諦観 feat. 楓
私は、彼という人を正しく理解している。
毎日着るものを選ぶのが難しい。そんな季節がやってきた。
私はまだ手袋をするほどでもない、マフラーをするほどでもない気温の中、落ちてゆく陽を見て寒くなる前に帰ろうと、少し足を速める。
アパートの二階まで階段で上がって、鍵を取り出してガチャリと開け、中に入る。
「ただいまー」
電気をつけ、声をかけるも返事がない。
時刻は十九時。誰も居ない室内に、同居人は残業かなあなんて考えながら、中身の入ったエコバッグを持ってリビングに移動する。
リビングの隅には布団一式があって、そこが私の寝床だ。
第一志望の大学生に合格して上京するとなったとき、家探しをしていて、家賃の高さに驚愕した。
そのうえ娘の一人暮らしということで心配性が爆発していた母は、妙案を思いついたと言ってその場で私の了承を取らず、急に電話をかけだしていた。
母が名前を呼ぶ声で相手が誰なのかわかりギョッとして、「ちょっと」と電話を奪おうとしたけれど、母は近年見ない機敏さで私の妨害を交わし続け、談笑の後、あろうことか相手方の了承が取れたようだった。
十歳年上の従弟の正司くんは、1DK、風呂トイレ別の部屋に私を快く迎え入れ、事も無げに言ったのだ。
「俺だって、楓が一人暮らしなんて心配だよ。もっと早く言ってくれればよかったのに」
そう、兄の顔で頭を撫でて。
(……わかってるけどさー)
十歳も年上で、私のオムツを変えたことまである人だ。私を女として意識することなんてないと、理屈ではわかっている。
でも、だけど、だからって。
(ちゃんとしっかり成長したんですけど……)
自分の胸をわしっと掴んでみる。そこにはふっくらとした山が二つ、ちゃんとある。大きくはないけれど、小さくはない。普通だ。
(男の人って、胸があれば女の子って認識するもんだと思ってたなー)
ちょっとお風呂上りに軽装になっていたり、寝転がってお腹が出ていたり、そういう時、何かしら苦言が飛んでくるけれど、それも赤面するようなものではない。
風邪ひくから、だらしないから、とそんな理由を頭に付けて、重装備――というほどでもないけれど――を言いつけてくる。
長年一緒に暮らして扱いを心得ている父よりはるかに口うるさい。
女子大生の生足にだって反応しない。
凄いのだ。正司くんは。名前の字面そのままに成長した人だ。
ガチャッとリビングのドアが開く音がして、それと共に「ただいまー」と声がする。返事をしようとした私と目が合って、正司くんは少しだけ目を丸くした。目線は自分の胸をつかんでいる私の手に向いている。そして小さくため息をついて言うのだ。
「やめなさい。まったく」
「楓はなんでそう、よくわからない事するかなー」などとボヤキながら、ネクタイを外し、自分の部屋に着替えに行った。
悪かったな! と思いながら、悪いことをしたという思いは微塵もない。心の中では漫画のように舌を出している。
「今日お鍋にしようと思うんだけど」
「お、いいな。白菜」
「なんで白菜単体? 大根、にんじん、えのき、椎茸、あと白身魚と、つみれも入れようと思うんだけど」
「美味そう。そういえば、つくねとつみれってどう違うんだ?」
「つみれは丸めないんだよ」
「へえ」
持って帰ってきたエコバッグの中から、ガサガサと中身を取り出す。
二人暮らしで時々外食もすることもある。近所にスーパーがあるから、食材を無駄にしないように、こまめに買い物に行く方だ。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、材料をトントンと切る。
鍋は材料が多いけれど、私は割と食材を切るのが好きだ。無心でトントン。すぐに目の前に結果が現れるのが気持ちいい。
まずは火が通りにくいもの。大根、ニンジン、白菜の芯のところ。きのこ。それから、白身魚は勝手にほぐれるので切り身を丸ごと入れる。
火は弱火。蓋をして、白菜の芯が透き通っててきたら、美味しそうなだしの香り。
みじん切りにしたネギと鶏ミンチを合わせ、水切りした木綿豆腐でかさましをする。塩コショウで薄味を付ければ、シンプルなつみれの完成だ。
これが、市販の鶏だしとものすっごく合うのだ。
「いい匂いするな」
「でしょ。市販の鍋つゆだけどね」
「大学行ってバイトもして、簡単にできるならそれに越したことないだろ」
正司くんはグルメじゃない。しかも料理ができない。それが、一緒に暮らし始めて一番の驚きだった。
十歳も年上だと、完璧なイメージがついたって仕方がない。
頭のてっぺんから足のつま先まで真面目な正司くんは当然、炊事洗濯掃除もなんだってできると思っていた。
流石に洗濯や最低限の掃除はできるみたいだったけど、意外と片付けと料理がダメで、私が来るまでずっとコンビニ弁当だったらしい。
今の時代、できなくたって困らない。コンビニのお惣菜は年々美味しくなっているし、お弁当だってなかなかのボリュームだ。栄養の偏りなんて、サプリメントでなんとでもなる。
らくちん料理でもなんでもいいから、手で作った温かいものを食べてほしい。なんてのは、きっと私のなけなしの母性なのだろう。
「しばらく煮たらできるから」
「楽しみだな」
私だって楽をするときはある。近所のスーパーのお惣菜は、手軽に揚げ物が食べられて良い。
けれど料理をした時に、正司くんはいつも楽しそうにしてくれる。それが嬉しくて、私は私のために料理を作っている。
「俺も料理覚えないとなー」
「え、するの?」
二人で洗濯物を畳みながら、彼がそんなことを言う。
思春期でもないので、一緒に洗濯物を回すし、下着を畳まれたって恥ずかしくない。初めは少し照れ臭かったけど、今となってはただの布だ。
「楓にばっかりさせるのもな」
「へー、そんなこと気にしてたんだ」
「そりゃ、本当なら俺が楓に体にいい物を食べさせる側だろ」
「わはは。そんなの最初から期待してないよ」
「酷いやつだなー」
だって、正司くんは私の親じゃないんだから。
軽口を叩きながら、手際よく片付けていく。
私の服は、リビングの端にあるカラーボックスに入れる。突っ張りポールでカーテンのようにして、一応目線を隠している。
「収納も、もっと増やしていいんだからな」
「聞き飽きたって。欲しかったら買うから大丈夫だよ」
「本当は部屋もなー、逆の方がいいよな」
「いいんだって」
どうせ私は大学生活が終わったら出ていくのだ。家主が一部屋持つことの、一体何がおかしいのだろう。
私の荷物が少ないことも、年頃の娘がリビングで寝ていることも、私が家事を率先してすることも、正司くんは少し気になるらしい。でも私はこの生活に不便を感じていない。
「料理、覚えるなら何がいい?」
「え、本気? 本気なら、お味噌汁かカレースタートでしょ」
「そんなレベルかー」
「出汁は顆粒でいいけど」
「手抜きだなー」
「こだわらないなら楽しないと、長続きしないよ」
その言葉に納得したらしく、けれど何か納得していないらしく、正司くんはうーんと考えこんでいる。
私は放置していた鍋の蓋を開け、中身を確認した。
金色の出汁が良くしみた、美味しそうな白菜、大根。火の通ったつみれ。これなら全部美味しいに決まっている。
「できたよー」
声をかけると、正司くんが鍋掴みを付けて、コンロから鍋を奪っていった。
私は鍋敷きを持ってリビングのローテーブルのど真ん中にそれを置く。お玉を乗せる用のお皿と、別に鍋用でもなんでもないお玉。若い男性の家なんて、百パーセント食器が揃っているわけじゃない。
(鍋用のレンゲ、買おうかなあ)
寒くなってきたし、鍋はこれからも頻繁に食卓に登場するだろう。普通のお玉じゃ、食卓で使うにはちょっと長い。
お茶やお箸を用意して、クッションをお尻の下に押し込んで、二人テーブルを囲む。
「いただきます」
声を合わせて言って、取り分けるのは自分の分は自分でだ。
猫舌なのに、正司くんが食べるより先に一口目を頬張る。美味しいに決まってるけど、先に味を確認したい。美味しいとわかっているからと味見をしなかったけれど、彼より先に食べて安心を得るのだ。
「うん、いける」
そして、彼より先に感想を言う。
「ほんとだ、美味い。つみれ凄いなこれ」
「簡単だよ、それ」
そんなふうに、なんてことないように見せながら、内心はすごく喜んでいる。
正司くんは簡単と聞いて何かを考えているらしく、またうーんと唸っていた。
「……鍋から教わろうかな」
「材料切るだけなんだけど」
「材料切るところからやらないとなと思ったんだよ」
「自分でハードル下げたね」
鍋の中身はどんどん減っていく。どうやら本当につみれがお気に召したらしい。
「というか、時間が間に合うときは楓を手伝いながら勉強するよ」
「そう? いいけどさ」
二人でキッチンに並ぶ様子を想像すると、口元が緩みそうになる。
いけないいけないと、熱々の白菜の芯を頬張った。熱さに涙がにじむ。でも、美味しい。
いつも、後片付けは正司くんがしてくれる。作ってくれたんだからって。なら、一緒に作ったら、片付けも一緒にできるだろうか。
想像するに、新婚さんだ。
お腹いっぱいまで食べた私は、キッチンで食器を洗う正司くんの後ろ姿を見ていた。
生まれてからずっと、私より大きな身長。男性を感じさせるくらいには広い肩幅。短い髪。
洗濯物も掃除も任せきりにならないところ、一人暮らしならやらなかった自炊を、しようだなんて考えてくれるところ。
こうして一緒に暮らして、余計に思う。ああ好きだと、眺めるだけで詠嘆しそうになる。
「どうしたんだ?」
「なんにもー。後片付けありがとう」
「こちらこそ、飯作ってくれてありがとうな」
「お前本当にいいやつだなー」なんて言いながら、正司くんは私の頭を撫でる。本当に大切そうに、妹を慈しむように、撫でる。
知っている。正司くんが私を愛しんでいることは。見ればわかる、聞けばわかる。優しい目と、声。
私の愛おしいとは違っても、私を愛しんでいるのはわかっている。
でも違うから、私を抱きしめてはくれないのだ。
「もっと撫でて」
そう言ってずいっと頭を差し出せば、「急に甘えたがりだなあ」なんて言って、撫でてくれるのだ。その指先が優しいのに、何かが足りない。何かではない。足りないものはわかっている。
(いつになったら、女として愛してくれるかな)
それとも、そんな時は来ないのだろうか。
正司くんの手が離れ、彼はテレビをつけながらテーブルの向かいに座った。
歳の差なんて関係ない、なんて、嘘だ。おしめを換えた、換えられた仲なのだ。今が違っても、その事実が私たちの間にはある。
きっと彼は、私が抱きしめてと言えば、あやすように抱きしめるだろう。けれど、私が言い出すまではそんなことはしてくれない。
そして、好きだと言った時に返してくれるかは、彼を正しく理解している私にも、まだわからない。
この穏やかな日常を壊してまで、言いたくなる日が来るだろうか。ふと、考える。
この穏やかな日常が終わるとき、言ってから家を出られるだろうか。
どちらも私次第で、言わなければきっと何も変わらないのだろうと、わかっている。
でも言ってしまえば変わってしまうと、わかっている。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
取るに足らないバラエティ番組をぼーっと眺めながら、どんなに仲が良くたって、どんなに上手くやったって、難しいことがあることを、私はまた深く頭に刻む。
focus 篠崎春菜 @shinozakiH_180
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