第17話 失われていた邂逅

「和也、はぐれないように手をちゃんと繋いでおくのよ」


「うん」


 和也は母に返事を返しながら、母の手を握っている右手に力を込めた。母は人波が耐えない駅構内を見渡しながら、唖然とした表情を見せている。


「それにしても……凄い人だね」


「東京の駅って凄いね」


 和也も慣れない人混みに圧倒されながら、ありきたりな感想を零した。

 これ程の人々は一体どこから湧いてきたのだろう。と幼いながらに思う。東京の人間は忙しいのか、自分達より幾分か足が早いように思う。あっという間に追い越され、すれ違って行く。

 そんな目まぐるしく動く人波の向こうに巨大な建造物が見えた。和也は興奮し、思わず母の手を離す。駆け出した和也を引き止める母の声は人混みの騒音に掻き消された。


 和也は建造物の下に立ち、それを見上げた。

 それは巨大な動輪だった。三つ横並びに展示してあり、右上には『C6215』と書かれた現役時代のSLのプレート。側まで近寄ると思っていたよりも随分と大きく大迫力だ。この巨大な動輪が高速で回転し蒸気機関車を進めていた姿を想像し、和也は身震いした。


「お母さん! 凄いよ見て!」


 動輪を指差し、後ろを振り向く。そこに母親の姿は無かった。無数の人混みだけが蠢いている。


「お母さん!」


 もう一度叫んでみるが、母親は現れない。目の前を、和也の体ほどの大きさのキャリーケースが、ゴロゴロと音を立てて通り過ぎて行く。

 慣れない人混みと、初めての土地であることが、いつもの迷子とは違う強い不安を和也に植え付けた。心臓が激しく波打ち、全身が不安で埋め尽くされていく。

 先ほどまで興奮して見上げていた動輪が突然恐ろしい物に見え、和也は小走りでその場を離れた。


「お母さん!」


 溢れ来る人混みを避けながら、その中に母親を探す。だが、やはり地元ではあり得ないほどの人混みのために時折避けきれず、観光客のキャリーケースやサラリーマンの体にぶつかった。その度に涙が溢れ、視界がぼやけてくる。泣く訳にはいかない。と歯を食いしばった。

 とにかく母を探さなければ。和也は土地勘のない東京駅を再び歩き始めた。


***


 歩き続けていると、丸の内南改札に到着した。だが、そこにも母の姿は無かった。

改札口からは引っ切りなしに人が出入りし、和也の事など気にも留めようとしない。

 改札機の手前には、今朝母親と見上げた大きなドーム屋根がある。しかし、今は母親の姿は無い。和也と同じ年頃の女の子と母親が同じように屋根を見上げていた。

 その姿を見たことで、和也の不安と寂しさは最大になった。


「お母さん! どこ行ったの!」


 力いっぱい叫ぶと、目に溜まっていた涙がボロボロと零れた。


 その時だった。


 突然激しい立ちくらみに襲われ、その場に尻餅をついた。立ちくらみは一瞬で治まり、和也は涙を拭いながらゆっくりと立ち上がった。

 目を開けたとき、視界に広がる光景に和也は呆然とした。


 溢れかえっていた人混みは消え失せ、人っ子一人いないのだ。先程までの喧噪も嘘のように消え、耳鳴りがするほど静かになっている。

 一際異質だったのは、ドーム屋根の下の広場が綺麗に整備された庭に変貌していたことだ。アイアン製のフェンスやベンチ、鳥の巣のようなハンギングチェア等が置かれ、まるで個人の庭園であるかの様相。置かれた品々には大量の謎めいた蔦が巻き付き、緑色の葉を伸ばしている。所々で白い花が咲いていた。


 そんな広場の中央には、立派なガゼボが設置されていた。


 和也は突然の環境の変化に戸惑い、しばらく動けずにいた。だが、立ち止まっていては母は見つからない。この不思議な空間には居ないように思えたが、和也は勇気を出して一歩を踏み出した。

 様変わりした広場の様子に目移りしながらも、一番目立っている中央のガゼボに近づいてみる。そのガゼボは柱やフェンスに非常に細かい装飾が施されており、かなり品質の良い物だろうと思えた。ガゼボにも例の蔦が夥しく巻き付いており、そのせいで中の様子は分からなかった。

 和也は中に入れないかと、入口を探してガゼボの周囲をぐるりと回り歩いた。


 その時に、和也はあることに気がついた。広場の周りが霧に覆われているのだ。

 駅舎の壁も、改札口も、みどりの窓口も、入ってきたはずの出入り口も霧の中で見えない。ここは本当にどこなのだろうか……。

 心を包み込むように増大する不安に負けそうになりながらも足を進めていると、入口を発見した。入り口は、改札口側――つまり、和也が最初に居た場所の真裏にあった。


 入り口から、そっと中の様子を伺ってみる。ガゼボの中心には黒色のアイアン製のガーデニングテーブルとチェアが置かれており、テーブルの上にはティーセットが乗っていた。金の縁取りがされている白色のカップには紅茶が注がれており、まだ仄かに湯気が立っている。


 ――誰もいないのかな。


 そんな事を考えながら恐る恐る中に足を踏み入れた。注がれた紅茶を覗き込み、小さく息を吹いてみる。水面に波紋が出来、茶葉の良い香りがふわりと漂ってきた。林檎のような香り。和也は、大好きなチューイングキャンディを思い出した。


「誰かいないの?」


 そう声を上げるが、返事は返ってこない。


「紅茶、飲んじゃうよ」


 アイアンチェアに座り、ティーカップに手を伸ばした時だった。


「こら」


 突然、背後から伸ばした腕を掴まれた。白い手袋をしている大きな手だった。


「うわ! 誰!」


 急な登場に驚き声が裏返る。頭を倒して背後を見上げると、白い詰め襟を着た初老の男性が和也を覗き込んでいた。

 髪は真っ白で、年齢は和也の祖父と同じくらいだろうか。だが不思議と、この男性はもっと長い年月を生きているように思えた。


「人の紅茶を勝手に飲んではいけないよ」


「あ……ごめんなさい」


 和也が呆然としながらも謝罪すると、男性は皺の刻まれた顔に笑みを浮かべ、和也の腕を開放した。男性は和也の向かい側の椅子に腰を下ろすと、ティーカップを持ち上げて紅茶を一口飲んだ。


「何茶?」


「これはカミツレ茶だよ」


「カミ……ツレ?」


 和也は、初めて聞くお茶の名前に首を傾げた。


「カミツレは、白い花びらが可愛らしい花だよ。このお茶には、リラックス効果があるんだ」


 男性は如何にも癒やされているといった表情で、再びティーカップを口元に運ぶ。


「ふうん」


 和也は興味なさげに呟きながら、ガゼボの内側を眺めた。フェンスにはびっしりと蔦が絡みついており、所々に咲く白い花は和也達を監視するかのように全てが内側を向いていた。良く見ると花の中心の雄しべはかなり大きく、紫色の目が付いているように見える。

 初めて見る、少し不気味な花だった。


「変な花……。僕達のこと見てるみたい」


「これはクレマチスという花だよ。この駅を守っている大切な花なんだ」


「クレマチス……? 知らない」


 和也は視線を感じてしまいそうな花から視線を外すと、再度、正面に座る男性を見つめた。


「ところで、おじちゃん誰?」


「私は、この駅の神様だよ」


「神様!」


 発せられたまさかの言葉に、和也は驚愕した。神様を見たのは初めてだった。

 本当に人間と同じ様な見た目をしているんだ! と驚きながら男性の上半身に視線を這わす。絵本で読む神様は、願いを叶えてくれることが多かった。この神様もそうなのだろうか。


「神様だったら、願い事とか叶えられるの?」


 和也の質問に、駅神は目を丸くして驚いた様子を見せたが、すぐに柔らかな笑顔に戻して言った。


「どんな願い事を叶えたいのかな?」


「お母さんが駅の何処にいるか知りたいんだ」


「ふむ……」


 駅神はティーカップを置き、顎に手を当てて小さく呟いた。そして、宙を見つめ何かを考えるように黙り込む。和也は駅神の真剣な表情を眺めながら、彼が言葉を発するのを待った。


「うむ。案内してあげよう」


「本当に! 分かるの?」


「勿論だとも。私はこの駅の主だからね」


 自信有りげな表情で言い紅茶を味わう駅神を、和也は羨望の眼差しで見つめた。


 ――本当に神様なんだ! お母さんの居場所が分かるなんて!


「じゃあ行こうよ! お母さんが心配しているから戻らないと……」


「まあ、落ち着きなさい。私は居場所は分かっても君を連れていくことは出来ないんだよ」


 駅神は「お母さんが近くに来るまで待っていよう」と告げ、慌てる和也とは対象的に冷静な様子を見せた。紅茶を一口飲み、満足そうに息を吐く。


「君は、何処から来たのかね?」


「兵庫県」


「ほう。兵庫県の?」


「篠山市味間南――」


「細かい住所を言う必要はないよ」


 駅神は住所を言い切ろうとする和也を止めると、余程面白かったのか口を開けて豪快に笑った。

 和也は、神様も笑ったりするんだ……。と口を開けて愉快に笑う駅神を眺めた。


「篠山は好きかい?」


 駅神は目を細めて、父親のような眼差しで問いかけた。和也はその問いかけに、当然と言わんばかりに大きく頷いた。


「もちろん」


「そうか。では東京は如何かな?」


「東京は人が多くて窮屈……。働くなら大阪かな」


 和也は、この年齢で既に将来の具体的な展望があるかのように言った。少し大人ぶった受け答えに、駅神は微笑みを返す。


「そうか。残念だな、私の息子になって貰おうと思ったのだが……」


「息子? 僕はもうお父さんがいるよ。変なの」


「いや、そういう意味では無いのだけれどね……」


 駅神は苦笑いを見せたが、何かに気がついたように表情を戻した。数秒の後、少し寂しそうに目を伏せた。


「お母さんが近くに来る。そろそろ行こうか」


 そう言って立ち上がり、椅子から降りた和也の小さな手を握った。ガゼボを出て、和也の入ってきた場所へと歩き出す。


 その道すがら、やはり和也はこの空間に咲き乱れる白い花が気になっていた。よそ者を監視する目のような紫色の雄しべが、異様な存在感を放つ。


「花が気になるのかい?」


 駅神に問われ、和也は視線を花から駅神に移した。


「私は君を気に入ったんだよ。そうだな……お土産に如何かな?」


 駅神は和也と目を合わせ、悪戯っぽく笑う。


 和也は駅神に促されるようにして、恐る恐る花に手を伸ばした。近くで見るとより不気味さが際立つ。今にも雄しべが分離して襲い掛かって来そうだった。


 ――こんな花をお土産になんて、変な神様。


 和也はそう思いながらも、好奇心から伸した手を引っ込められなかった。花びらの柔らかい感触を手の甲に感じ、薄気味悪さに鳥肌が立つ。だが、その際に思わず力が入り花を摘んでしまった。

 駅神は花が摘まれたことに非常に驚いた様子だったが、直後に嬉しそうに笑い出した。笑いながらも、「凄い凄い」と声を上げている。


「その花は持って帰って構わないよ。摘んだのは君が初めてだ」


「僕が初めて? 僕以外にも試したの?」


「何度かね。別れ際には、今のように手土産を勧めるのだが……皆怖がって触れることすら嫌がるんだよ」


 駅神は、「こんなに綺麗な花なのに……」と寂しげに呟きながら腰を折り、和也の頭を撫でた。


「だから、今とても嬉しいよ。やっと手土産を渡すことが出来た」


 駅神の余りにも嬉しそうな表情につられるようにして、和也は右手に持つクレマチスの花に視線を落とした。白く大きな花びら、別の植物のような紫色の雄しべ。何度見ても空想上の植物のよう。


「やっぱり……変な花」


「そんなことを言わないでくれ。さあ、いい加減時間だ」


 駅神は和也の両肩を掴み、本来なら出入り口のある場所に身体を向けさせた。霧に覆われて真っ白な世界が、視界を覆う。


「その花は大切に持っているんだよ、それは私の一部なのだからね。また会おう、和也君」


「え? どうして僕の名前――」


 驚いて後ろを振り返ろうとするが、途端にこの空間に突入した時と同じ立ち眩みに襲われ、尻餅をついた。



***



 ――僕は、何をしていたんだっけ……。


 和也は、記憶の一部が抜け落ちているように感じ、首を傾げた。ぼんやりと東京駅のドーム屋根を眺めてみるが、何も思い出せない。


「和也!」


 名前を呼ばれ、和也は振り返った。聞き慣れた声。予想通り、駆けてきたのは母だった。和也の体を強く抱き、頭を何度も撫でる。


「どこに行っていたの! 凄く探したのよ!」


「ごめんなさい……」


「もう、勝手に走り出したりしたら駄目よ! 約束してね」


 母が和也から体を離して、そうキツく言い聞かせる。その時、母は和也が手に奇妙な物を持っていることに気がついた。


「和也、それ何? 花?」


 和也は、そう言われて初めて手に持っている花の存在に気付いた。視界に紫色の雄しべを捉えた時、背筋がゾクリとした。


「何だか気味の悪い花ね。小さいのに凄い存在感……。これ、どうしたの?」


「拾った」


「どこで?」


 母の問いかけに、和也は頭をフル回転させて記憶を探った。だが、どうしてもこの花を拾った記憶は無い。いくら探っても心当たりすら無いのだ。


「分からない。覚えてない」


「何それ……気持ち悪いわね」


 母はそう言いながら、腕時計に視線を向けた。途端に、驚いた様子で立ち上がり和也の手を強く引いた。


「新幹線の時間になっちゃう! 和也、急いで!」


 和也は母に手を引かれ、足が縺れそうになりながらも改札前の広場を走り抜けた。

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