途中停車駅「エントラーダ・アル・バスク」
フォルミカ東部最大の街にして、最東端の街でもあるエントラーダ・アル・バスク。
オルテンシアから軍用列車で約八時間、森の入口という街の名前の通り、ここより先は未開の樹海「イエロ・バスク」がロホ・ロカ山脈西麓まで続いている。国土の四分の一を占めるこの森は建国神話に出てきた森と同一であるとされていた。
そのエントラーダ・アル・バスクの十字の形をした駅舎に軍用列車が滑り込むように進入する。
完全に止まってから、エステルは降車すると、朝日を浴びながら、大きく伸びをした。眠気の残滓が頭の奥にこびりついているものの、新鮮な空気を吸ったおかげか、幾分かは気分も晴れる。
同乗していたティティアナは喋るだけ喋ると、糸の切れた操り人形のように眠ってしまい、今なお夢の世界を遊覧中らしい。
ずるいと思う一方で、どうしてもエステルはティティアナのことを憎めずにいた。ティティアナの人徳によるものが大きいだろうが、イサアクの部下に悪印象を持たれたくはないとの打算もある。ティティアナから何を吹聴されてもイサアクのエステルへの評価は揺るぎないとは思うが、義妹と部下との間で板挟みなどという度し難い葛藤を防ぐためにも言動は慎重にしたほうがいいだろう。
そこでとりあえずティティアナのことを意識から外し、エステルは改めて東へと目を転じる。文字通りの意味で黒々とした森は木々特有の香気を発せず、どことなく金物臭すらしてきそうだ。実際、現在に到ってなお森を構成する木々の組成すら解明しておらず、生物か、無生物かの区別もついていない。かろうじて判明しているのは、森の木が一種類しかないということだけだ。
神話の傍にいるのだと考えた途端、エステルは身震いした。イエロ・バスクは別名「帰らずの森」とも言われ、一度入ったら最後、生きて戻ってきたものはいないというのがその名の由来だ。それ故、いくらエステルが勇敢ではあっても、怖気くらいはする。何しろ、毎年若者たちが度胸試しやら何やらで森に入っては行方不明になるという事件が相次いでいるのだ。おまけに神話に出てきた黒犬の他にも未知の怪物がいるらしく、目撃情報は跡を絶たない。
そのため、森との境界には警告の標識が並び、金網も延々と張られているのだが、無知故に無謀な人間というのはいつでもどこでも現れるようで、対策としてはあまり十分ではない。もっとも、極少数の一部に合わせていたら、国家予算がいくらあっても足りないだろうが。それに酷なことを言うようだが、現在人口が増えすぎて、困っているところなのだ。自分から「口減らし」してくれるというのなら、あえて押しとどめる必要もないだろう。
エステルは魅入られそうになる森から視線をそらすと、エントラーダ・アル・バスクの町並みに目を向ける。ロカ・ロホ要塞の後方基地でもあるので、軍人の姿も目立つ。さらにここから南北方面軍へと向かう鉄軌もあり、オルテンシアから乗車した兵士の一部はここで乗り換える。前線に向かう兵士に比べれば、彼らの顔にどこか危機感が欠けるのはどうしようもないだろう。
「さて、どうしよう?」
エントラーダ・アル・バスクでの停車時間はおよそ三時間。暇を潰すにしてはやや長すぎる時間だ。かといって、街を探索するには短すぎる。中途半端な猶予というのが最も困るものだ。
とりあえずは朝食でも取りに行こうかなどとぼんやり考えていると、後ろからここ数時間で聞き慣れた声が迫ってきた。
「置いていくなんて、ひどいです、少尉~」
ここに少尉の階級を持つものはそれなりにいるから、自分ではないだろうと思い込みたかったが、足音はどうやらこちらへとまっすぐ向かってくるようだ。
やむなく渋い顔をして振り返ると、ティティアナが豊満な胸を揺らして、駆け寄ってくるところだった。ティティアナの姿、もといその一部を見た瞬間、エステルの中で何かがちぎれる音がし、こめかみに静脈が浮き出てくる。
当てつけかと、理性が蒸散する直前に、エステルはふと我を取り戻した。さすがに八つ当たりも甚だしい上に、身体的劣等感を持っていると悟られるのも癪だ。
エステルの多大な努力で激情を抑えているにもかかわらず、脳裏の一部で過去の記憶が連想される。
「いいかい、エステル。胸の大きさだけが女の人の魅力じゃないんだよ」
そうイサアクに諭された瞬間、血が頭に上って、気づけば、義兄は血の海に沈んでいた。カルラにはたいそう怒られたものの、事情を聞いて、一変する。カルラはかつて見せたことのないどす黒い笑顔をイサアクに向けて、迫った。
「ねえ、あなた、デリカシーって言葉、ご存じ?」
血まみれのイサアクはたいそう震え上がって、その後、しばらくの間、エステルとカルラを見る度に怯えた。
今思えば、カルラの叱り方もどうかとは思うのだ。カルラの言い方ではエステルの胸が「慎ましやか」であることを認めたことになるのではないか。
いや、軍人としてはこの体型のほうが適正なのだ。そう思い込もうとして、自分自身を騙しきれなかったことにやるせなさを覚えたところで、ティティアナがようやくエステルへと追いついた。ティティアナはエステルがなんとも苦み走った顔をしているのに気づいて、気遣うような声をかけた。
「どうかしましたか、少尉? まるで苦虫をまとめて噛み潰したようなお顔をしてますけど」
「い、いや、何でもない。それより、置いてけぼりして悪かった。あまりにも伍長が熟睡していたものだから、起こすのは忍びないと思ったんだ」
「ああ、起こしてくれて構わないですよ。寝起きはすっごく機嫌悪いですけど」
「……駄目じゃないか」
呆れたようにエステルはぼやいたが、ティティアナの屈託のない笑顔を見ているとどうでもよくなってくる。
「では、少尉、行きましょうか?」
「ん? どこへだ?」
「朝ご飯、食べに行きましょう。わたくし、おいしいお店知ってるんですよ。なんたって何度も往復してますからね」
得意げな顔の中に影が差すのを見ると、ティティアナもずいぶんと都合よく利用されているらしい。そう思ったら、断ることなどできそうもない。エステルは半ば義務感、もう半分は興味からティティアナの提案に乗ってやることにした。
ティティアナに案内された店は確かによかった。味もよく、値段もそこそこで、十分に満足できるものだ。これでその後も引っ張り回されて、乗り遅れそうにならなければ、さらによかったのだが。
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