晩旬の苦
印田文明
晩旬の苦
特に意味があるわけではないけれど、毎日美術館を訪れる。
訪れる、というと仰々しくも聞こえるかもしれないが、自宅の隣に寂れた美術館があり、行きも帰りもその美術館の前を通るものだから、ただ前を横切り続けるのはなんとなく申し訳ない気がして通っているだけにすぎないのだ。
年間パスポートは五千円で買えるし、開館している日は毎日行くと考えると安いものだ。
べつに蔵品に興味があるわけではないし、作品も全く変わらないので、本当に中を一周、さらっと歩くだけである。
この習慣をいつから始めたのか思い出そうとしたが、特別な日に始めたわけではないのでもはや思い出すことはできない。とはいえ、息子が独り立ちする前からやっていたことはなんとなく覚えているので、ぼちぼち五年になるだろうか。
最初の数日は妻も一緒に通っていたはずだが、いつの間にやら飽きてしまったようだ。
今日も今日とて美術館を訪れる。いつも通り作品は横目で見る程度で、なんなら多少早歩きで館内を進む。最初こそ、美術館にある種の神聖さというか、特別性を感じていたが、今となっては駅前の雑木林と変わらない。ただただ通過していく景色の一部としてしか認識しなくなっていた。
美術館最奥の角を曲がったところで、私は珍しく足を止めた。
最奥に掛かっていた絵は確か『芽吹』と命名された新緑の絵だったはずだが、今は『晩旬の苦』という蹲る男の絵に変わっていた。
気持ち悪い、と素直に思った。
『晩旬の苦』がどうこうという話ではない。五年もの間不変だったこの美術館が、私の日常が変わってしまったことが、とてつもなく気持ち悪かった。
次の日も、なにかの見間違いだったのではと思い美術館を訪れたが、最奥の『晩旬の苦』は変わらず私を睨みつけていた。
感じたことがないほどの強烈な異物感が私を襲う。
きっと私は目まぐるしく変わる日々の中で、この美術館に安寧を投影していたのだ。
この美術館が不変であってくれたからこそ、上司に叱られた日も、息子が巣立った日も、妻が目覚めぬ眠りについた日も、「陽はまた昇る」ということを忘れずにいることができた。
美術館が変わってしまったことに、『晩旬の苦』という異物の存在に、私は耐えることができない。
日々の変化に、私は耐えることができない。
私がこのカプセルを飲んだ後も、世界はきっと変わらず営まれるだろう。いや、変わらず変化しながら営まれる、と言った方が正確か。
変化は世界にとって当然であり、美術館という小世界にとってもそれは同様だろう。
その変化に対応できない私こそが、真の異物だったというわけか。
皮肉なものだ、と笑いながら、私は奥歯でカプセルを噛み砕いた。
了
晩旬の苦 印田文明 @dadada0510
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