第一課課長イサアク・レヴィ中佐との邂逅

「シモン・バレンスエラ少尉、現時刻をもって、統合参謀本部戦史編纂部第一課に着任したことをご報告します」


 シモンの声に応じたのかどうか、課長は緩慢ではあるが、優美な所作で軍帽を机の上に置くと、髪と同じ色をした暗赤色の瞳を向けてきた。


 その容姿を見た瞬間、シモンの胸骨を心臓が激しく叩く。


 妖艶という言葉が人の形を取っていると言っても過言ではない美貌だったからだ。造形の美だけではない。左目は黒い眼帯に覆われ、完璧な何かを傷つけたような背徳感がシモンの背筋を毛筆のようになでていく。


 シモンに向けられた視線は険しくもなければ、鋭くもなかったが、底なしの深淵に続く虚無の色があった。高ぶった心臓を鷲掴みされたかのような寒気がシモンを襲う。


 自分が攻撃を受けていると錯覚するほどの緊張は一瞬で四散した。課長の口の端が持ち上がり、雰囲気は一変して柔和なものになったからだ。


「ああ、ご苦労様。わたしが戦史編纂部第一課課長のイサアク・レヴィ中佐だ。これからよろしく頼むよ」


 イサアクの声は音楽的なテノールの響きがあり、一瞬、陶然としてしまったシモンの返答は一拍遅れた。上官の前で醜態を見せかけたシモンはそうと悟られる前に敬礼をし直して、威儀を正す。


「はっ! 若輩者ではありますが、よろしくご指導のほどお願いします!」


「まあ、そう肩肘張らずに。何せ、わたしたちはご覧の有様だからね。とてもじゃないが、『ご指導』なんてできる立場じゃないさ」


「あ、いえ……そのような意味で言ったのでは……」


 図らずも、上官の前で嫌みを言ってしまったことに気づき、シモンは赤面してうつむいた。つい先刻、課員のだらしなさに不満を抱いたばかりではないか。内心の揺らぎが口調に表れたことを見透かされたと思ったのだ。


 イサアクは苦笑したのみで、着任早々「やらかした」部下を咎めるようなことはしなかった。代わりにシモンが聞きたいであろう答えを口にした。


「ついさっきまで六課の手伝いをしていたのでね、多少のことは目を瞑ってくれるとありがたいな」


「六課、と言うと……諜報課ですか?」


 まるで接点がなさそうな戦史編纂部と情報戦略部諜報課にどんなつながりがあるというのか。その疑問が口よりも雄弁にシモンの顔に出る。


 腹芸が得意ではなさそうな新任少尉にイサアクはまたしても苦笑しつつ、その疑問にも答えてやった。


「別に六課だけじゃないよ。要請という名の命令があれば、いつでもどこにでも駆り出されるのさ。どうも上の方はわたしたちが遊んでいると思っているらしくてね、無駄飯食らいを存分にこき使ってやれってことなんだろう」


 戦史を編纂するのも十分に公共に資するものではあるのだが、フォルミカ軍は慢性的な人材不足の状態にある。


 人口は増えているというのに、徴兵以外で軍への志願は年々減っているのだ。戦争当初は帝国の扇動に乗せられたことへの怒りから募兵に応じる国民も多かったが、さすがに十年以上も戦争をしていると厭戦気分が蔓延してくるものらしい。


 足りないのは兵士だけではなく、士官も同様である。そのため、士官学校は卒業後も軍に留まるようしきりに囲い込みを行っているという次第だ。

 

 最前線に配属を希望していたシモンにすら、教官たちは変節してないかを確認していたくらいなのだから。


「しかし、また、人事課も奮発してくれたものだね。まさか士官学校次席卒業生を寄越してくれるんだから。まあ、『協調性に欠け、独善に走る』なんて補足がなければ、もっとよかったけど」


「ぐっ……弁解する言葉もないです」


「いや、別に責めているわけではないんだ。確かに兵士には向かないけど、士官なら問題ないと思うからね。現場を知らない参謀本部が無茶な命令を出したとき、抗命して自分と部下の命を守るか、拝命して部隊を壊滅させるか、どっちかを選ばなければならないときにそういう性格だったほうがいい場合もあるだろうしね」


 慰められたのか、皮肉られたのか、口調や表情からどちらともとれないイサアクの態度に、シモンは困惑するほかない。


 苦手意識が芽生えるのを自覚しつつ、シモンは表情を改め、イサアクへと向き合った。


「中佐殿のご忠告、肝に銘じておきます。ただ、一つ確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


「どうぞ。わたしで答えられることであれば」


「では、おたずねします。今回の小官の人事、父が介入したのでしょうか?」


「さて? 少なくとも、わたしは知らないな」


「そうですか……」


 シモンの声音に失望の色が露わになる。余計なことを聞いたことへの後悔も湧いた。


 たかだか一中佐が軍の人事について何を知っているというのか。よしんば、知っていたとしても、話せるはずがない。


 軍の人事は公正であるというのが大前提だからだ。現実は政府高官の子息が優先的に後方任務に回されるなんてことが横行しているが、人事課は決してその事実を認めようとはしないはずである。

 

 詰め寄ったところで、返ってくるのは「本人の適性と資質を厳正に審査し、適所に配した」という型にはまった答えのみだろう。


 消沈したシモンを慰撫するイサアクの言葉もまた型にはまった平凡なものだった。


「納得がいかないのなら、直接聞いてみることだね。きみが、きみだけがその権利を行使できるんだから」


 イサアクに言われるまでもなく、シモンは配属先が決まった時点で父ビクトルに問いただそうとは思っていたのだ。


 思っただけで行動に移せなかったのは、士官学校卒業から今朝に至るまで二日しかなかったからだ。学生寮から士官専用の独身寮へと荷物を移し、面倒な各種の手続きもすまさねばならず、短い休みを謳歌するどころではないせわしなさだった。


 そこまで考えてから、シモンは内心で頭を振った。それも父に会いたくない言い訳でしかない。作ろうと思えば、時間などいくらでも作れたはずなのだから。


 シモンはイサアクとは違った意味でビクトルが苦手だった。シモンが幼い頃から革命に「うつつを抜かしていた」ビクトルはほとんど家に帰ってこず、そのため、母アスセナの死に目にも会えなかった。葬儀には出たが、その足でそのまま革命の炎の中に身を投じ、ますます家には寄りつかなくなったのである。


 ビクトルとの交流の時間があまりにも少なすぎた。その上、シモン自身も士官学校入学時より二年間、一度も帰省していない。だから、何を話してよいのかも分からない。シモンが父を敬遠するのも仕方のないところである。


 だからといって、いつまでも避け続けるわけにはいかないし、何よりもビクトルが権力を濫用したとは考えたくもないが、実子を後方勤務へと配属させたなどという疑念を拭わなければ、先へは進めない。疑念が事実だったらと考えると意思も萎えてはくるが、今考えるべきではないと悲観的な想像を切り捨てる。


 眼前の部下が内心の葛藤をどう整合させるのか、興味深く観察していたイサアクだったが、ようやく一つの結論に辿り着いたらしいことを見計らい、シモンに声をかけた。


「さて、少尉、彼らなんだが、もう帰してやってもいいかな?」


 イサアクは首を傾げて、シモンの身体越しに半死人と化した部下たちの状況がより悪化したことを確認していた。


 シモンも半身を返して、課員を眺めやって、ぎょっとしたように身体を強張らせる。さすがにこれでは仕事になるまいと、イサアクの提案に賛意を示す。


「小官は構いませんが……もしかして、小官を待ってくださったのですか?」


「ああ。せめてお互い紹介させようと思ったんだけど、この分だときみの彼らに対する心証は最悪だろうからね」


「だから、言ったじゃないですかあ? 日を改めようって」


 上官同士の会話に割り込んで、ぼやいたのは最初にシモンに対した軍曹である。シモンは眉間に皺を寄せつつも、何かを言うのは避けた。ぞんざいな態度は不快だが、疲労困憊の状態の彼らに何を言っても、恨まれるだけだからだ。


 代わりにイサアクが意地悪く軍曹のぼやきに答えてやった。


「うん。わたしもそう考えてはいたんだけどね、そうなるとわたしだけ時間外労働を延長する羽目になるだろう? それは不公平だと思うんだがね」


「いや、それ完全に腹いせじゃないっすか?」


「何か問題が? 我が戦史編纂部第一課は一蓮托生。そう決めたじゃないか?」


「いや、そんなの聞いたことないですが」


「やれやれ、まだわたしたちの間に以心伝心はできないようだ。それは今後の課題とするにして、今日はもう帰ってよろしい」


 現金なもので、帰宅の許可が得られて、課員たちに生気が戻ってきた。中には朝から酒場に入り浸ろうなどと口走るものもいる。シモンが定時よりも早く来たことに感謝の意を伝えるものもいて、課員のためなどとはまったく考えていなかったシモンは良心がうずくのを覚えた。


 全員が退出したあとで残された士官二人は再び相対した。


「中佐殿はお帰りにならないのですか?」


「そうしたいのはやまやまだけどね、さすがにきみ一人を残していくのはさすがに無責任だろう? それに部長にも挨拶しなきゃいけないし、それがすむまでわたしが帰るわけにはいかないのさ」


「ご配慮、痛み入ります」


「うん。じゃあ、それまでわたしは夢の国へと出向することにするよ。まだ部長だって、出仕してないだろうしね」


「はあ……」


「二時間経ったら起こしてくれないか? それまできみはそこの書架にある戦史でも読んで、暇を潰してくれたまえ」


 言うだけ言うと、イサアクは軍帽を顔に乗せ、再び寝入ってしまった。軍帽の下から漏れ出る寝息が規則的になり、完全に寝てしまったイサアクを見て、シモンはため息をついた。


 これからどうなってしまうのか。不安ばかりが彼の胸中を曇らせていく。

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