街の灯り

遙野灯

第1話 プロローグ 焦げ

 坂を登る。師走だというのにダッフルコートの下で肌がじわりと汗ばむのを感じた。自分のゼェゼェと煩わしい呼吸音に心の中で舌打ちをしつつ、大きく深呼吸をすると、透明な冬の冷気が肺いっぱいに満たされ、思わず咳き込んだ。家はもう目前にあるが仕方がない。携帯用の薬を嫌になるほど重たい鞄から取り出し吸い込む。再度咳き込みながら振り返ると、木々の間から家々の灯りが見えた。まだ息苦しいというのに、取り憑かれたように今来た道を少しばかり下ると、視野いっぱいに灯り、灯り、灯り。

 いつもこうやって灯りを眺めていた。誰かがいる家の灯りを。

 求めてきた。あたたかな灯りを。

 おかえりの一言を。

 灯りを振り切るように真冬の空を見上げれば、オリオン座のリゲルが煌々と青白い光を放っている。じっと見つめていたら目がパリパリして、終いには涙が出てきた。

 帰らないと。悴んだ手をコートのポケットにしまい、息を整える間も無く香子は再度家を目指すことにした。

 

「ただいま」

 誰もいないというのに、虚空に向かって挨拶をする。勿論、

「おかえり」

 という返答はないのだが、誰もいない空間は香子を安堵させた。

 なんだか、疲れた。とても。鈍器なのではないかと見誤るほどに重たい鞄をどさりとワンルームの部屋の真ん中におろし、パソコンの電源を入れ、コートを着たままお湯を沸かす準備をする。実家から持ってきたお気に入りのマグカップにインスタントコーヒーの瓶を無造作に傾ける。少し入れすぎたような……いや、少しどころではない。やはり妙に疲れている。灯りなど見て柄にもなく感傷に浸ったのが失敗だったのだ。晩ご飯は食べないで、もうコーヒーだけ飲んで休んでしまおうと思ったが、焦げ付いた鍋がシンクに置きっぱなしになっていることに気がついた。ぼんやりと鍋を眺めていたら、やかんがシューシューピーピーと音をたてる。火を止め、沸騰した湯をマグカップに注ぎながら、どんなに疲れていてもあの鍋だけは今日洗ってしまおうと思った。鍋にこだわっていたら湯を入れ過ぎた。マグカップから溢れかえるコーヒー。真っ黒でドロドロの液体が天板を伝い、シンクへポタポタと落ち、水を張っただけの焦げ付いた鍋を茶色くしていく。やはり、今日必ず鍋をきれいにしなければ。その前にコートを脱がなければ。やはり、私は今日、とても疲れている。

 

 有言実行。どんなに疲れていようが、どんなにコーヒーが不味かろうが鍋は洗う。コートは脱いだ。暖房もつけた。ヨシッ、と腕捲りをしてスポンジに洗剤をつける。そもそも鍋を焦がしたことがなかったので、こんな柔なスポンジで焦げが落ちるのかどうか疑問であるが、あるものでどうにかするしかない。さあ、観念しろ焦げよ。

 落ちない。爪でゴリゴリと削り取った方が早いのではないかと思うほど、こびり付いた焦げは落ちない。爪で焦げを剥がしたら指は痛かろうが、汚れはうんと早く落ちるだろう。しかし、ここで爪を使ってはなんだか焦げの思うツボのような気がしてならない。ここは焦げとは関係ないことを考えながら、焦げと戦うのが最善と思われる。そういえば、電車を降りてから今に至るまで携帯電話を一度も触っていなかった。変人、いや恋人の賢一は今頃何をしているだろうか。今日も只管に核酸の電気泳動をし続けているのか、頭を抱えて論文を書いているのか。彼の難しい顔を想像すると口元が緩んでしまう。そういえば、今年はまだ賢一にクリスマスプレゼントを買っていなかった。何が欲しいと訊ねれば、そんなものは要らないとはねのけられてしまうが、だからこそどんなに些細なものでも喜んでくれる。少し困惑しつつはにかむ賢一の顔が見られれば、香子はお返しなど何も要らない。その時、頭の中でとても小さな子どもが壁に頭をぶつけている情景が思い浮かんだ。香子はこれでもかというぐらい力を込めて焦げを落とそうとする。額から汗が垂れるのも気に介さず、一心不乱に焦げを擦る。落ちろ、落ちろ、消えろ、消えろ。頭の中の子どもは大声を出して泣くが、髪を掴まれ抵抗するを諦めた。

 

「……ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 

 何がごめんなさい、だ。香子は、頭の中で子どもに暴力を振るった人間、それを傍観する人間、暴力を振るわれている子どもが許せない。この子どもは香子自身だ。香子の一番古い記憶だ。二歳の時のクリスマスの朝。二歳の時の記憶が所々にあると言うと、それは気のせいだとか、誰かに聞かされた話を頭の中で思い描いているだけだろうと人は云う。だが、香子はそうは思わない。五感を震撼させ、恐怖心を伴う体験は頭に、脳に、心にこびりつくのだ。この鍋の焦げのように。そして、香子はその恐怖心を頭からふるい落とす方法を知らない。これを思い出してしまっては、一心不乱に爪で引っ掻きまし血まみれになる以外に、心の落ち着きを取り戻す方法を知らない。この焦げの落とし方が分からないように。

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