第21話 初戦闘

「刺激が強かったか?」


 同情するような眼差しを浮かべる神田に問われ、和也は力無く頷いた。


 あの後、和也は蠢穢の姿を決して見ないようにしながら通常通りに業務を続けていた。しかし、和也の中の恐怖心は消えることなく、寧ろ急速に膨らんでいった。呼吸が上手くコントロール出来なくなり、そのせいで立ち眩みが起きてその場にしゃがみ込んだ。おまけに吐き気も込み上げ、和也は三条に引きずられるようにして駅務室に連れ戻されたのだった。

 その際に三条から掛けられた「根性無し」という罵倒が頭から抜けない。

 未だに繰り返し罵倒され続けているような気がして、胸がチクリと痛んだ。


「そう落ち込むな。誰だって、初めて蠢穢を見たらそうなるさ」


 神田が優しい声色で励ましながら、和也の丸めた肩を撫でる。そう言われても、自分が情け無いことには変わりない。駅務室の壁に寄りかかり、座り込んだまま立ち上がれないという有様。

 「申し訳ありません……」と消え入りそうな声で謝罪をした時、神田の後ろから長谷川がひょっこりと顔を出した。


「神田さんの言う通りだよ。気にしちゃダメ」


 長谷川は言いながら制帽を被った。これから外に出るのだろうか。


「三条くんだって強がってるけど、初めて外に出た時は井上くん以上に怖がってたんだよ」


 長谷川はケラケラと笑いながら、三条の恥ずかしい過去を許可も得ずに暴露した。すかさず神田が長谷川を注意するが、長谷川は怒られる理由が分からないと言いたげに眉を顰める。


「三条って、自分は最初から何でも出来た。って感じの態度取ってるじゃないですか何だか鼻につくんですよね」


 長谷川は腰に手を当てて捲し立てると、「調子に乗ってるんですよ」と言い残して駅務室を出て行った。

 神田は長谷川を目で追い、外へ出て行ったタイミングで「全く……」とため息混じりに口にした。


「家族の悪口はやめて欲しいな……。長谷川は、どうにもイライラしてるみたいだ」


 神田は困ったように頭を掻き、和也に向き直る。


「ともかく、すぐに慣れろとは言わない。だが、今夜までにはある程度耐性を付けてもらわないと仕事に支障が出る」


 和也は神田に「頼んだぞ」と肩を叩かれ、干上がった声で「はい」と答えた。



***



 数十分休み、和也は再び有人カウンターへと身を投じた。


「すみませんでした……今から復帰します」


 三条の隣に立ちながら、そう囁き声で謝罪する。謝罪を受けた三条は迷惑そうな表情を向けてきたが、すぐに目を逸らし「早く慣れろ」と吐き捨てた。

 和也はゆっくりと、自身を落ち着かせるように意識した呼吸をしながら、周囲の様子を伺った。

 先程の親子の姿は、もう無かった。足元でに興じていた蠢穢の姿も見えない。ただ、蠢穢が食事を行った箇所は綺麗に疵泥が舐め取られており、大阪駅本来の白い床が顕になっていた。


 和也は神田から能力の説明を受けた時、神田の言った『鉄道員の大多数は第一世代だ』という言葉に疑問を感じていた。世代を重ねるほどに強くなるなら、何故我が子に継がせないのか……。と。

 しかし、蠢穢を目撃した今なら分かる。


 ――このような光景は、我が子には見せたくない。


「蠢穢は……どこに行ったんでしょうか」


「濃い疵泥を落としそうな奴を探しに行ったんだろ。彼奴等は鼻がいいからな」


「濃い疵泥……って何ですか?」


「精神が不安定だったり、ストレスを多く溜めているような奴の感情が昂った時に発生する特別な疵泥のことだ」


「なるほど……だから、あの時――」


 和也は、若い母親から疵泥が排出された瞬間を思い返した。

 子育てでストレスが溜まっている状況、そこに追い打ちをかけるように子供の我儘――時間が迫っていた状況も相まって一気に感情が昂ったのだろう。

 結界の中に居たことで直ぐに排出されたが、普段はあれが心に溜まるんだな。と和也は思った。人生に悪影響があるのも頷ける。


「今、駅に塗れている疵泥は日々の小さなストレスによるものだ」


 三条は、改札近くの汚染された床に目を向ける。


「奴らの餌であることは間違いないが、成長途中の蠢穢しか余り食べようとしないな」


 三条は『六甲道駅』への行き方を尋ねてきた老婦人に経路を教えると、再開した。


「成熟した蠢穢はグルメでな、さっき話した濃い疵泥しか食べようとしない。小さなストレスで発生する疵泥は味が薄いんだろう」


 三条は「疵泥の味なんて知りたくも無いが」と付け足し、丁度やって来た女性客のICカード不良に対応し始めた。

 その間に、和也は絶え間なく人が行き来する改札機を見張る。とは言っても、何か問題が起きそうな雰囲気ではない。買い物袋を下げた女性や、一眼レフを首から下げた鉄道ファンらしき男性等、様々な姿格好の人達がICカードをタッチして通り抜けて行く。


 そんな中、和也は一人の女性に意識が向いた。

 それは、リクルートスーツ姿の若い女性。黒い就活用の鞄を提げている。ワイヤレスイヤホンを耳に入れ、表情に特筆すべき点もない。しかし、彼女が改札を通った瞬間、小さな三匹の蠢穢が素早く彼女に集った。その蠢穢は蠅に似た姿をしていたが、本物の蠅よりも大きく、その体には無数の足が生えていた。


 見ているだけで全身がムズムズしてきそうな姿をした蠢穢は、女性の匂いに惹かれるようにして後ろを飛んでいる。決して体に触れることはなく、一定の距離を保ちながら三匹仲良く飛んでいる光景は、どこかコミカルでもあった。

 最初に目にした蠢穢とは雲泥の差だが、あれも蠢穢であるという事実に変わりはない。和也は取る対応を迷った。女性を追いかけるべきか否か――追いかけるべき。との判断を下しかけたが、まだ和也は蠢穢の全てを知らない。あの蠢穢は追いかけてはいけない種類かもしれない。または、近づいてはいけない種類である可能性も否めない。


 三条にアドバイスを求めようと視線を向けたが、彼はまだICカード処理の最中だった。どうするべきか……。と迷いながら視線を戻すと、既に女性の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。



***



 その日の就業中、和也の目の前に現れた蠢穢は三種類だった。

 最初に目撃したバッタ、次の蠅、そしてスライムのような床を這う形容しがたい蠢穢。三種類目の床を這う蠢穢は『成長途中の蠢穢』である三条が教えてくれた。


 どうやら成熟した蠢穢は、特定の場所で濃い疵泥を待ち構えていることが基本らしい。勿論、鱗粉を撒き散らしながら。バッタのような蠢穢は珍しい行動的なタイプらしく、「幸せそうなニヤケ顔で駅を徘徊しているのが気持ち悪い」と、三条が表情を歪めながら解説してくれた。

 そんな三条の解説を挟みながらも改札業務は覚醒前とさして変わらずに進行した。幸いにも、バッタ型の蠢穢が再び和也の居る『連絡橋口改札口』に再びに来ることは無かった。



***



 和也は、ホームへと向かう階段を降りる。いつもより降りるのが遅いなと、自身でも感じられた。覚醒後の視界はひどく不快で穢らわしく、和也の精神を確実に蝕んでいた。

 何より和也を精神的に疲弊させているのは、恐ろしい姿をした蠢穢が突然飛び出してくるのでは。という恐怖感。あのバッタに似た蠢穢の悍ましい笑顔が気を抜くと脳裏に蘇り、冷や汗が吹き出て吐き気が込み上げた。

 ホームに降り立ち、慎重に足を進める。必要以上に目が動き、呼吸音は異常なほど荒々しかった。ベンチの上に今日は泥酔者は居なかった。ただ、ベンチの下にはビールの空き缶が転がっており、それに小さな蠢穢が張り付いていた。

 和也は空き缶を回収し、ゴミ箱に放り込んだ。衝撃で蠢穢が振り落とされ、散り散りになる。


 和也は、ホームの片側の端まで辿り着いた。こちら側の見回りは終了だ。

 次は反対側の端まで歩いての見回り。いつもなら何事もなく方向転換できるが、今日はその何気ない動作が恐ろしかった。何度も深呼吸を繰り返す。夜風に首筋を擽られ上ずった情けない声が漏れた。脈が乱れ、息が苦しくなる。

 この程度で音を上げていては、この後に待ち構えている仕事をこなすことなど到底不可能だ。神田にも今夜までには耐性をつけて欲しいと言われている。怖がっている暇なんて無い。

 和也はもう一度深呼吸すると、一気に後ろを振り向いた。

 背後に蠢穢の姿は無かった。安堵の息をつき、反対側の端までの長い歩みを開始した。


 結局、この終電後の見回りで、和也の前に成熟した蠢穢が現れることは無かった。

 ほっと胸を撫で下ろしたいところだがこれでは蠢穢に慣れることが出来ていない。目的は未達成だ。


 ――今の蠢穢に対する耐性では、何の役にも立てずに先輩達の手を煩わせることになってしまうのでは……。


 和也は一抹の不安を抱えながら、駅務室へと引き返した。



***



 和也は普段の勤務どおりに入浴や歯磨きを終え、ベッドに横になった。


 駅務室に戻った後、三条に「蠢穢の退治は何時からですか?」と質問した所「風呂に入って寝ろ」と返された。意味の分からない返答に、まさか戦力外だと見做されたのでは。という不安が過ぎったが、和也は言われた通りに行動したのだった。

 浴室での周囲の様子もいつもと同じで、何か儀式めいたことをしている様子も伺えなかった。

 本当に蠢穢の退治が行われているのだろうか。と変な疑いも持ってしまう。自身も蠢穢を倒す力を授かっているというのに。

 今日の仮眠室は十三番。そう言えば鍵を貰う時に島田に奇妙なことを言われたな。と彼の言葉を思い返した。


 ――夜中に目が覚めるだろうけど、そのまま起きているんだよ。


 どういう意味だろうか……。蠢穢の退治に関係あってほしい。と願いながら目を閉じる。だが暗闇が訪れた瞬間、蠢穢の顔がフラッシュバックして息が止まった。

 驚いて目を開き、脈と呼吸を整える。駅長に言われた余計な言葉が思い出され、小さく舌打ちをした。


 ――やっぱり、蠢穢の退治には関係していないでくれ……。


 和也は枕と布団で両耳を塞ぎ、出来る限り楽しいことを考えながら眠りについた。




 目が覚めた。ごく自然だった。誰かに起こされたわけでも、尿意を感じた訳でも無い。体を起こして周囲を見渡すが、部屋の明かりが消えていて何も見えない。


 ――本当に目が覚めた……つまり……。


 部屋の暗闇を見ていると真っ黒に塗りつぶされた顔が浮かびかけて、和也は素早く両手で耳をふさいだ。思い出しては駄目だ! ただでさえ暗くて怖いのに! と自身の心に問いかけていた時、仮眠室の扉がそっと開かれた。

 悲鳴を上げそうになった口に、耳をふさいでいた手を移動させる。心臓が、非常事態だと訴えかけるように暴れている。

 廊下は明かりが点いているようで、室内が僅かに照らされた。


「三条……さん?」


 三条は扉から顔を覗かせ、和也を手招きしていた。指示通り、ベッドから下りて扉へ向かう。


「どうされたんですか?」


「仕事だ。引き出しのフライ旗持って出ろ」


 そう話す三条は制服姿だった。腰に二色のフライ旗を差している。和也はベッドサイドテーブルの引き出しに入れられていた赤色のフライ旗を手にした後、着替えるために壁に掛けていた制服に伸ばした。すると、「着替えなくていい!」と引き止められた。


「でも、三条さんは制服じゃ――」


「いいから出ろ。後で説明する」


 和也はの頭は疑問符にあふれていたが、自身を無理やり納得させ、伸していた手を下ろした。方向転換し、出入り口で待つ三条の元へ歩み始めようとした時、ベッドに存在するはずのない姿を捉え戦慄した。


 自分自身が眠っていた。布団を頭まで被り横向きになって眠っている。和也は、今ここで三条の元に向かおうとしている。目が覚めて意識もハッキリしている。

 じゃあ、これは……誰だ? 自分は誰だ? 自分は本当に井上和也なのか?


「ボーッとしてんな! さっさと出てこい!」


 三条がボリュームを落として怒鳴る。和也は震えた声で返事をし、仮眠室を出た。

 廊下に出ると、三条が即座に扉を締めた。何の説明もないまま「行くぞ」とだけ言って歩き出す。

 和也は、ベッドで眠っていた人間のことで頭が一杯になっていた。三条に聞きたいことは山程あったが、質問する気になれない。自分に瓜二つの寝顔が脳裏に居座っている。その寝顔が蠢穢に変化しかけ、和也は強く歯を食いしばった。


 三条の後に続き、何が起きるか分からないまま駅務室に到着した。駅務室には、既に沢山の職員が集まっていた。朝礼の時と同じ並び方。二人でその後方に並ぶ。

 全員が制服姿だったが、寝間着姿の和也を奇妙な目で見る人は居ない。


「三条さん……あの、聞きたいことが……沢山……」


「声が震えてるぞ。情けないな」


 三条が抑揚のない声でポツリと呟く。そして「説明してやるよ」と、一つ一つ和也の疑問に答えていった。


「今、井上はたましいだけの状態になってる。駅神様の結界に入った時と同じ状態だ」


「駅神様の……! あ、そう言えば――」


 和也は、覚醒のお祝いの最後に駅神から言われた言葉を思い出した。


 ――君の体は、まだ霊を抜くことに慣れていない。


「じゃあ、あの時もベッドには自分が寝ていたんですか?」


「そうだよ。まあ、あの時にベッドを振り返る余裕なんて無いけどな」


 三条は苦笑しながらそう答え、腕を組んだ。


「この霊は、『鉄道員としての矜持ほこり』そのものだ。制服は矜持を示すもの……お前が寝間着姿なのは矜持が足りないからだ」


「矜持が……足りない……?」


 その言葉を受け、和也は周囲を見渡した。皆が和也の服装に異を唱えなかったのは新入社員――つまり、まだ矜持の弱い鉄道員だと分かっていたから。

 和也は、自身だけが初心者マークを付けているような環境に恥ずかしさを覚え、赤面した。三条は、半笑いで「そのうち制服姿で目覚められるだろ」と告げると、一転して真面目な顔つきなった。

 恥ずかしそうに顔を伏せる和也の肩を叩き、正面に注目させる。沢山の職員が見つめる列の正面に神田と神使が、それこそ普段の朝礼の時のように立った。

 周囲に視線を送ると、「さて」と言って口を開いた。


「今日は井上の初戦闘だ。皆、手を貸してやってくれ」


 職員達から次々に「了解です」と声が上がる。


「ありがとう。だが、くれぐれも構いすぎて蠢穢を逃がすなんてことのないように。以上」


 神田は話を終えると、神使に目配せした。神使は小さく頷くと、天井を見上げて「ピィーッ」と大きな鳴き声を上げた。


 その瞬間、目眩がした。結界に初めて入った時と同じ車酔いのような気分の悪さ。歪んでいく視界に直視できず、和也は目を閉じた。結界が拡張されたのだと言われなくとも分かった。先程の神使の上げた鳴き声が合図だったのだろう。

 目眩が治まり、和也は目を開ける。すると、和也の服装はあの時と同じく制服姿に変化していた。


「始め! 絶対に見落とすな!」


 神使のその声を合図に、職員が一斉に駅務室を飛び出した。各々のフライ旗を武器に変化させ、広い駅構内に散って行く。『知られざる仕事』の始まりだ。

 三条もフライ旗を抜き、双剣の形態をとる。和也が戸惑いながらもフライ旗を構えた時、神田が駅務室を飛び出す職員の間を縫って歩いて来た。

 右手には、刃の紅い薙刀が握られている。


「緊張するか?」


「勿論です……。蠢穢の姿にも、まだ慣れきれていなくて……すみません」


「まあ、仕方がない。三条にフォローして貰うしかないな」


 神田が三条を見遣り、頼むぞ。と目配せした。三条は、仕方がないと言いたげな表情で頷き、和也に視線を向けた。


「行くぞ。言っておくが、怖がっている場合じゃないからな」


「はい。分かっています」


 和也はフライ旗をハルバードに変化させると、蠢穢を掃討するため駅務室を出た。

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