第二章 エステル・アイスコレッタ少尉のフォルミカ横断紀行

軍用列車の車中にて

 出発は深夜だったが、どうにも目がさえて、眠れそうになかったエステルは手荷物から文庫本を取り出した。


 駅の購買で、タイトルも見ずに買った本だ。どんな本かは読んでみるまでの楽しみとして取っておいたのだが、実際に表紙を見た途端、エステルは憮然とした。


「フォルミカ建国伝承」


 義兄イサアクが眉根を寄せて、さぞいやな顔をすることだろうと、エステルの瞼の裏にそのような情景が浮かぶ。


 イサアクは新進気鋭の青年に見えるが、昔気質のところがあり、感性が古臭いところもある。その上、このフォルミカ建国神話自体、イサアクからはよく聞かされたもので、今更得るべき知識があるとも思えない。


 エステルはため息をついて、文庫本を座席に上に置くと、窓の外へと視線を移した。


 線路沿いに等間隔で建てられた電灯の光が時折車内に差し込んでは、やがて世界は漆黒の闇へと戻っていく。光と闇の合間に見える遠くの灯りはどこの街のものだろうか。そんな他愛もないことを思っていると、不意に声をかけられた。


「ここ、相席よろしいですか?」


 近づかれたことに気づかなかったエステルはひどく驚いたが、義兄直伝の韜晦術により、内心の動揺を完全に抑え込んでから、表面上はあくまでも悠然と声のした方へと注意を向けた。


 エステルの前に現れたのは二十代半ばとおぼしき女性軍人の姿だ。波打つ黒髪に浅黒い肌が目を引く。かつて王国初期に故国の苛政から逃れて、入植してきたベルエット人を彷彿とさせる。建国王イスマエル自身が流れ者だったから、ベルエット人はたいそう歓迎されたという。


 異国情緒漂う彼女の容姿はエステル自身が思わず嫉妬しかけたほどの熟成された魅力に溢れていたが、それ以上に気になるのが、着ている軍服の色が黒だったことだ。エステルの記憶にある限り、黒い軍服を着る部署はただ一つしかない。


「たしか義兄さまの戦史編纂部だったっけ? 何でこんなところに? って言うか、他にたくさん席空いてるじゃない。なんでわざわざ相席しようって言うのよ?」


 そんな疑問が次々に湧いたものの、詮索するのも失礼だと思い、対面の座席を指して、エステルは「どうぞ」と相席を勧めた。


「ありがとうございます」


 そう言って会釈したとき、長い髪に隠れていた襟章が「伍長」のものだと気づいたエステルはつい声を上げてしまった。下士官は兵士と同じ車両に乗らねばならないからだ。知らないのなら、指摘してやるのが親切というものだろう。


「あの……」


「ああ、ご心配には及びません。わたくし、これ持ってますから」


 エステルが何かを言うまえに、その女性伍長は胸ポケットから無造作に折りたたまれた紙片を取り出して、捜査令状のごとく突きつけてきた。かなりしわになって見づらいが、どうやら「特別乗車許可証」なるものらしい。


 伍長はエステルが十分に確認したことを認めると、再び無造作に折りたたんで、胸ポケットへと捻じ入れた。外見ほど優美ではない所作に、エステルはどこか共感めいた親しみを覚えた。


 エステルの顔から緊張と警戒の色が薄れたのを見て取ったのか、伍長もまた表情を和らげつつ、軽く敬礼した。


「申し遅れました。わたくし、統合参謀本部戦史編纂部第一課のティティアナ・サルミエント伍長と申します。差し支えなければ、ティティとお呼びください」


「丁重な挨拶、痛み入る。わたしはエステル・アイスコレッタ少尉だ。移動中とはいえ、一応は公務中なので、申し訳ないが、貴官のことは階級で呼ぶことにする」


 エステルの堅苦しい生真面目さにティティアナは小さく笑った。そこに揶揄や嘲弄の響きはなかったが、笑われるという行為自体が好きではないエステルはやや眉間に皺を寄せ、反抗的な視線でティティアナを睨みつける。


「何かおかしいか?」


「ああ、いえ、レヴィ中佐の仰ったとおりの方だと思いまして」


「義兄……いや、中佐はわたしのことをなんと?」


 一体イサアクはこのティティアナに何を吹き込んだのか、エステルとしては気になって仕方がない。ティティアナは笑いを堪える風で、イサアクの言葉を物真似した。


「『あの子は気難しい子だからね、怒らせるようなことはしないでくれよ』だそうです」


 いくら何でも説明が雑すぎるのではないか。イサアクのことは敬愛しているが、さすがにこれは許容できそうにない。内心を隠すのも忘れて、エステルは人前でこれでもかとばかりに頬を膨らませた。


 今まで仮面をつけているかように表情を崩さなかったエステルが急にふくれっ面になったのだから、ティティアナとしては堪らない。我慢しきれずについに噴き出した。


 そこでようやくエステルは自分がどんな顔をしているのかを自覚し、慌てて平静を保とうとしたが、顔面に集中する血流を止めることはできない。耳まで赤く染まったエステルはもう構うものかと、口をとがらせ、ティティアナに愚痴ってみせた。


「伍長はわざわざわたしをからかいに来たのか?」


「いえ、とんでもございません。実はわたくし、課長の密命を受けてまして」


「密命?」


「はい。大きな声では申し上げにくいのですけど……」


 もったいぶるようにティティアナが言葉を止めてしまったので、エステルは目で先を続けるよう促した。意思が通じたというわけではないだろうが、ティティアナは淡紅色の口紅を塗った唇を動かした。


「『多分、義妹が暇しているだろうからね。どうか道中、話し相手になってくれないかな?』というのが密命の内容です」


 エステルはティティアナの言葉が理解できずに、ただ目を瞬かせた。一応は士官学校を首席で卒業しているから、彼女の理解力が決して乏しいわけではない。あり得ない現実を受容できずに理解を司る部分が麻痺しただけだ。


 ややあってから、その麻痺が治ると、エステルは肺を空にするほどの大きなため息をついた。


 思い返せば、イサアクは過保護過干渉なところがあり、士官学校の一般参観の日には公務を休んで、夫婦そろって必ず参加していたし、休みの日に帰ってこないと、学生寮まで迎えに来たりしていたものだ。その都度、女生徒から、いや、男子生徒までイサアクの美貌を見て、ざわめくものだから、その喧噪の中を通るのは実に恥ずかしい思いをしたことも、ついでにように思い出してしまった。もっとも、エステルはエステルで重度のブラコンだったから、気恥ずかしさの中にも誇らしさがあったわけだが。


 他方、イサアクもひとまずは常識人ではあるから、見え透いた形での公私混同はあまりしないはずだ。いや、しないと思いたい。ティティアナとて、イサアクの「密命」とやらを遂行するためだけにこの列車に乗ったのではないだろう。


 こういうのは確認しておいたほうがいい。自分のためにも、義兄の名誉のためにも。


「伍長、さすがにそれではわたしすら騙せないぞ。そのためだけにわざわざロカ・ロホ要塞までわたしについてくるなんて話はないだろう?」


「少尉のご慧眼、恐れ入りました。ご推察の通り、ロカ・ロホ要塞まで報告書を取りに行かねばならないなんていうしょうもない任務がありまして」


 この時代、すでに電信技術は確立されていたが、通信の秘匿ができなかった。下手に通信をすれば、傍受され、行動が筒抜けなんてこともままある話だ。すでに飛び交う通信の暗号まで解読されている始末である。通信が駄目なら、報告書等文書は手渡しという方法が原始的だが、最も確実というわけだ。時間がかかるのが難点だが。


 それだけに重要な任務であり、「しょうもない」などとほざくティティアナの心得違いを上官として叱責すべきところだが、エステルはどうにもその気にはなれなかった。オルテンシアからロホ・ロカまで往復五日もかかる「お使い」など、考えただけで憂鬱になるからであり、その意味ではティティアナには同情の余地がある。ぼやくぐらいは容認すべきだろう。


 ただ、そうなると気にかかることがある。なぜ、文書の移送という大任を左遷部署である戦史編纂部に任せるのか。疑問には思うものの、他部署の任務の内容を聞くのは間違っているだろう。


 エステルがそう配慮したにもかかわらず、何かを察したらしいティティアナは聞きもしないのに、参謀本部の内情を語ってみせた。


「だいたいひどいと思いませんか? わたくしたち、参謀本部の使いっ走りをさせられてるんですよ。もう、聞いてくださいよ。そもそもわたくしたちも戦史編纂という大事な……」


 承諾を得たわけでもないのに、ティティアナは一方的な愚痴をこれでもかとばかりにエステルにぶつけ始めた。


 そのせいで、夜が明け、途中停車駅「エントラーダ・アル・バスク」まで一睡もできず、エステルは目の下に隈を作る羽目になるのだった。



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