夫婦の寝室
やはり無理をさせたのかと、イサアクの胸に後悔の棘が刺さる。
エステルを見送ったあと、カルラは急激に体調を崩した。
医師の見立てによると、肉体そのものに異常はなく、過度の精神負担からくる気鬱症だという。精神の不調が肉体を摩耗させる。完全に擦り切れたとき、待つのは死だ。絶望は死に至る病というわけである。
カルラを現世に繋ぎ止めているのはイサアクとエステルの存在があればこそだ。その一方で、できるのならば、この二人には穏当な人生を歩いてもらいたかったのに、二人して軍人になってしまったことも、カルラの心労を重くしたに違いない。
「ごめんよ、カルラ。きみには苦労をかけっぱなしだ。わたしにもっと力があれば、こんなことにはならなかったはずなのに……」
悪夢でも見ているのか、魘されるカルラの額に浮いた汗を拭きつつ、悔恨の念がイサアクの口をついて出る。
その声が届いたのか、カルラは応えるように瞼を薄く開けた。始めは呆然と天井を眺めていた瞳は、傍に誰かいることに気づいて、そちらへと向けられる。
「あ……なた……?」
「ああ、カルラ、起こしてしまったかい? すまない」
「いいえ……それより、わたしはどうして?」
カルラは倒れる前後に自身が何をしたのか、覚えていないことが多い。これも医師によれば、強烈な感情を引き起こす何かに接したとき、内部へと流れくる情報を遮断し、すべての感覚を閉ざしてしまうことがあるのだという。
ただ、今回に限っては、イサアクのごまかしの説明よりも早くカルラの記憶が蘇る。カルラは大きく目を見開くと、両手で自らの頭を挟んだ。
「あの男……! よくものうのうとわたしたちの前に……! エステルから離れなさい、この……!」
カルラの瞳は小刻みに動きながら、現実のものではない風景を写しているかのように怒りの炎が渦巻いている。
さらに美しい黒髪をかきむしろうとしたので、イサアクは抑え込もうとするも、箍の外れたカルラの力は全力をもってしても留めることは容易ではない。
「落ち着くんだ、カルラ。ここにはわたししかいない。きみを傷つけるものはどこにもいないんだ」
カルラの「発作」もこれが初めてではないから、イサアクも手慣れた感じで抑え込むことができたが、負の感情、特に怨と憎を昂ぶらせることは心の臓に大きな負担をかけることでもあり、イサアクとしてはカルラの健康を考えると気が気でなかった。
傍目から見れば、激しい情事と誤解しそうなベット上での格闘はどちらが勝者と言うこともなく、静かに終わりを迎える。
今まで非現実世界を見つめていたカルラの瞳に自我の光が返ってきたからだ。カルラは上にイサアクが乗っているのを認めて、自分のしたことを自覚して、自責の念のあまり、顔をゆがめた。
「ご、ごめんなさい、あなた。わたし、また……」
「なに、夫婦喧嘩もいいものさ。マンネリな夫婦生活を送らないためにも時には刺激も必要だろう?」
気にするなと言ったところで、カルラは今日のことをいつまでも気に病むだろう。そう思えばこそ、イサアクは冗談めかしたのだが、彼の意図通りにはいかなかったようだ。カルラの暗い表情はほとんど変わることがなかったからである。
発作が起こる度にカルラの顔から柔らかな部分が失われていく。かつて優しく迎えてくれたあの笑顔がいつの日か、見れなくなってしまうのではないか。そう思うと、イサアクの胸は締めつけられるような痛みを覚えるのだ。
イサアクは自らの動揺を隠すように、ナイトテーブルから水差しを取り、コップに水を注いだ。
「喉が渇いただろう? これをお飲み」
イサアクはカルラを助け起こすと、コップを彼女の口元へと傾けた。ややぬるくなった冷水がカルラの食道を通り、心地よい冷たさが身体に染み渡ることで、今度こそカルラの自意識は本来の性を取り戻したようだ。
ただ、その瞳は依然として憂いに満ちていた。何かを言いかけては口を閉ざし、閉ざしてはまた口を開きかけるという動作を何度か繰り返した後、ようやくカルラは自身の思いを口にした。
「あなた、もうわたしのことは捨ててください。これ以上、あなたの足を引っ張り続けるわけには……」
そうカルラが申し出るのもまた初めてのことではない。発作が治まる度にカルラはイサアクの手を煩わせたことをひどく後悔するのだ。
対するイサアクの返答も芸がないが、外連味がないだけに真情が籠もっていた。
「きみはわたしの半身だよ。身体の半分を捨ててしまったら、わたしは死んでしまうよ。きみが救ってくれたこの命、わたしは無駄に散らせるつもりはないんだ」
イサアクの真意に触れたカルラは両手で顔を覆って、泣き始めた。イサアクは彼女の肩を抱き、自らの胸へと寄せた。腕の中で静かに泣くカルラの細さにイサアクの胸の痛みはさらに増していく。
カルラも心の底からイサアクから捨てられることを望んではいない。イサアクもそのことを知っていてなお、その都度、同じことを繰り返すのはカルラを失いたくないという一心があるからだ。
「きみこそ、あのとき、わたしを捨てればよかったのに……」
埒もないと思いながらも、イサアクはそう考えずにはいられなかった。
革命という名の暴風が吹き荒れたあの時代、革命に参加せぬものは人にあらずという風潮の中、カルラはイサアクが軍人になるまでずっとその細腕で妹のエステルとともに守ってきたのだ。イサアクはカルラたちから家族同然の扱いを受けてきたものの、家族そのものではない。切り捨ててしまえば、今日のように苦しむことはなかったかもしれない。そんなカルラを捨てていくなど、人としての道にも外れるだろう。
「いや……だめだな」
そう思ってから、イサアクは自らの考えを否定した。その場合、カルラの母ガラと末妹のニーナが生き残ってなければならない。そうであればこそ、イサアクという存在がこの世から消えても、問題がないのだ。彼らはイサアクの死を悲しんではくれるだろう。家族が傍にいれば、悲しみもいつかは癒えるはずである。
今カルラの胸の内にあるのは、母と妹を奪った革命への深甚な憎悪、特に革命を主導したビクトル・バレンスエラへの厭悪は一方ならぬものがある。親子だけあって酷似しているシモンを見て、違うと分かっていてなおカルラが体調を崩すほど、精神の均衡が崩れてしまったのだ。
同時に母と末の妹を救えなかった、あるいは見殺しにしたという激烈な自責が彼女の心を苛んでいく。いくらイサアクが説諭しようが、エステルが母と妹の死の原因がカルラではないと否定しようが、カルラの心から暗雲が晴れることはなかった。
憎悪の炎は身を焼き、自責の念は心を削り取っていく。いずれ身体は灰となり、心は砂となり、風に吹かれて消えていくことだろう。カルラの心身は緩慢に死んでいくかのようだ。
イサアクは彼の腕の中でようやくわずかな安息を得たカルラが寝入ったのを見て、微笑を向けたあと、無味乾燥な壁紙へと暗赤色の瞳を向けた。その先に革命の下で蛮行をほしいままにした獣たちの姿が見えているかのように、イサアクの目には暗い炎が宿っている。奴らは己の罪と未だに向き合おうとはしない。カルラをこのようにした連中を許しておけるはずもなかった。
「逃がしはしない……天が罰しなくても、このわたしが必ず誅してくれる」
イサアクは改めて決意を固くする。誰に交わすこともない誓約だった。
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