第20話 疵泥と蠢穢

 訓練を終えた和也は、エレベータを二階で降りて駅長室へと向かっていた。訓練の途中で椿から「終わったら駅長に挨拶をしに行ってくださいね」と言われていたのだ。

 駅長室に向かうのはまだ二回目だが、通路は一本道。迷うことなく辿り着くことが出来た。

 一呼吸置き、扉をノックする。「どうぞ」と駅長の声が返ってきた。


「井上です。入ります」


 和也は自身の名前を告げて、久々に駅長室に足を踏み入れた。内装は特に変化しておらず、駅長も以前と変わらない様子で定位置に座っていた。


「わざわざ来てくれてありがとう。疲れているのにすまないね」


「いえ、大丈夫ですよ。少し休憩したので」


 和也は駅長に気を使わせないためにそう言ったが、実際は酷く疲れていた。

 三条の訓練は二時間ほど続き、運動部に所属した経験のない和也にとっては異次元の運動量だった。一時間ほどが経ったタイミングで一度休憩を挟んだが、許された休憩時間は十分程度。その際、和也は三条から「貧弱」と罵られた。三条は見た目の割に体力がある。恐らく訓練で鍛え上げられたのだろう。


 訓練の最中、三条の双剣を防ぎきれずに体に刺さることが数回あったが、どうやら鉄道員の武器は人間の体を傷付けることは無いようだった。それを知らされないまま刺された時は、危うく失神してしまうところだった。

 だが、傷付かないと分かっていても怖いものは怖い。首などを切りつけられたら今度こそ失神してしまうだろう。


 汗で張り付いた肌着の気持ち悪さが顔に出ないよう、普段通りの表情を繕う。いくら駅長とはいっても相手の感情を読み取るような能力は持ち合わせていないらしい。「そうか」と安心した様子で笑顔を見せ、節の太い手を机の上で組んだ。


「さて……。井上くん、覚醒おめでとう! これで、君は立派な鉄道員だ」


「ありがとうございます」


「君は、これから鉄道員として重要な仕事をこなしていくことになる。十分に気を引き締めてくれ」


「はい! この駅を守れるよう、全力を尽くします!」


 和也は、内に秘める本心を敬礼とともに発した。駅長は「良い返事だ」と笑いながら、息子の成長を喜んでいるかのような柔らかい表情を和也に向ける。


「本番は終電後の深夜だ。今のうちに蠢穢の姿に慣れておきなさい」


「蠢穢の姿……ですか。神田助役も言い表しにくい外見だと仰られていて、まだ想像がつかないです」


 神田からは蠢穢について、蟲のような奴もいれば動物のような奴もいる。と曖昧な表現でしか伝えられていない。和也は色々な姿の可能性を想像してみてはいるが、どうも上手くイメージ出来ないでいる。

 駅長は「そうだろうね」と、蠢穢の姿を上手く伝えられなかった神田に同意するような言葉を返した。


「私も、蠢穢の姿を伝えるのには難儀するよ。そもそも、初めて見た時は心臓が止まるかと思ったね」


「え?」


「夢に出て来てうなされたこともあった。今では平気だが、当時は本当に怖かった……」


 駅長は、そう話しながら昔を懐かしむような目を作る。その目に、過去に感じた底知れない恐怖が浮かんで見えた。



***



 和也は駅長への挨拶を終え三条とともに駅務室に戻って来ていた。目の前には、有人改札へと続く扉。しかし、この場所に立ってからもう三分以上は経っているだろうかと思う。

 和也の手は、扉のノブを掴んだ状態で硬直していた。ノブを回して外に出る勇気が無い。

 その原因は、駅長に掛けられた言葉だった。


 ――初めて見た時は心臓が止まるかと思ったね。夢に出て来て魘うなされたこともあった。


 まるで和也を脅す意図があるかのように語られた駅長の経験談が、和也の体を縛り付けている。


「早く開けろよ」


 背後から明らかに苛立っている囁き声が飛んできた。手のひらに汗が吹き出し、震えた息が漏れる。


「この程度のことで怖がっていたら、蠢穢の退治なんて絶対に出来ないぞ」


「……はい」


 唾を飲み込んで、今できる精一杯の返事をした。とても、自分でも笑ってしまう程に小さな声だった。


「開けろ」


 三条の声に触発されるように、和也は躊躇わないよう力を込めてノブを回した。

 扉を開く。夏の熱気を含んだ風が吹き抜けて来た。視界の奥には何度も立った有人カウンターが見える。カウンターの向こうには見慣れた大阪駅が――

 和也は、駅の様変わりした光景に鳥肌が立った。


きたないだろ? 本当、気持ち悪い……」


 三条が表情を歪め、吐き捨てるように言う。和也は有人カウンターに向かって、恐る恐る足を進めた。

 心臓が、身体の危機を感じ取っているのか異様な程激しい鼓動を続けている。和也の精神が「逃げろ」と叫んでいた。

 和也は有人カウンターに立った。利用客に怪しまれない様、出来る限り普段通りの呼吸を心掛けながら周囲を見渡す。


 大阪駅は、黒いヘドロ状の物質に塗れていた。床の上に黒いヘドロ状の物質が堆積しており、駅本来の真っ白な床の殆どが覆い隠されている。

 そして、そのヘドロを利用客は一切視認できていない様だった。平気な顔で踏み付け、歩みを進める。また、ヘドロには粘り気があるようで、接した面から離れる時に何本もの糸を引いていた。磨き上げられた革靴や、お洒落なスニーカーの靴底からも。


「見えてるよな? これが疵泥だよ」


 三条が利用客に聞こえないよう、小さく声を発した。見えているという意思表示のために小さく頷いたが、その動作すら困難なほどの強烈な視界。不快感から口の中に急速に唾が溜まり、和也は何度も繰り返し飲み込んだ。

 だが、その疵泥は改札外には一切堆積していなかった。見慣れた白い床が今までよりも眩しく見える。改札を隔てて描かれる白と黒のコントラストは、まるで天国と地獄の様相だ。


「どうして、改札の外には疵泥が無いんですか?」


 和也は三条に視線を移し、声を潜めて尋ねる。三条は「改札が結界の入り口だからだ」と教えてくれた。


「神社で例えるなら鳥居だな。改札の先からが駅神様の空間なんだ」


「なるほど……」


 和也は、三条の解説に頷きを返しながら視線を戻した。やはり、この視界には簡単に慣れられそうにはない。今までは随分と平和な世界を見ていたんだな。と、激しい鼓動が一向に治まりそうにない心臓を服の上からそっと押さえた。

 その時、三条が小さく舌打ちをし、「来たぞ」と囁きながら和也の肩を突いた。


「あっちだ。見ろ」


 三条が再び囁き、ホームへ向かうエスカレータが並んでいる改札内に向かって顎をしゃくる。和也は三条が顎で指し示した場所に目を向けた。


 衝撃的な光景に、息が止まった。底知れない恐怖を感じているのに視線を逸らすことが出来ない。思考が麻痺したように弱まり、『怖い』以外のことを考えられなくなった。同時に、言われなくても確信した。


 ――あれが、蠢穢だと。


 和也の視線の先――五、六歳と思しき子供を連れた若い母親の足元には、巨大な蠢穢がいた。姿は蟲に似ている。いや、蟲と呼ぶには些か動物らしさが強いだろうか。下半身はバッタに、上半身は人間に似ていた。

 蠢穢は、若い母親の足元に溜まった疵泥を夢中で舐め取っていた。和也からは、角度的に顔の正面が見えない。


 母親は時間を気にしていた。頻りに腕時計に目を落とし、その度に子供に何かを話しかけている。勿論、蠢穢には気づく素振りもない。ここからは子供の声が聞こえないため反応しているかは分からない。少なくとも、子供の頭は一切動いていない。

 ガラスに両手を付け、じっと真下のホームを行き交う鉄道車両を眺めている。


 母親がとうとう痺れを切らし、子供の手を強く引いた。子供は激しく抵抗し、母親の手を振り払う。その瞬間、母親の首元から突如として疵泥が滲み出し始め、粘度の高い塊となって床の上にボトリと落ちた。その疵泥は床を汚しているものとは違い、重油のような光沢を有していた。

 足元の蠢穢は、新鮮な疵泥の出現に興奮したのか不快な金切り声を上げ、バッタに似た腹部の気門から黒い鱗粉様の物質を勢い良く放出した。素早く疵泥の塊に飛びつき、顔を埋めるようにして食い漁る。


 和也は軽い吐き気を催し、何度も唾を飲み込んだ。その時、蠢穢が何かに反応したように動きを止め、振り返った。


 目が合った。


 慌てて和也は目を逸らす。心臓が激しく鳴り、嫌な汗が吹き出した。軽い過呼吸に陥っているのか、小さな呼吸が何度も繰り返される。

 蠢穢の顔は真っ黒に塗りつぶされていた。それなのに人間を模したような目はくっきりと浮き出ていた。口は異様なほどの弧を描き、その姿に不釣り合いな程の真っ白な歯が、びっしりと並んでいた。


 ――怖い……怖い……怖い……!


 心の中で呟き続け、両手を強く握った。蠢穢のもたらす恐怖感は、和也の想像の遥か上を行った。全身が激しく震えているような気がした。夢に出るのは当然だ、心臓が止まったっておかしくない。


 ――自分は、これからあの化け物を退治するんだ。


 和也は、自身に課せられた仕事の過酷さに、絶望に似た感情を抱いた。

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