第一章 統合参謀本部戦史編纂部第一課

黒衣の愛国者

 闇は悪の揺籃、夜は魑魅魍魎が跋扈する。


 フォルミカ国首都オルテンシア西部の再開発地域アコニト区。


 昔ながらのレンガ造りの建物が並ぶこの区画はほとんどの住民が立ち退いている。残っているのはここを終の住処と決めた老人か、他に行く当てのない住人、あるいは他区から流れてきた浮浪者が勝手に住み着いたか、もしくは不逞の売国奴である。


 共和国新暦十三年の三月三十一日、年度末だというのにこの夜も売国奴どもは敵国であるアイゼンレーヴェ帝国の工作員とのよからぬ密談に耽っている。


 普段なら、短い逢瀬の後、彼らはそれぞれ帰途につくはずだった。


 しかし、今日の彼らにはもはや戻るべき場所もなければ、帰り道もない。家に帰れば、最愛の妻にただいまのキスをし、幼い子の寝顔を見て、心安らぐこともできないのだ。


 売国奴はそれだけの罪を犯した。彼らはいずれも革命の時流に乗り、社会で相応の地位に就いたにも関わらず、国を売ろうとしたのだから。


 彼らにその自覚はなかった、あるいは薄かったのかもしれない。それほどのこととは思いもよらなかったのだろう。だからこそ、易々と自国の権益を他国へと売りつけることができるのだ。無知と傲慢から来る万能感に足を掬われた哀れな存在である。


 異変に気づいたのは帝国の工作員だ。彼は工作員の中でも下の立場であり、会合の場にいさせてもらえず、見張りを命じられていた。理由が理由だけに見張りなどに身が入らなかったが、それだけに発見も遅れてしまい、気づいたときにはすでに建物を完全包囲された後だった。


 彼は己がしでかした失態の大きさにしばらく唖然としたが、報告しないわけにもいかず、上位者のいる密談部屋へと転がり込むように入ってきた。


「た、大変です! ここ、すでに包囲されてます!」


 信じがたい報告に愕然とした上位者だったが、すぐに平静さを取り戻したのは踏んだ修羅場の数が違うからだ。彼は売国奴たちを部屋に残すと、現況を自分の目で確かめよるために窓際に寄って、外の様子を窺った。


 常人の目からは静かな夜の街が映っただろう。工作員だからこそ、分かることがある。巧みに隠れているが、まだ肌寒いこの時期だ、呼気による白い靄がそこかしこで立ち上るのが確認できる。


 その中で堂々と一人だけ路上に立つ男がいる。灰色の軍服を身に纏い、腕を組んで、不敵な面構えでこちらを睨めつけていた。


 その男の顔、いや、逆立つ髪の毛を見たとき、上位工作員は歯噛みした。


クレイド・グラウドレス・グレー! ちっ! やつが諜報課のエドゥ・エスコバルか!」


 帝国の諜報機関によるフォルミカ国の要注意人物リストの最上位に記載される名だ。革命の英雄であるビクトル・バレンスエラよりも警戒されている。


 というのも、工作員の未帰還率が八割を超えているからだ。残る二割弱が這々の体で帝国に逃げ帰っても、彼らの掴んだ情報は「意図的」に操作されたものであり、なおかつ、それらのゴミを持ち帰らせるためだけに見逃されたのである。工作員としての矜持を根元から折るような悪辣さだ。


 今思えば、もう少し用心すべきだった。入国から拠点作り、さらには情報網を構築し、協力者を募るなど、それらすべてが予想以上にうまくいったのは、単に泳がされていたからに過ぎない。始めからエドゥの掌の上だったというわけだ。


 工作員はさらに強く歯ぎしりをしたため、奥歯の一部が欠けてしまったが、彼はすでに痛みを感じぬほどの焦慮と後悔に苛まされている。


 しかし、彼はまだ冷静さを失ったわけでない。死神の吐息が首筋にかかっていることへの恐怖が腹の底からわき上がってくるも、生存本能が必死になって計算を始めている。


 もはや協力者と、見張りを怠った部下は切り捨てるほかない。自身が逃げるための時間を彼らに作ってもらおう。そう考えたときだ、一室に詰め込んでいた協力者の一人が室外に出てきたのだ。驚く工作員をよそに窓際に堂々と近づき、灰色の軍服を着た男を見て、鼻を鳴らした。


「ふん。諜報課か? ああ、きみ、そうビクビクするものではないよ。あんなのどうとでもなる」


 その尊大な協力者は大手出版業の二代目で言葉の端々に根拠のない自負が現れている。実のところ、工作員が協力者として欲していたのは彼の父親であり、いかにも無能を絵に描いたかのようなこの男ではなかったのだが、なぜか誘いには簡単に乗ってきてしまい、逆に困惑していたところなのだ。


「まあ、おれに任せておきたまえよ。法務省に伝手が……」


 彼はそれ以上言葉を発することができなかった。なぜなら、上顎から上がなくなっていたからだ。


 工作員は刹那の瞬間を目の当たりにしていた。窓の外、夜の底で極小の超新星爆発が閃いたかと思えば、男の頭の上半分が抉り取られたかのように消失していたのだ。


 発砲時に生じるマズルフラッシュだと気づく時間もなければ、二代目を床へ押し倒す余裕もなかった。ただ、壁の裏へ、少しでも安全な場所へと身を潜めることしかできない。


 しかも、あの狙撃で使われた弾丸はおそらく徹甲弾であり、このぼろアパートの薄壁では心許ない。彼は壁越しに狙撃されぬよう身体を移動させ、別の窓から外の様子を改めて窺う。


 すると、先ほどまでいなかった人影がエドゥの周囲にあった。本当に影にしか見えないのは、彼らが黒色の服を着ているからだろう。


クレイド・シュワルツドレス・ブラック? 何だ、あいつら? いったい何者なんだ?」


 彼が知る限り、どの資料にも彼らの情報はない。新設された特殊部隊と見るべきだろうとの思いを巡らせていると、ふと、エドゥの傍にいた人影がこちらを見たような気がした。この距離ではお互いの顔すら分からないはずだが、確かに目が合ったように感じたのだ。その目はまさしく暗夜の凶星のごとく鈍い輝きを帯びている。


 慄然とした彼は再び壁の裏に隠れると、すかさず部下を呼んだ。


「おい、応戦するぞ。『客』にも武器を配れ。役にはたたんだろうが、いないよりはましだ。配り終わったら、おまえは側面に回れ。おれは正面で敵を引きつける」


 その命令を字句通りに受け取れば、いかにもその場で踏みとどまって抗戦するとの意図が読み取れただろう。その実、命令を出した本人が逃げ出すための準備であるとは、さすがに気づくまい。そう思いながら、部下と二手に別れようと、部下に背中を向けたとき、近くで発砲音がし、続いて腰に灼熱感が走る。


 彼はすぐに自身が撃たれたことを自覚はしたが、撃たれた方向に疑問を抱く。あの狙撃手からであれば、脇腹を撃たれているはずだ。何よりもそうであれば、今頃上半身は半分ほど消し飛んでいるに違いない。


 可能性を一つずつ消していくと、残るのは背後から誰かに撃たれたということになる。肩越しに背後を振り返ると、卑しい笑みを浮かべる部下の顔が目に映った。


「ぐっ……何のつもりだ?」


「はっ! もう助からねえよ! どうせ死ぬんだったら、ムカつくあんたを先にぶっ殺しておこうと思ってなあ。だいたい……」


 部下は最後まで己の主張を述べることができなかった。彼の上司が銃を抜くやいなや、口の中に鉛弾を撃ち込んできたからだ。部下は銃弾の勢いに押されるように、仰向けに倒れ、何度か痙攣すると、そのまま動かなくなった。


「馬鹿が。殺したいなら、さっさとするべきだったな」


 捨て台詞を吐き終わるか、終わらないかのうちに階下が突然騒がしくなる。どうやら仲間割れをしている間に、黒衣の特殊部隊が突入してきたようだ。


 貴重な時間を浪費した彼は血の混じった舌打ちをすると、即座に行動に移った。撃たれた箇所は重傷ではあったが、致命傷ではなく、逃走する分にはあまり問題とならないだろう。


 しかし、出血量がひどい。この分であれば、夜が明ける前に失血死しかねないだろう。その前に設備のある病院へと向かわねばならない。幸い、その当てはあったので、彼の心はまだ絶望には染まりきっていなかった。


 工作員たるもの逃走経路は複数持っているものだ。彼もまた例外ではなく、部下にすら教えていない逃走路を確保していた。さらに秘密部屋も用意し、襲撃者をやり過ごすと、彼は一路地下へ向かった。下水道から別の塒へと行くことができる唯一の道だ。


 少しばかり血を流しすぎたようで、朦朧としている彼は気づかない。すべての逃走路がすでに塞がれていることに。


 悪酔いしたような視界の中、彼の眼前に一人の男が立っていた。おそらくここで工作員が逃げてくるのを待ち構えていたのだろう。さらに後ろからは複数の靴音が下水道の壁に反響して、彼の鼓膜に突き刺さる。


 前後を挟まれ、逃げることすらままならなくなった彼はついに後ろからの敵にも追いつかれた。


「やれやれ、こんなところに逃げ込まないで欲しいものだね。あまり面倒をかけないでくれないか」


 下水道という場所にはふさわしくない透徹とした声が工作員の背中にぶつかる。この声の主が特殊部隊の指揮官に違いないと判断した彼は交渉を試みた。


「待ってくれ。降参だ。ついては貴国への亡命を希望する。そうすれば、持っている情報はすべて吐く。悪い話ではないだろう? だから、頼む。おれを医者に連れて行ってくれ」


 自分の命に比べれば、愛国心など塵芥同然のものでしかない。恥も外聞も同様である。自身が大事、皆そう思うはずだ。


 さらにひどくなる視界の中、敵の指揮官が嘲笑するように口の端をつり上げたのだけが鮮明に映る。


「寝言は寝て言うものですよ。それに」


 何か銀色のものが閃いたかと思うと、彼の視界は斜めになり、さらに落下していく風景を捉える。敵の指揮官が抜き打ちで首を切り落としたのだと、気づくこともなく、その頭は下水の中へと落ちた。彼は下水の味を堪能することなく絶命してしまったので、次の科白も届かなかった。


「国をも売るようなやつが信用されるわけないと思わないか?」

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