とある新任少尉のぼやき
首都オルテンシアの西、無骨なコンクリート製の建物が並ぶ一角がある。
全周を金網で囲まれた広大な敷地内にあるのは首都方面軍司令部とその練兵場、そして、統合作戦本部だ。
地上五階、地下二階の統合作戦本部へ、肩を怒らせ、罪のないアスファルトを踏みしだきながら歩く青年将校が一人。支給されたばかりとおぼしき黒い軍服は彼の身体になじんでおらず、動きづらいのも彼の怒りに拍車をかける。
その後ろ、青い軍服の青年将校が同じように着慣れない軍服に辟易しながら、前をいく黒い背中に声をかけた。
「おーい、シモン・バレンスエラ少尉殿ぉ、少し歩くの速すぎませんかねえ? そんなに急がなくたって、初日から遅刻なんてことにはならないと思うんですけどねえ」
戯れ言をその鍛え抜かれた背中ではじき返すには、やや人生修練が足りなかったようだ。ひときわ大きな足音を響かせると、模範的な回れ右をして、青い軍服の将校へと険しい顔を向けた。
「ついてこいなんて、『貴官』に言った覚えはないぞ、ファン・アルベルト・スエイロ『少尉殿』」
慣れない軍隊用語とフルネームに階級と敬称まで一気に言い放ったシモンの態度は当てつけと言うにはやや幼稚な返しであり、ファン・アルベルトは肩をすくめて、受け流した。
その一方で、つい二日前まで士官学校の学生だった彼につけられた渾名である「生真面目」、「堅物」、「風紀委員ではないのに、風紀委員より風紀委員らしい」などと裏で呼ばれ続けたシモンがこれからどうやって過ごしていこうというのか、実に不安になる。
「友人」としてファン・アルベルトはやや表情を改めながらも、砕けた口調でシモンにお節介を焼いてやることにした。
「あのさあ、いくら『配属先』が気に入らないからって、そんな面で行くなよ。いくら何でも心証が悪すぎるだろ?」
「ほっとけ。元からこういう顔だ。それとも、面がどうこう言ってくる連中に媚び諂えと?」
頑ななシモンの態度に、ファン・アルベルトは盛大にため息をつき、せっかくなでつけた髪をかき回す。
「そう言ってんだよ。ただでさえ、おれたちは悪目立ちが過ぎるんだ。これ以上目立つ真似をしてみろ。身動きとれなくなるぜ」
ファン・アルベルトの静かな怒気と反論しようのない正論に、シモンは一度は開きかけた口を閉ざすほかない。
ただ、口角を限界まで下げ、眉間に深い縦皺を刻み、不平不満をこれでもかと露わにした。その不服は眼前のファン・アルベルトではなく、自分の置かれた境遇に向いている。本人の資質や努力を飛び越え、境遇が勝手に決まってしまう。腹が立てずにいられようか。
シモンの様子から、まだ説諭が足りないと感じたらしいファン・アルベルトは言葉を継いだ。
「愛想よく振る舞えなんて言ってるわけじゃないんだ。そんなの犬に二次方程式を教えるより難しいからな」
あからさまに貶められて、これ以上はないと思われたシモンの形相はさらに険しさを増す。ここに幼児がいたら、シモンの顔を見た途端に泣きわめいたあげくにひきつけを起こして、倒れただろう。幸い、ここには彼らより年下がいなかったので、事なきを得た。
ここまで言われて、シモンが暴発しなかったのは、愛嬌のなさを自覚していることとファン・アルベルトの小言がまだ続きそうだったからだ。一応は聞く耳を持つように自戒はしている。成功したためしはほとんどないが。
ファン・アルベルトはシモンの厚い胸板の中央を指でつつき、さらに捻り混んだ。まるで自分の言葉が指先からシモンの内部へと浸透させるかのように。
「おまえがどんなに嫌でも革命の英雄にして、陸軍省長官ビクトル・バレンスエラの一人息子だって事実は変わらない。おれだってそうだ。総務省事務次官カルレス・スエイロの息子で、息子可愛さのために後方勤務に配属するよう人事課に圧力をかけたなんて言われるだろうよ」
革命の評価は大分落ちたが、ビクトルの名声だけは衰える気配はない。軍務省長官と陸軍大将を兼任して、時に前線に赴いては自ら指揮を執り、帝国軍の大攻勢を何度も退けた。
ビクトルの功績は比類なく、そうであるにもかかわらず再三再四に及ぶ政府首班への任命要請を断る謙虚さもあり、国民の人気は国家主席の首相よりも高い。
偉大な父を持ったこと自体がシモンにとっては自身の運命を縛る鎖に思えてならないのだ。
ほとんど呪いにも似た現況に怒りが募るばかりだが、ファン・アルベルトの言には理があり、反論する隙間もない。
士官学校に入学して以来、ビクトルの息子というだけで教師や生徒から腫れ物扱いされていた中、似たような境遇のファン・アルベルトだけがこうやって直言してくれる。ありがたいと思うべきなのだろう。
「おれが間違っていた。すまん」
「わかってくれれば……」
「だけど、『葬儀屋』はねえだろ!」
一度は沈静化したシモンの激情が、ファン・アルベルトが安堵の息をもらす前に再度噴火したのは憤りの原因が一つではなかったからだ。
しかし、今度の再噴火はすぐに静まった。よりにもよって配属先の蔑称を口走ってしまったことを自覚したからだ。ファン・アルベルトが慌てて口を塞ぐまでもなく、シモンは自身の大きな手で口元を押さえ、目だけを動かして、周囲を見渡した。
あいにく、周囲は王都特有の朝靄で覆われ、数メートル先も見通せない状況であり、誰が何を聞いていたか、あるいは誰が何を話していたかなど、誰も分からなかったに違いない。
朝早いこともあってか、とりあえず人の気配は感じられず、シモンとファン・アルベルトは同時にため息をつく。
肺活量がシモンよりも少ないファン・アルベルトがいち早くため息をし終えると、非難の目を感情の抑制が効かない友人を睨みつけた。
「おまえなあ……」
「た、確かに今のはまずかった。悪い」
「いいから、場所を移そうぜ」
いつまでも同じ場所に留まっていたら、自分たちが失言したことが露見してしまう。この靄に乗じて、今は立ち去るべきだろう。
東方の兵書にも三十六計逃げるにしかずとある。進退を見誤って、部隊が全滅なんてことはままあることだ。無能の烙印を押されたくなければ、さっさと逃げるに限る。
足早にやってきた統合参謀本部の入り口で二人はそれぞれの部署へと向かうことにしたのだが、別れ際、ファン・アルベルトは駄目押しとばかりに言葉をつけ加えてきた。
「いいか、くれぐれも早まるなよ」
「ああ、わかった。できる限り、努力する」
「よし。なら、もう一つ。昼は一緒に取ろうぜ。ここの食堂な、どうやら士官学校のよりもうまいらしいぜ」
「へえ、そりゃいいな。なら、腹はちゃんと減らしておかないとな」
胸の内をさらけ出したことで、少しは肩の荷がとれたのか、爽然とした風にシモンが応じたので、ファン・アルベルトは友人の肩を軽く叩くと、そのまま総務部主計課のある二階へと歩を進めた。
ファン・アルベルトの背中をなんとなしに見送った後、シモンは表情を強張らせて、地下へと続く階段を見下ろした。
葬儀屋こと戦史編纂部は地下二階にある。地下へと続く階段はまるで何かを封じたかのように薄暗く、迷い込んだものを飲み込もうと口を開けているかのようだ。
迷信などの類は一切信じないシモンではあるが、さすがに息を呑み、足を踏み出すのを躊躇した。
シモンは口をすぼめて、息を吐き出しながら、迷妄に足を取られようとする自身を叱咤した。
「『黒鉄の森』や最前線に比べれば、何てことないだろうが」
この一歩がすべての始まりだったと、歪んだ価値観で歴史を弄ぶ「後世の歴史家」とやらは評すかもしれない。
未来を予知するの能力のないシモンは張りついたように剥がれなかった靴底を無理矢理剥がし、地下へと歩を進めた。
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