中央オルテンシア駅軍用列車専用ホームにて

 その日の最終便が出発してなお、中央オルテンシア駅は喧噪の中にあった。


 普段は使われない八番ホームにて、エステル・アイスコレッタ少尉は所在なげに佇んでいたが、近寄る二つの人影を認めて、喜色を顔に浮かべると、息を弾ませながら、自ら駆け寄った。


「義兄さま、姉さん!」


「やあ、エステル。間に合ってよかった」


「ご無理をなさらずともよろしかったのに。お忙しいと聞いていたので」


「わたしたちは家族なのだから、そんな気遣いは無用だよ。それにきみの門出を見送るためだったら、どんな事情があっても駆けつけるさ」


「ありがとう……ございます、義兄さま」


 この世で唯一敬愛する男から心のこもった言葉を受け取り、エステルの瞳は涙で揺らぐ。おろしたての軍服の袖で涙を拭うと、義兄の傍でひっそりと佇む姉に目を向けた。


「カルラ姉さんもきてくれて、ありがとう。でも、身体のほうは大丈夫なの?」


「ええ。心配かけて、ごめんなさい。今はもうすっかりよくなったから……」


 カルラはエステルの顔を両手で挟むと、お互いの額を寄せる。触れた肌から直に伝わる姉の心地よい冷たさにエステルの心はほぐされていく。


 幼い頃、熱を出しては姉にこうしてもらったことを思い出し、瞼を閉じたエステルは失われて久しい日だまりのような過去にいるかのように錯覚した。


 しかし、手を離したカルラから小さな嗚咽が漏れ出したことで、時間が非情なほどに不可逆であることを改めてエステルは思い知らされる。


 幻影の過去から目を覚ましたエステルの視界に映ったのは口元を押さえ、かろうじて精神の均衡を保とうとしているカルラの姿だった。


「どうして……あなたが戦地に行かなければならないの? 母さんとニーナがいたら、きっとあなたを止めたわ」


「わたしもそう思うわ、姉さん。でもね、あの二人が生きていたら、多分わたしは軍人にすらなってなかったと思う。今頃、義兄さまとわたしたちで穏やかに暮らしていたでしょうね」


 優しい過去に続くであろう眩しい未来はある日突然絶たれた。業火がすべてを焼き尽くしてしまった。もうあの日には戻れない。失ったものが返ってくることもない。


 なくすべきではないものを失ったとき、心には大きな空洞ができる。空洞を放置すれば、待つのは精神の死。この姉妹はまったく対照的なもので心の空白を詰め込んだ。姉は悲哀と諦観を、妹は覚悟と決意を、それぞれ胸に秘め、灰色の現実に対抗しているのだ。


 今にも崩れそうなカルラの肩に義兄が手を回し、そっと支える。少しの羨望とそれを遙かに上回る安心感を覚えたエステルは柔和な笑みを浮かべ、義兄の腕ごと姉の身体を抱きしめた。


「姉さん、そんなに泣かないで。何もわたしは死にに行くわけじゃないんだから。わたしはちゃんと目的を果たして、二人の元に戻ってくる。約束するわ」


「……そうね、ごめんなさい。あなたの顔を見ると、どうしてもお説教してしまうわ。わたしは駄目な姉ね。あなたのように一人で歩くことすらできないのだから」


「そんなことない。姉さんがいなかったら、今のわたしはいなかったんだから」


「エステルの言うとおりだよ、カルラ。あの混乱の最中、わたしなんか見捨てていけばよかったのに、きみはそうしなかった。そればかりか、きみはずっとわたしを守ってきてくれたじゃないか。だから、どうか自分を卑下するなんて悲しいことはやめてくれ」


 二人から責め立てられるかのように慰撫されたカルラはエステルの優しい拘束から逃れると、涙を拭いて、気丈に笑いかけた。


「これじゃ、どっちが見送りにきたのか、分からないわね。いやだわ、わたしったら」


「大丈夫よ、姉さん。姉さんの面倒くささはわたしが一番よく分かっているから」


「おや、一番とは聞き捨てならないね、エステル。カルラのことを世界で最も理解しているのはわたしのほうだよ。いくらきみがカルラの妹でも、それだけは譲れないな」


「あら、義兄さま、お熱いこと。さすが、わたしがいない間に姉さんの面倒くささを堪能しただけはありますね」


「そうとも……あ」


 いつの間にか、カルラを揶揄するような内容になっているのに気づいた義兄は慌てて口を閉ざしたが、時すでに遅かった。カルラが剣呑な視線で二人を睨んでいたからである。視線は熱を帯び、当てられた箇所がまるで実際に焼けているかのような物理的痛覚すら覚えた。


「エ、エステル、助けて」


「そこでわたしに振らないでください。ここは義兄さまがビシッと男らしく姉さんに立ち向かってください」


「幼い頃、散々わたしに女物の服を着せたきみがわたしに男らしさを求めるのは間違ってると思うんだよ」


「え? それ、わたしだけじゃないですよね? 姉さんやニーナもやってましたよね?」


「そうとも。でも、きみがあのときのことに罪悪感を抱いているというのなら、今ここで借りを返してくれてもいいんだよ」


「罪悪感なんて、これっぽっちも抱いてないですよ。むしろ、あのときの義兄さまのお姿を思い出すだけで、達成感すら覚えますが」


「今、思い出に浸っている場合ではないと思うな」


 お互いが先陣を押しつけ合っていたのに、途中から話があらぬ方向へと舵を切り出したとき、ついに耐えきれなくなったのか、カルラが小さく噴き出した。そのまま口を押さえ、小刻みに震えているのは必死に笑いを堪えているからだろう。


 意図せずしてカルラの機嫌が直ったことに、義理の兄妹は顔を見合わせ、ほっと胸をなで下ろした。


 ちょうどそのとき、駅員がホームを歩きながら、発車を告げる声を上げていく。


「間もなくイエロ・バスク経由ロホ・ロカ要塞直行列車が発車いたします。一号車から三号車は士官専用車両となっておりますので、兵士の皆様におかれましてはお乗り間違いのないようお願いいたします。間もなく……」


 エステルを中心とした三人は何とはなしに駅員のほうを見つめたが、すぐに義兄は表情を曇らせ、義妹へと向き直った。


「エステル、わたしも正直反対なんだ。カルラも言ったけど、軍人になる必要なんかなかったんだ。わたしはね、きみたち姉妹が幸せになってほしいだけなんだ」


「お言葉ですが、わたしたちの幸せは最後まで義兄さまとともにあることだけなんです。たとえ、その先に母さんやニーナがいなくても」


 まっすぐ見つめてくるエステルの瞳には強い意志の力が灯っている。これ以上の翻意は彼女への侮辱だと悟った義兄は憂いの表情を浮かべたまま、エステルの背中に腕を回し、抱き寄せた。


「昔からきみはそうだった。どんな無茶もこうと決めたら、わたしの言うことなんか聞かずに突っ走ってしまう。そのたびにわたしがどれだけきみのことを心配したか、知っているかい?」


 突然のことで、エステルは目を白黒させていたが、視界の端に映る姉の悲しいまでの微笑みが胸を抉った。いかに妹とは言え、夫が眼前で他の女に熱烈な抱擁をして、心穏やかでいられない、というわけではない。


 エステルもカルラも知っていたのだ。十二年前のあの日、義兄の精神は肉体よりも前に燃え尽きてしまったことを。かろうじて残ったのは家族への絆と情、そして、風に晒され、流されていく灰のみだ。


 義兄がエステルとカルラに向ける愛に嘘偽りはないが、それは家族を失うことへの恐怖と二度と失うまいとする執着の裏返しの感情でもあった。


 死者が復活せぬように、この男の心もまた二度と蘇らない。それが分かるだけにエステルは悲しくも、愛おしく思いながら、義兄の背に手を回し、軽く掌で叩いた。


「いつもありがとう、義兄さま。こんなにもわたしを愛してくれて。でも、だからこそ、行かなきゃいけないんです。これが最後のわがままです。だから、笑顔で見送ってください」


 もう少し気の利いたことが言えないのかと、エステルは語彙力に乏しい自分に呪いの言葉を吐きたくなったが、思いは伝わったらしい。


 義兄は身体を離したものの、その表情は納得からほど遠いもので、まだなお葛藤が続いているようだった。傾国の美女と言っても過言ではないその顔をゆがめたまま、義兄は首からネックレスを外し、エステルに強引に手渡した。


「これは……」


 エステルは掌に置かれたものを見て、目を見開いた。白金の鎖の先に黒曜石を磨いたかのように滑らな宝玉の下飾りを持つそれは、義兄が肌身離さず持っていたものであり、形見であると同時に彼が何者であるかを証明する唯一の品だったからだ。


「これを持って行きなさい。いざとなったら、何かも捨てて、逃げるんだ。そのためにこれが必要になる。理由は分かるね?」


「ですが、これは義兄さまの大切な……」


「これがわたしのできる最大の譲歩だよ。もし、きみが断れば、わたしはきみを今すぐここから攫って、カルラとともに別の国へと亡命させるよ。これは脅しじゃない。もう手はずはすでに整えてあるからね」


 義兄と姉の手を取り、逃避行というのも悪くはない。そんな妄想が一瞬だけエステルの脳裏をよぎったが、すぐに雲散霧消してしまう。決して来たることのない現実であることが痛いほどに知っていたからだ。


 義兄は安全な場所までエステルとカルラを逃がしはするだろうが、彼だけはこの国を離れようとはしないだろう。幾重もの呪いが彼の枷となり、この地に縛りつけているのだ。


 そして、ひとたび別れたら、もう二度と会うことはないだろう。それはエステルにとって、本能的な恐怖だった。どんな形であれ、義兄が生きているという事実が彼女の足を立たせているのだから。


 エステルは黒い宝玉を握りしめ、胸に抱くと、もう揺るぐことのない瞳をまっすぐ義兄へと向ける。


「お心遣い、ありがとうございます。必ずや生きて、戻ってまいります」


「うん。きみに森と風の加護があらんことを」


「エステル、身体に気をつけてね」


 義兄と姉の激励を受けて、エステルは満面に笑みを浮かべて頷いた。


 足下のトランクを拾い、列車に乗り込もうとしたが、まだ一般兵の乗車が遅れていることもあり、もうしばらく二人の許にいようと未練がましい思いがエステルの心に浮かんだとき、混雑を縫って、力強い声が宙を貫いた。


「アイスコレッタ少尉!」


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