと口を開けた時、神使の蹄の音が背後から猛スピードで近づいて来た。
和也と神田が振り返ると、それに気が付いた神使が叫んだ。
「駅神様の空間に蠢穢が入り込んだ! 早く来てくれ!」
「何ですって!」
神田が血相を変えて駆け出そうとした瞬間、椿の声が響いた。
「私が行きます!」
和也は、声の聞こえてきた向かいのホームに顔を向けた。
その瞬間、信じられないことが起こった。
和也は、視界に映った光景に酷く困惑した。何故なら、椿が見せる動きは今日彼に掛けられた言葉と矛盾していたからだ。
――この駅に第四世代はいません。
椿は、時空の広場に宙を飛んで向かって行った。ホームから時空の広場へと、猛スピードで一直線に上昇して行く。その靭やかな体を翻して柵を越え、宙を泳ぐようにして素早く広場に入り込む。
手にする紅い日本刀で蠢穢を叩き切ったのか、蠢穢の苦しげな金切り声が広場から聞こえてきた。
「椿が近くに居たのか……。助かった……」
安心した様子で息をつく神田に、和也は声を荒げて質問した。
「神田さん! 椿さんは何者ですか? 今日、この駅に第四世代はいない。と聞きました! なのに――」
「第四世代はいないよ。それは本当だ」
「じゃあ……椿さんは何者なんですか? どうして第四世代でもないのに空中を移動できるんですか!」
神田は、どこか言いにくそうに視線を泳がせた後、言葉を放った。その言葉は、椿の見せた飛翔と同じくらい信じられないものだった。
「椿は一九九七年に廃止された『片町駅』の駅神だ。本来は死んでいる筈のな……」
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