第2話 クリスマスの朝

おはよう

ママもパパもおねえちゃんもまだねてる。

さむうい。

はながつめたいや。

おなかすいたな。

はやくおふとんからでたいな。

あれ。あれ、あれ?なんだろう、これ。

さわってもいいのかな。


 

「サンタさんがきたー!」


 

 目覚めると、部屋はしんと静まりかえっていた。

単調な時計の針の音がやたらに響く。

左右を見渡すと一番壁側で寝ている父、右に姉、左に母。

家族は皆熟睡している。

頭の方に目を向けると、カーテンの隙間から弱々しい冬の朝日がその周囲だけを明るくしている。部屋はほの暗い。

頬や鼻に触れるととても冷たかった。

暖かな母の布団の中へ身を寄せようとした時、再度頭の方へ目をやった。

何かが置いてある。

白地に金色の雪の結晶の模様の包装紙、林檎のように真っ赤で大きなリボン。

箱は姉の頭側に二つ、香子の頭側にも二つあった。

香子は冷たかった頬が一気に紅潮するのを感じるのも間もなく、布団から飛び出て歓声をあげた。

 


「サンタさんがきたー!」


 

 声に驚いて姉が目を覚ます。

母ももぞもぞと動き出した。

姉もすぐに箱に気付き、目を覚ましたばかりだというのに早速布団から出ようとしている。

香子は嬉しくてたまらない。

いい子にしていたら、ちゃんとサンタさんが来た。

頑張って入院もして、点滴もさみしいのも泣かずに我慢したから、サンタさんが来てくれたんだ。

箱をぎゅっと抱きかかえ、母の方に顔を向ける。


「ママ、あのね!サンタさんが……」


 母は香子の少し後ろを見つめている。

顔が強張っているのがわかった。


「ママ、ねえ、あのね」


 再度言いかけた時だった。


「朝からうるせえんだよ!」


 怒鳴り声と共に、右の頬を叩かれた。

頬と一緒に耳も叩かれ、ジンジンと痛む。

叩かれた場所が熱い。

叩かれた衝撃でたった二歳の小さな香子は吹っ飛び、壁に頭をゴツンとぶつけた。

確認するまでもなく、叩いたのは父だと直ぐに分かった。


ああ、失敗した。

サンタさんが来ても声を出しちゃいけないなんて知らなかった。

ごめんなさい。

早く謝らなければ。

しかし、矢継ぎ早に尻を蹴り上げられる。

あまりの痛さに香子は大声をあげた。

サンタさんのプレゼントは胸に抱えたままである。



「香子ちゃんはお注射でも泣かないなんて偉いね」


 病院に行くといつも先生に褒められる。

注射は十分痛かったし怖かったが、褒められると嬉しくてにんまりしたものだ。

しかし、今思うと父の暴力に勝る痛みはなかった。

そして、痛くて泣けばさらに叩かれる。

だから、香子にとって泣くことは恐怖でしかなかった。

大抵の痛みは我慢出来た。

しかし、その日の朝は蹴られた場所が悪かったのか尻に激痛が走った。


「痛いよう!パパ、ごめんなさい!痛いのやめてください!」


「うるせえって言ってるだろうが!」


 父はまだ鋏を入れたことがない香子の髪を掴み、畳の上を引きずる。

ブチブチと嫌な音を立てて髪が抜けていく。

声を出したらもっと叩かれる。

目に溢れんばかりの涙をためて我慢したが、痛みを我慢するほどゲホゲホと咳き込みしゃっくりが出始めた。


 叩かれた頬と耳が畳を擦り更に痛みを感じる中、

少し離れた場所で姉が固まっていた。

怒りの矛先がいつ姉に向いてもおかしくないからだ。

香子は悪いのは自分だけなのに、

大好きな姉まで叩かれたらどうしようと困惑した。

助けを求めるように母を見ると、これまた固まっている。

まるで地蔵だ。

大きな目だけぎょろっと開き、それ以外は石のように動かない。

瞬きすら忘れている。

父は大声で何かを怒鳴り続け、畳に転げた香子の髪を引っ張ることに精を出しているが、香子は段々と父が何を言っているのか分からなくなった。

耳の奥でぐおんぐおんと洗濯機が回るような音がするだけだ。

涙もいつの間にか止まった。

父が大きくなったり小さくなったり歪んで見える。

香子が悪いのだ。

その時の香子はそう思った。


「……ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」


 張り詰めた糸がぷつりと切れたように、父は香子の髪から手を離した。

父の指には香子の細い髪の毛が沢山絡まっていた。

父は舌打ちをしながらそれらを払い、布団に潜り込む。


「……寝る」


 香子は怒られないように直ぐに姿勢を正し、サンタさんのプレゼントの箱が少ししか潰れていないことを確認して、ホッとした。

サンタさん、プレゼントをありがとう。ごめんなさい。

姉はまだ凍りついていた。

目だけの生き物になっていた母の口が動く。

良かった、母は地蔵に変身したわけではなかったのだ。


「朝ご飯にするから。パパはまだ寝るから。香澄も香子も着替えてあっちに行きなさい。」

 

 その後、何を食べただとか父がいつ起きたのかなどは覚えていない。

サンタさんのプレゼントの中身は看護婦さんセットで(当時は看護師は看護婦と呼ばれていたのだ)、その後父に手をあげられた後は人形と一緒に病院ごっこをして遊ぶようになったのは覚えている。



 

 香子の頬を涙が伝った。

鼻水も出た。

焦げはまだ落ちていない。

当たり前だ。

思い出した初めての記憶は、

電気のように一瞬にして香子の中を駆けて行ったのだから。


 その時、ドアがガチャガチャと音をたてた。


「ただいまー」


 合鍵を持っている賢一だった。


「今日はなんかもう、色々駄目だ。

諦めた。俺は研究者には向いてない。

ってなわけでこっちで録画した番組を観に来た……っておい、

あんた何泣いてんだ?

水が冷たかったか?怪我でもしたか?」


 慌てて靴を脱ぎ、玄関のすぐ脇のシンクで鼻水を垂らしてしくしくと泣く香子の顔を覗き込む。

香子は我慢が出来なくなり、わあわあと大声を出して泣きじゃくった。


「焦げが落ちないんだもん!知らないんだもん、落とし方なんて!知らなかったんだもん、プレゼント貰って声を出しちゃいけないなんて!」


 香子は賢一にしがみついてわあわあと叫ぶ。


「意味がわかんねえよ。

前後で全く話がつながってません。まずは鼻をかめ。啜るな。

で、手を洗え。泡だらけだから。

鼻水も泡も俺につくだろうが。

しがみつくのはそれから。

それから叫べ。夜だから出来る限り小さく叫べ」


「やだ」


「やだってあんたガキじゃねーんだからさあ。

まあ、もういいや。ついちゃったから。きたね」


「ガキだもん。賢一は無神経だ。私は泣いている。」


「そんなん言われなくたってわかるわ。

あのね、俺は鼻水と泡がついてるの。

しかも状況がわかんないの。なんか想像はつくけど」


 賢一は文句を言いながら香子の背中を軽く叩いた。


「先ずは一つずつ片付けよう。なんだっけ」


「……焦げが落ちない」


 香子は賢一にしがみついたまま、シンクに視線を送る。


「この鍋?珍しい、焦がしたんだ」


「落とし方わかんない。もう痛くて嫌だ。あちこち痛い」


「あんたねー、頭使いなさいよ。

一応理系大学卒業でしょうが。

物理的にこそぎ落とせないなら、化学的にいきなさいよ。

重曹に漬けてみましょう」


「お菓子作りの重曹しかないよ」


「じゃあ、俺明日買ってくるよ」


「今日洗いたいの」


「面倒くさい人ねー。じゃあ、今買ってくるよ俺」


「一人にしないで」


「じゃあ、一緒に行こうよ。

分かってると思うけど寒いから、咳が出ないように首周りあたたかくして。

それなら一緒に行っていいよ」


「帰りにシュークリーム買ってくれる?」


「いいよ、幾つでも……いや、二個まで!ってあんたガキか」


「ガキだもん」


「はいはい、出た出た。だもんだもーん」


 賢一に小馬鹿にされていたら涙が止まってしまった。

急に恥ずかしくなる。

照れ隠しに泡だらけの手を賢一の顔の真ん前に突き出したら、手を叩かれた。


「触ったな、これで君も泡仲間だ」


 と香子が笑うと、賢一はしかめっつらで手を洗った。


「急げ。俺は腹が減った。急げ。でも急ぐと咳き込むから急がないで急げ」


「よくわからない」


「まあ、コートを着なさいってことよ。わかれよ」


「わからん……」

 


 お気に入りのダッフルコートを着ようとしたが、膝まであるモコモコのダウンジャケットを着せられ、首にはマフラーをぐるぐる巻かれ、自分でやるといっているのにティッシュで鼻を拭われた。

手を繋いで二人で外に出る。

白い息をほおっと吐く。

面白いのでもう一回。

ほおーーっと長く吐いたら、香子は賢一にチョップされた。


「発作起きるから息するな」


「無茶な!」


「お前なら出来る」


「じゃあ、止めてみるか」


「やめてください、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


「分かれば良い。許す」


「何をだよ」


軽口を叩き合う。

吸い込まれるような漆黒の空に瞬くリゲルは、

先程とさほど位置が変わっていない。

リゲル、シリウス、プロキオン。

手を繋いでいない左手で指さす。


「すぐすっ転ぶんだから歩くのに集中しろよ」


「転けても大丈夫だよ。賢一巻き込んで転げたる」


「て、てめえ!」


 物理的に落とせないなら化学的に、か。

何故、冷静になれなかったのだろう。


「ねえねえ」


「ねえは一回にしろって」


「ねえ」


「うるせーな、何だ早く先を言えよ。とろいなー本当に」


「ねえ、あのさ。化学的にも落ちなかったらどうすればいいの?」


「焦げ?」


「そう」


「鍋を捨てる」


「嫌だよ。何でそんなに簡単に捨てるかなあ。

自分のだったら捨てないでしょう」


「捨てるよ、いや捨てないかな。わからん」


「じゃあ、仮に」


「じゃあって出だしが気に食わん」


「気に食わなくてもいいの。

あのさ、鍋がうんと高級で宝物でお気にいりだったら」


「……そんな大事鍋を焦がすなよ」


「だから、仮だってば」


「一緒に洗えば良いんじゃないの?」


 賢一はこともなげに答えた。


「手伝ってくれるの?」


「焦げが落ちないーって言って泣かれて、鼻水つけられて、泡まみれにされるよりマシでしょうが。

そのくらい手伝いますよ。

今日も先ずはやってみよう」


 香子は喉に刺さっていた何かが呆気なくぽーんと飛び出してきたような気持ちになった。


「いいよ、先ずは自分でやってみる。重曹ドバッとね」


「そう、なるべく熱いお湯が良いと思うよ。

いいよ、俺やるって。あんた、とろいし。

それにね、何も今日こんな夜に洗わんでも良いんじゃないの?

重曹は突っ込んでやるから、日を改めなさいよ。

明日の朝でも良いじゃない。

俺がやるんだから明日でも良いだろ」


「クリスマスプレゼント何がほしい?」


「人の話を聞いていない上に話とぶなー。そして、要らない」


「クリスマスプレゼントはね、貰ったら大きな声を出して喜んで良いんだよ。知ってた?」


 香子は手を振り解き、街の灯りが広がって見える夜の坂道を駆け出す。

真冬の冷気は耳を、頬を齧む。


重曹。

シュークリーム。

焦げ落とし。

無理はしないで明日洗う、賢一が。いや、二人で。


 香子は振り返り、ぷりぷり文句を言いながら追いかけてくる賢一に向かって、真っ白な息を吐きながら笑顔で云った。


「ありがとう」

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