第3話 お揃いのカップ

 ぽかぽかとした冬の陽光が、香子きょうこのまるい背中ををあたためる。

折りたたみ式のローテーブルの上には、『世界の陶器』と題材された分厚い本が広げられていた。

高価だがいつか香子でも購入出来るような陶器のカップが載っているかもしれないと思い、閉館間際の図書館で慌てて借りたのが失敗だった。

内容を殆ど確認していなかったのだ。


「全部美術館にあるんじゃん。しかも、海外」


 香子は本をテーブルの隅に寄せ突っ伏す。

今日はバイトも休みだし、本はハズレだし、お菓子を作る気にもなれないし。

賢一におはよう

とメールを送れば、

お元気ですか

とよく分からないテンションの返信がくるし。

おひさまがあたたかいからこのまま寝てしまおうか。


うとうとしかけた香子の眠りを携帯電話の短い振動が妨げた。

平日のこんな時間に連絡してくる人間は一人しかいない。


「やっぱり」


 友人の瞳子とうこからの連絡だった。



 ──当直終わった


 香子はテーブルにうつ伏せになったまま返信画面を開く。


 ──おめでとう


 我ながらなんと適当な返信だろうか、と香子は思う。

会話が噛み合っていない。

だが、相手は瞳子、強敵だ。

今日はだらけたい。

携帯が再度、振動する。


 ──B駅着いた


 すぐそこじゃん!何で家に帰らないで私の家に直帰するんだ、おかしいだろう!来るなら来るで職場出る時に連絡しなさいよ!

と返信する間もなく、玄関でチャイムが鳴った。

 


「ねむーい。お腹すいたー。てか、まだパジャマ?」


 瞳子は靴を脱ぐなり、黒目がちの丸っこい目で香子の顔を覗き込みにやにやした。家の主のように堂々と洗面所へ行き、手洗いとうがいをさっさと済ませる。


「私も眠いんだよ。気が合うね。素晴らしい。よし、寝よう。帰れ帰れ」


 瞳子は香子のベッドにちょこんと座り、香子のお気に入りのクマのぬいぐるみを逆さまにしている。


「お腹空いて眠れない。てか、流石バイトさんは違うよね。十一時なのにパジャマなんだもん」


 小憎たらしい。

瞳子とは中学生から六年間も同じ学校で学んだ仲だというのに、口で勝てたことは一度も無い。

ぬいぐるみの腕は、ぐるぐると捻られてた。


「この生活が羨ましいだろう」


「ぜんぜーん」


 瞳子は足をぶらぶらさせながらぬいぐるみを捻り続けている。

先程よりエスカレートしているようにも見える。


「瞳子。クマの腕がもげるからやめれ」


「あはは、結構丈夫みたいだよ」


「そういう問題じゃない」


 瞳子は無邪気に笑った。

瞳子はいつもこうだ。

飄々としていて、巧みに会話をかわし、それでいてものすごく可愛いから、つい甘えさせてしまい、香子はいつも何かしらからかわれてしまう。

出会ってから十年以上が経つのに、二人のこの関係はずっと変わらない。


「あ。取れそう、腕」


「えーー!?」


 香子が驚いて瞳子の方を振り向くと、ぬいぐるみを抱きかかえた瞳子がにっこり微笑んだ。


「バカ単純っていうか。うそだよー」



 香子と瞳子の関係は本当に変わらない。

 


 香子のキッチンの食器棚、一番上の段の左端には瞳子のマグカップが置いてある。瞳子は香子がこの家で暮らし始めてからすぐに顔を出して、食器棚を見て言った。


「ここ、私のマグを置くから」


 次の日には瞳子はマグカップを持参し、マグカップだけ置いて帰っていった。

瞳子の命令は絶対である。

違う場所にしまうと、一番上の左端にさりげなく直されている。

ちょこんとしているのにもの凄い存在感を放っている瞳子のマグカップ。

ここまで持ち主によく似たマグカップはこの世に二つとあるまい、と香子は密かに思っている。

 

 瞳子のマグカップ、香子のティーカップ、ティーポットをそれぞれ熱湯で温める。

このティーカップとティーポットは秋にセットで購入した。

耐熱グラス製で、愛らしいリスがどんぐりを集めている模様に一目惚れしてしまった。

もし母や姉が香子の食器棚を見たら、コップ屋にでもなるつもりかと笑うだろう。

見ることはない、はずだが。

そう願いたい、今は。


 瞳子にはカフェインで元気になられては困るので、香子はカフェインレスの桃の紅茶を棚から出した。

紅茶の包みを開くと、柔らかでやさしい白桃の香りが香子の鼻孔をくすぐった。

茶葉をキャディスプーンで丁寧にティーポットに入れる。

熱湯を注ぎ、ティーポットの蓋をしてから、用意してあったミントブルーのティーコジーをすぐにティーポットに被せた。

ティーポットの下には布巾を敷いてある。

手際良し。

自画自賛しているうちは駄目だと思いつつも、砂時計を用意してキッチンから部屋に戻った。

 

 瞳子は眠っていた。

座った体勢のままころんと横になったのか、胎児のように丸まっている。

薄いファンデーションでは隠しきれない目の下のくまに目がいった。

ぬいぐるみは床に放り投げられていた。

先週会ったばかりだというのに、少し痩せたようにも見えた。

シーツに瞳子の化粧がつくくらい、なんてことない。眠れる時に眠って欲しかった。

 香子は二つのカップに視線を移した。

空っぽの二つのカップ。

 


 カップ……コップちゃん……

 


 脳裏を二歳の香子が駆けて行く。

追いかけたくない。

けれど、香子は時間の穴に吸い込まれていくように、二歳の香子に引っ張られていく。


 

「牛乳はお姉ちゃんが来るまで待ちなさい、香ちゃん」


 台所から香子の方に振り返った母が微笑んだ。

今朝は父がいるため、ホットケーキではない。

ご飯、わかめの味噌汁、よく火の通った卵焼き、ほうれん草の煮浸し。

父には納豆と塩鮭まで用意されている。

香子にとってはどれもご馳走だ。


 香子は牛乳が好きだった。

和洋中問わず、牛乳を飲んでしまう。

牛乳を飲むと直ぐにお腹がいっぱいになってしまい、ご飯が入らなくなる。

ご飯を食べきれないと優しい母が鬼と化すので、牛乳を飲むタイミングはとても難しい。


 母はまだ台所にいた。

父は書斎にいるようだ。

姉が台所から香子のそばにきて、隣に行儀よく座る。

姉の手には姉妹お揃いのマグカップが握られていた。

姉がテーブルにマグカップを置く。

目、鼻、口だけが描かれたマグカップ。

香子はこのマグカップたちを「コップちゃん」と呼んでいた。

おはよう、と挨拶をするとコップちゃんも、香ちゃんおはよう、と言ってくれる。

牛乳を飲まない時も、母にせがんでコップちゃんを食器棚から出してもらい、ままごとをして遊んだ。

香子はそわそわしてしまう。

香子はマグカップに手を伸ばした。


「まだ牛乳入れてないよ」


 落ち着きのない香子を見て、姉が笑う。


「しってるよーだ」


 香子は二つのマグカップを両手に持ち、マグカップ同士をコツンとぶつけてみた。

マグカップのおでことおでこがごっつんこ。

なんだか面白かったので、もう一度ぶつけてみる。

姉が笑った。香子も楽しくて声を出して笑った。


「コップちゃんはなかよしだから、こうやってあいさつするんだよ、おねえちゃん」


「あたしもやりたい」


「香ちゃんがもういっかいやるの。そしたらおねえちゃんもやってみて」


 そこまで言い終えたとき、尻に激痛が走った。

香子は足が天井へ、頭が床へ落ちていく。

唐突な暴力に、まだ二歳の香子が防御など出来るはずもない。

自分は床にべちゃっと落としてしまった生卵のようだと、香子は思った。


「コップが割れるだろうが!」


 真っ赤な顔をした父が怒鳴る。

いつ書斎から出てきたのだろう。また父に叱られてしまった。

尻がズキズキと痛む。怒鳴る父の唾が顔にかかる。

父は二つのマグカップを片手で持ち、振り上げた。

とても素早い動作だったのにスローモーションのように見えた。

二つのマグカップは香子の頭に叩きつけられ、粉々に砕け散った。

台所で静かに料理をする母の後ろ姿が見えた。


 

 あの後は確か、ほら割れたじゃないかと父に怒鳴られて、マグカップの掃除をした。

欠片を一つ一つ拾って捨てた。

今は、砕けた記憶の欠片を一つ一つ拾っている。

拾いたくもないのに。

白地図を埋めるが如く、パズルのピースを埋めるが如く。

埋めても埋めてもひっくり返って、またばらばらになって。

埋め直したくないのに埋め直す作業を延々と続けている。

もう何年も。

小さな香子が走り出したら止まらない。

大人になった香子がコップ屋になるが如く、マグカップやティーカップを買ってしまうのは、自分の夢や興味からだと思っていたが、今でも失くしてしまったコップちゃんを探しているのかもしれない。こじつけかもしれないけれど。

香子は無意識のうちに手の甲を齧る。

 

 

コップちゃんはわれちゃったけど、おねえちゃんとおそろいのあたらしいコップはもうわりたくないの。

きょうちゃんがわるいの。

しずかにすわっていたらパパはおこらないよ。


 

 香子の気配を感じて瞳子は起き上がった。

体育座りをして、自分の手の甲を噛み続ける香子に気付く。

香子の視界に瞳子は映っていない。

お互いに、手を伸ばせば触れられる処にいるのに。

瞳子はぬいぐるみを抱きしめ、自らの右の甲を噛んだ。

 


 

 思い出にとらわれていた香子だったが、ベッドで丸くなっていた瞳子が起き上がったのに気付いた。

瞳子はまだ眠そうにしている。


「ごめん、寝ちゃった。どれくらい経った?」


「ざっと二十年くらい」


「一時間も寝てないか、あー眠い」


 自分で時計を見て確認した瞳子は、欠伸をしながらベッドから滑り降りてくる。


「疲れてるなら、まだ寝てて良いよ」


「お腹空いたもん、紅茶飲みながら待ってるからなんか作ってよ」


「それでは瞳子様の大好きな…」


「からーいペペロンチーノで!目が覚める辛さで頼むよ」


 香子が辛い食べ物が苦手なのを承知で、瞳子はにっこり微笑んだ。

 


 激辛ペペロンチーノに付き合うことなどないのに、香子は瞳子を笑わせたくて、ひいひい言いながらフォークを動かす。瞳子はお腹を抱えて笑っている。


「ドエムだよねえ」


「稀に見るドエムよ。歴史に名を残す」


 瞳子は紅茶をおかわりしようとし、手を止めた。

まんまるな目をぱちぱちとする。


「あれ、このティーセット見たことない。いつ買ったの」


「秋かな」


「なんで」


 責めるように香子を問い質した。


「可愛いからかな?」


「私のは?」


「ごめん、買ってない」


 瞳子は頬を膨らませた。


「なーんーでー」


 二十を過ぎた社会人が頬を膨らまして怒っても、全くあざとく見えず、寧ろ可愛く見えてしまうのは瞳子ならではである。

自分が同じことをしたらさぞかし気味が悪かろうと、香子は思った。


「前にお揃いは嫌いって言ってたじゃん、瞳子。

とか言って度々お揃い買ってるけどさ。

どれなら良くてどれなら駄目かわからないよ」


「これはお揃いが良かった」


「……と言われましてもねえ」


 瞳子は余程ティーカップが気に入ったのか、赤く揺らめく紅茶を光に透かして見ている。


「じゃ、ネットで買おう」


「お店で買いたい」


「今日?後日?」


「秋に買ったんでしょ。今日だよ、無くなっちゃうよ」


「もう無いんじゃ……」


 香子がぽつりと呟くと、瞳子は嬉しそうに笑う。


「誰かさんの気が利かないからこういう事になったんだよ」


「私のせい!?」


「誰とは言ってないけど自覚があるってことなのかな」


 嬉しそうな笑顔とは裏腹に刺々しい言葉を放つ瞳子を止める事は香子にはできない。

香子はパソコンの電源を入れる。


「無駄なことを。今日買いにいくんだよーん。見つかるまで歩くのだー」


「やめときなって、瞳子なんか眠そうだし、やつれてるもん。

ほら、ネットで売ってるよ。

残り三点、ほらどうするの」


 むうっ、と唸りながら瞳子は画面を覗き込んだ。


「ネットで良いから、クリスマスプレゼントに買って」


「えっ、プレゼント?」


 驚いて瞳子の顔を見つめると、瞳子は素早くベッドに戻ってぬいぐるみを捻り始めていた。


「その代わり、私はお皿付きのたかーいティーカップをお揃いで買ってあげましょう。

世界の陶器なんて本読んじゃって、まぁまぁまぁ」


「あ、じゃあ百万くらいのお願いします」


 軽口を叩いて瞳子の様子を見てみる。


「百万でも二百万でもどうぞー。

バイトの人よりは遥かにお金持ちなので」


「事実だが胸に刺さる」


「ならば精進せよー」


「ははー」


 香子が土下座するふりをすると、瞳子はまたケラケラと笑った。

香子は瞳子がケラケラと笑うと不思議な気持ちになる。

瞳子はいつも誰の前でもにこにこはしているが、ケラケラとは笑わない。

香子といるとお腹を抱えて泣きながら笑う。

楽しんでくれていたら良いのだけれど、これが瞳子の素の姿なのだろうか。

無理して笑ってくれているのではないかと思うと、香子は不安になる。

不安な気持ちは嫌な思い出を呼び覚まし、助長する。


「私はお揃いはやっぱりいやだな」


「決定事項だよ。諦めなさい」


「いや、真面目にさ。割れたりしたら、かなしいじゃん」


 瞳子はぬいぐるみの両手をぐいっと引っ張ったまま動かなくなった。

香子は、見えない小さな緊張が二人の間に走った気がした。

瞳子は足をぶらぶらさせ始めた。


「最初に割るのはどう考えてもそっちだと思うけど」


「なんでじゃ」


「普段の行いだよねー。

ま、割れたら私は怒るけど、またお揃いの買えばいいよ」


「百万のも?」


「百万はちょっとなー、許せないなー」


 

 瞳子とお揃いのものは欲しいけれど、「コップ」は嫌だ。



 香子がそう言おうと思った矢先に、瞳子は香子の目を真っ直ぐ見て言った。


「大切なコップを割る人はもう誰もいないんだよ」


 瞳子は穏やかな表情で香子に向かってぬいぐるみを放り投げた。

香子は反射的にぬいぐるみを受け止める。

瞳子にいじめられていたぬいぐるみはとてもあたたかかった。

 


香子と瞳子の関係はずっと変わらない。

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街の灯り 遙野灯 @A_haruno

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