思いは通じず、空気も読めず

「アイスコレッタ少尉!」


 家族との別離を惜しむ時間を妨害されたエステルは声のした方へと険悪な視線を向けた。そこに黒い軍服を着た同世代の青年の姿を見いだして、眉間の縦皺がさらに深みを増す。


 重戦車を彷彿とさせる巨躯を持つ青年は人混みをかき分け、人とぶつかったことなど気にもせず、まっすぐ向かってきた。青年はどこか上気しつつ、エステルの傍まで歩み寄ると、やや緊張を緩めて、笑いかけてきた。


「まだ出発してなかったんだな。ああ、よかった。危うく見送りできないかと思った」


「申し訳ないのですが、どちらさまですか?」


「へ……?」


 エステルの問いの意味が分からなかった青年はしばらく目を瞬かせていたが、理解が浸透するにつれて、慌てたように手振り身振りで自らのことを訴えた。


「いや、おれだって! 士官学校で同じ戦略研究科だったシモン・バレンスエラだって! おまえと考試と実技で競ってたじゃないか?」


 必死に自分を思い出させようとするシモンの努力はまったく実を結ばなかった。エステルの表情筋は筋一つ動かない。むしろ、シモンを見るエステルの目は次第に冷気を増していくかのようだ。


 いたたまれなくなるシモンに救いの手を差し伸べたのは彼と同色の軍服を纏うエステルの義兄だった。


「おや、少尉じゃないか? もしかして、きみもわたしの義妹を見送りにきてくれたのかい?」


 声をかけられ、そこでようやく自身の上官が傍にいたことに気づいたようで、シモンは慌てて直立すると角張った動きで敬礼した。


「し、失礼しました、レヴィ中佐!」


 イサアクは苦笑しつつ、鷹揚に敬礼を返す。その仕草の優美さはシモンの及ぶところではなく、シモンはさらに恐縮したように冷や汗が頬を伝った。


「そ、それで、あの、中佐……その、義妹というのは一体……?」


「エステル・アイスコレッタ少尉はわたしの妻カルラの妹でね、今日は彼女の門出を見送りにきたんだ」


 イサアクの右斜め後ろに立つカルラはシモンに向かって小さく頭を下げたものの、顔を上げた彼女は表情を強張らせたまま、シモンの顔を見ようとはしなかった。人の機微に疎いシモンでも分かるほどの隔意に居心地の悪さを覚えたものの、それ以上深く考えることもなく、開き直った様子でイサアクに対した。


「よろしければ、小官も少尉の見送りに同伴してもよろしいでしょうか?」


「それはわたしではなく、彼女に聞いて……」


「お断りいたします」


 イサアクの言葉を最後まで待たずにエステルは明確に拒絶の意を表した。さらにエステルはイサアクを恨みがましく睨みつける。義兄が厄介を押しつけようとする意図が見え見えだったからだ。いくら敬愛してやまない義兄でも、さすがにこれは看過できそうにない。


 義妹の面倒さを測り損ねたイサアクは、存在ごと記憶から抹消されるほどに嫌われていたことを自覚したシモンが口角を下げ、顔を赤くするさまを見て、やむなく仲介の労を執ってやることにした。


「ああ、エステル、きみには二言くらい足りないって前々から言ってるけど、せめて理由くらいは話してくれないかな? 彼がわたしの下に配属されたという事実をもって、今後のわたしたちの関係について考慮してくれるとありがたいのだけど」


 ずるい人だと、エステルは口中に苦みを覚えながら、そう思った。こんな風に哀願されては断るに断れない。しかも、ともすれば今生の別れとなるかもしれないこの場所でだ。イサアクとしこりを残したまま別れるなど、エステルにとっては死活問題にも等しい。


 エステルはため息をつきつつ、あくまでも義兄の質問に答えるという体を取る。


「では、彼が通ってきた場所をご覧ください。彼は乗車待ちをしている兵士と見送りの家族を突き飛ばし、かき分けて、こちらに向かってきました。戦地に行く前だというのに、怪我をさせられた兵士の中にはわたしの下につくものもいるでしょう。士官への不信感を抱いたであろう彼らはわたしに反抗的な態度を取るはずです。戦う前から兵士の士気を下げ、良質な兵士の育成を妨げた彼の行動は利敵行為に他なりません。いわば逆賊です。わたしにそんな知り合いはいませんし、いたとしても関係性を疑われるのは御免被るというわけです」


 二言足りないと指摘されたことが腹に据えかねたのか、エステルは長広舌をよどみなく揮ってみせた。


 いかにシモンが愚鈍であれ、ここまで詳細に説明されれば理解もできるようで、彼はあっと声を上げ、振り返った。

 

 そこには尻餅をついた兵士の母親とおぼしき女性が助け起こされたり、ある兵士自身が片膝をついて、起き上がろうとしている場面がシモンの目に映る。


 シモンは無自覚の行動の結末に愕然としていたが、立ち直ってからの行動は早かった。エステルに向かい、慨然とした様子で敬礼した。


「アイスコレッタ少尉、貴官の武運長久を祈る。それだけを言いに来た。では、これで失礼する」


 シモンはイサアクとカルラにも軽く会釈をすると、大股で自分の不始末の後片付けをするために去って行く。


 倒された兵士とその家族を助け起こし、その都度詫びの言葉を入れ、対応の迅速さと的確さは、さすがは士官学校を次席で卒業したと言わしめるほどに見事なものだった。


 ただ、シモンの姿を追う士官学校首席卒業生の瞳は冷めたまま、一向に温度が上昇する気配もない。己の失態は己で挽回するのが当然のことであり、何ら称揚されるべきことではないからだ。


 今改めて、エステルは悟る。あの男のおぞましい偽善ぶりと距離感のない暑苦しさを心から嫌悪し、軽蔑していたことを。士官学校での二年間、どれだけあの男につきまとわれたか、数えるのも馬鹿らしい。


「エステル、怖い顔になっているよ」


 揶揄する響きがある声が至近からして、エステルは我に返ったかのようにはっとして、顔をイサアクへ向けた。内面の闇を見せてしまったことを恥じたエステルは赤面して、すぐに俯いてしまう。その頭に上にイサアクの温かな手が乗せられ、軽くなでていく。


「安心して、エステル。もうきみと彼が出会うことはない。次に会うときはおそらく……」


 イサアクが飲み込んだ言葉を正確に把握したエステルは慌てて顔を上げた。そのせいで義兄の手を払いのけた形になったが、そのことに気づかず、急速に失っていく顔面の熱を自覚しながら、義兄の表情の変化を漏らすまいと目を凝らす。


「あの男を手元に置いて、どうするつもりですか?」


「どうもしないよ」


 イサアクの暗赤色の瞳はさざ波一つ揺れていない。韜晦しているのか、あるいは感情を出す必要もないのか、そのどちらかを判別するのはエステルには困難を極めた。


 さらにイサアクの心中を探ってみようと目を細めたとき、乗車を促すように発車のベルがけたたましく鳴り響く。思考を中断させるほどの音量にエステルは不快そうに眉をひそめたものの、義兄の胸中を概ね理解していることで今は満足せねばなるまい。


 しかし、もしイサアクの思惑と自身の理解に齟齬があったとしたら、との思いが浮かんでくるのを、エステルは強引に捻じ伏せ、心の奥へと無理矢理押し込んだ。彼女は威儀を正し、イサアクとカルラに対する。


「それでは行って参ります。お二人ともどうかお元気で」


 未練を断ち切るように、勢いよく身体を翻したエステルはイサアクとカルラを顧みることなく、律動的な足跡を響かせて、そのまま車両へと乗り込んだ。


 エステルが乗車してから、ややあって、全員の乗車を確認した車掌が警笛を鳴らすと、重い音を立てて、列車が動き始める。最初は緩慢に、それから徐々に速度を上げ、ホームの先にある暗闇へと吸い込まれていく。


 イサアクとカルラは最後の車両が消えて見えなくなるまで見送ると、静かに駅舎を去って行った。




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